大学院に進んで修士を、アメリカに留学して博士号を、という計画を彼から聞いた時、そのチャレンジに心から賛同した。それに、しばらくの間離れ離れになったとしても、それで2人の関係が終わるはずはないと信じていた。笑美が大学に入学して彼と結ばれた時、彼は「君を世界一幸せにする」と言ってくれたからだ。
それはプロポーズの言葉そのものだと思った。その時は心が震えて何も言えなかったが、一生のパートナーとして彼と歩むことは自分にとって最高の幸せであると信じることができた。
彼はベッドの中で腕枕しながら自らの置かれた立場を話してくれた。最上製薬の跡継ぎであり、それを全うしようとしている覚悟を知った。それ以来、彼と過ごすこれからの長い人生を常に考えるようになった。それは夫婦という側面だけでなく、社長夫人という立場に思いを寄せることでもあった。
昨日で薬学部3年生の後期試験が終わったが、気を抜くことはできなかった。卒業時の薬剤師国家資格取得を目指して勉強に励まなければならないからだ。それは製薬会社の社長となる彼のパートナーとして最低限の条件だと思っていた。
しかし、その一方でもう一つの夢が膨らんでいた。ジャズピアニストになる夢だった。幼い頃からピアノを習い、高校に入ってからはジャズに魅了され、大学に入ってからは一層腕を磨いてきた。MOGAMIZとして、またソロとして、各大学で演奏する度に盛大な拍手を貰えるようになった。常にアンコールを求められるようになった。更に、プロにならないかという誘いも受けるようになった。『美人薬剤師ピアニスト』というキャッチコピーで売り出したいという芸能プロダクションまで現れた。もちろん、芸能界に入るつもりはまったくなかったが、プロのジャズピアニストとして活動をしたいという願望は日に日に強くなっていた。
笑美には誰にも話していない大きな夢があった。薬剤師国家資格を取得したあと、アメリカに渡って有名な音楽院で学ぶことだった。その名は『ジュリアード音楽院』。1905年に創立されたジュリアードは世界一の音楽大学と評されており、一流ミュージシャンへの登竜門とも呼ばれている。そこで学んでアメリカでレコードデビューする夢が膨らんでいたのだ。
しかも好都合なことに、ジュリアードのある場所はニューヨークで、彼が留学を予定しているボストンとはアムトラック(長距離特急列車)で最速3時間半の距離にある。安く行きたい時はバスもある。これだと5時間はかかるが、一泊すればなんの問題もない。日本とアメリカで離れ離れに暮らすよりはよっぽどいいに決まっている。そういうこともあって、気持ちはジュリアード留学へと大きく傾いていた。
しかし、情報が足りなかった。大きな書店に行っても、大きな図書館に行っても、より詳細なジュリアードの情報を得ることはできなかった。周りにいる人たちも情報は持っていなかった。
もっと具体的なことが知りたい、
自分が合格できるレベルなのかどうか知りたい、
そんな焦りにも似た気持ちを抱えて日々を過ごしていた。
そんな時、たまたま手に取った音楽雑誌で、ジュリアードを卒業した日本人女性ピアニストのインタビュー記事を目にした。その人は昨年帰国して東京を中心に活動していた。インタビュー記事を読みながら、これは何かの縁だと思った。
だから、藁にも縋る思いでそのピアニストに手紙を書いた。住所がわからなかったので、彼女が所属するレコード会社宛に送った。1枚目には、この手紙を彼女に渡して欲しいと書き、2枚目以降には、なんとしてもジュリアードを受験したいという熱い想いを綴った。すると、信じられないことに返事が届いた。会ってくれるというのだ。
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指定された日時にピアニストの自宅を訪問した。可愛い花束を手土産に持っていった。その名は『ペンタス』。ピンクの小さな花が密集して可愛く咲いていた。これを買ったのには理由があった。店の人が教えてくれた花言葉が気に入ったからだ。それは、『希望が叶う』というものだった。
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応接室に通されて自己紹介をしたあと、すぐに想いをぶつけた。なんとしてでも合格したいと身を乗り出して訴えた。ピアニストは頷きながら聞いてくれたが、話し終わると、厳しい表情になり、ジュリアードのレベルの高さを具体的に話し始めた。
入学するのは簡単ではないこと、実技試験が難しいこと、超一流のプロと比肩する実力を持つ教授たちの耳を満足させるのは容易ではないこと、合格率は5パーセント前後であること、しかも、アジア出身者の門戸は更に狭いこと、などを言い聞かせるように告げられた。そして、「あなたの演奏を聞かせて」と言って、立ち上がった。
その瞬間、これは受験だと思った。目の前のピアニストに認められなければ次はないと思った。だから持てる限りの情熱をぶつけてピアノを弾いた。持てるテクニックをすべて出してピアノを弾いた。
弾き終わると、拍手が返ってきた。素晴らしいと褒めてくれた。嬉しかった。予期せぬ反応に嬉しさを隠すことができなかった。しかし、それも束の間、厳しい現実を突き付けられた。確実に合格するためには更なるレベルアップが必要だとも言われたのだ。そのためには受験前に1年間アメリカで一流のレッスンプロについて練習したほうがいいとアドバイスされた。合格できるかどうかギリギリのレベルだというのだ。それを聞いて、目の前に高い壁が立ちはだかったように感じた。呆然としていると、更に追い打ちをかけるような言葉が襲ってきた。
「ご両親の負担は相当なものになるわよ」
大丈夫? という感じで経済的な負担の心配を口にした。
その金額は驚くべきものだった。学費と寮費、それに食費を合わせると年間に1万ドル以上が必要だという。ドル/円レートは約300円だから、換算すると300万円を超えることになる。それが大変な金額だということを数字を用いてわかりやすく説明してくれた。日本の給与所得者の平均年収が200万円なので、その1.5倍に相当する金額だという。その上、もし2年間の修士課程を経て博士課程に進むコースを選択した場合、必要な金額は1,000万円を遥かに超えることになるという。
それを聞いて絶句した。1,000万円なんて、とても親に言える金額ではなかった。夢が急速に萎んでいった。
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うな垂れて家に帰ったが、当然のように食欲はまったくなく、夕食を食べずにベッドに横になった。演奏レベルをもう一段引き上げないといけないという現実に加えて、金額の件が重くのしかかっていた。努力は自分で出来るが、お金はそうはいかない。親に頼らない限りなんともならないのだ。天井に目をやると、1,000万円という文字が浮かんで見えた。見当もつかない金額だった。
寝返りを打った。その途端、「家が裕福だったら」という声が漏れた。本音だった。本音だったが、それを吐いた自分に強い嫌悪が襲ってきた。小さい頃からピアノを習わせてもらって、今は授業料の高い薬学部に行かせてもらっている。こんなに恵まれているのにまだ多くを望んでいる自分が恥ずかしくなった。
わたしって最低だ……、
思い切り唇を噛んだ。



