そんな日が10日ほど続いたあと、久し振りに部室に寄った。ドアには鍵がかかっていた。何故かほっとした。3人の声が聞こえたらドアを開けずに帰るつもりだったからだ。

 鍵を開けて中に入った。部室の中は何も変わっていなかった。タッキーの定位置に座ると、彼のニオイがした。ベスの定位置も、キーボーの定位置も一緒だった。でも、自分の定位置にそれはなかった。完全に消えていた。ここに居場所はないと思うと、『お払い箱』という言葉が頭に浮かんだ。すぐに立ち上がって、部室をあとにした。

 学食に行こうかと思ったが、彼らと顔を合わすかもしれないと思うと、足は向かなかった。大学を出て5分くらい歩いたところにある定食屋に行った。安くてボリュームのある人気の店だ。

 店に入ると、サラリーマンや学生で賑わっていたが、それでも入り口近くのカウンター席が空いていたので、そこに座った。
 迷わず生姜焼き定食を頼んだ。それが運ばれてくるまですることもないので、天井近くに備え付けられたテレビをぼんやりと見ていた。

 政治や経済のニュースをやっていた。興味のないものばかりだった。それが終わると、いきなり荒れた海が映し出された。海難事故のニュースだった。オホーツク海で漁船が転覆したらしい。漁船が大きな横波を受けて転覆したのだという。直ちに海上保安本部の飛行機が現場に向かって捜索を始めたが、近くに救命いかだの姿はなく、浮き輪も救命胴衣も発見されていないという。救助のために巡視船が向かっているが、到着するまでにかなりの時間を要するので、救助のために残された時間は多くないとアナウンサーが深刻な表情で伝えていた。

 画面が変わって漁港が映し出された。乗組員の家族が漁協の建物に集まっていた。誰もが悲痛な表情を浮かべていた。

 若い女性がクローズアップされた。両手で顔を覆っていた。その祖母らしき人が彼女の背中を擦っていた。祖父らしき人が彼女の肩に手を置いてインタビューに答えていた。彼女の婚約者がその船に乗っていて、来月結婚式を挙げる予定なのだという。

「この子が赤ん坊の時に漁に出ていた両親が海で亡くなって、その上、婚約者まで……」

 声が途切れた。唇が震えていた。目は真っ赤になっていた。凍てつくような空気がその場を支配した。それが永遠に続くかと思われた時、老人が無理矢理という感じで涙を拭って、掠れた声を絞り出した。

「無事帰ってくることを」

 その途端、彼女が嗚咽を漏らした。祖母の目から大粒の涙が零れた。インタビュアーも目を真っ赤にしていた。居たたまれなくなったように画面が変わり、荒れた北の海が映し出された。海鳴りが聞こえたような気がした。それは、彼女の悲痛な叫びのように感じた。もうテレビを見ていられなくなった。

 トイレに行って個室に入り、トイレットペーパーを破って鼻を噛んだ。オシッコはしなかった。手を洗って席に戻った。

 食欲はなくなっていたが、運ばれてきた生姜焼き定食を見たらお腹が鳴った。朝食を食べていなかったからペコペコだった。美味しいとは感じなかったが、なんとか食べ終えた。しかし、みそ汁はほとんど残した。北の海に見えて飲む気がしなかった。

 助かりますように。

 みそ汁に向かって手を合わせた。

        *

 その夜のニュースで海難事故の続報を見た。生存者を見つけることができなかったと伝えていた。船は沈没してしまっていた。白い波が立つ海面が映されていたが、そこに命の気配を感じることはできなかった。捜索は続いていたが、絶望的だとアナウンサーが告げていた。
 絶望的という言葉に心が凍った。しかし、もうどうしようもないということも事実だった。白い波頭(はとう)が踊る画面を見ながら、彼女はどうしているだろうかと思いを馳せた。
 すると、顔を両手で覆った彼女の姿が浮かんできた。嗚咽が耳の奥でこだました。でも、諦めてはいないはずだ。婚約者が必ず生きて帰ってくることを信じているはずだ。祈り続けているはずだ。そうであって欲しい。テレビに映っている北の海に向かって手を合わせた。

        *

 なかなか寝付けなかったが、眠りにつくと、彼女の夢を見た。ベッドにうつ伏せになっていた。横顔が見えたが、疲れ果てて眠っているようだった。
 机の上にはウエディングドレス姿の写真があった。前撮りの時の写真だろうか、その横には彼氏とのツーショット写真が飾られていた。幸せ絶頂の笑顔だった。
 招待者リストも置かれていた。式次第もあった。毎日何度も目を通してその日が来るのを待ちわびていたのだろう。でも、その日は来ない。永遠に来ない。永遠に……。

 真夜中に目が覚めると、何かに引っ張られるように体が起き上がり、椅子に座らされた。机の上にはノートが広げられていた。ボールペンを持つと、勝手に手が動いた。何かが取り付いているように動き続けた。

 しばらくして手が止まった。ボールペンを置いて、書かれたものを読んだ。詩のようだった。彼女の身に降りかかった悲惨な状況が綴られていた。両親の死、フィアンセの死、そして、彼女の祈り。

 ギターを手にすると、メロディーが浮かんできた。生音でつま弾きながら次のメロディーを探した。それを繰り返してラジカセに録音した。

 昼前に曲が完成した。テープを取り出して、タイトルを考えた。夢の中の彼女の顔を思い浮かべて、これから独りぼっちで生きてかなければならない残酷な運命に心を寄せた。すると、自然に言葉が出てきた。

『ロンリー・ローラ』

 これ以上のタイトルはなかった。テープの表面(おもてめん)に書いて、その下に作詞作曲スナッチと書き加えた。そして、彼らが受け取ってくれますように、とテープに祈りを込めた。