最上製薬の社長になることが約束されていた。
 いや、決められていた。
 一人息子である自分に他の選択肢はなかった。

「運命だからな」

 親友の須尚(すなお)に対していつもそう言っていたが、本当になりたい職業は製薬会社の経営者ではなかった。クラシック・ピアノの演奏家になるのが夢だった。

 幼稚園に上がった頃からピアノを習い始めて、すぐに夢中になった。特にショパンの曲が大好きだった。暇さえあればショパンを弾いていた。夢の中でも練習しているくらいだった。

 中学生になると、音大卒の演奏家から個人レッスンを受けるようになった。教え方の上手な先生で、褒めて褒めて褒めまくられた。そのせいか更に練習に熱が入り、三度の飯よりもピアノという感じになった。

 当然のように、ピアノ・コンクールでは何度も優勝した。しかし、受験を控えた中学3年生の夏、習うのを止めた。それは当然のことだった。敷かれたレールの上を走らなければならないからだ。だからトップクラスと評判の私立高校に入ってからも、一度もピアノに触らなかった。

        *

 転機が訪れたのは大学入学後のサークル勧誘だった。ジャズ演奏同好会の勧誘を受けて足を運ぶと、心地良いピアノの音が聞こえてきた。『ジャズピアノの詩人』と呼ばれたビル・エヴァンスの有名な曲だった。
 弾いていたのは丸顔のぽっちゃりとした女性で、顔にはまだあどけなさが残っていた。ベースとドラムをバックにしたシンプルな演奏だったが、しなやかな指が紡ぐメロディーは心を捉えて離さなかった。

 演奏が終わると同時に拍手をしていた。そのくらい素晴らしかった。彼女はちょっとはにかんだようになったが、すぐに笑みを浮かべて軽く頭を下げた。すると、サークルの代表が彼女を紹介してくれた。

「『もがみ・えみ』さんです」

 えっ、もがみ? 
 同じ名字? 
 もしかして、遠い親戚? 
 まさかね……、

 ちょっと驚いたが、そんなふりを見せないようにして自らの名前を告げた。

「俺もモガミです」

 告げた途端、彼女の目が真ん丸になった。

「わたしは『上に茂る』と書きますが、同じ漢字ですか?」

「いえ、『最も上』と書く最上です」

 すると突然、笑い声が聞こえた。見ると、サークルの代表が破顔していた。

「これは面白い。2人がバンドを組んだら〈最も上に茂る〉、つまり、一番人気の大評判のバンドになるぞ」。そして、「もう決まりだ。これ、入会届。今書いて出して」と演奏も聞かずに押し付けられた。余りにも強引なのでちょっと引いてしまったが、これも何かの縁だと思い直して素直に従った。

 書き終わると、彼女が高校生だということを告げられた。付属高校の軽音楽部に所属しているのだという。大学との合同演奏会を年に2回行っているのだが、1年前から合同演奏会の連絡係をすることになって、ちょくちょく打ち合わせに来るようになったのだそうだ。

「気づいたら準メンバーのような感じになっていて、時々こうやってピアノを弾かせてもらっています」

「ピアノが上手いだけじゃなくて成績も抜群だから、推薦入学間違いないしね」

 代表が自分のことのように自慢すると、彼女は謙遜するかのように首を振った。

「ところで、君はどこの学部?」

「あっ、はい、薬学部製薬学科です」

「へ~、笑美ちゃんの志望学部じゃん」

「あ、そうなんですね」

 すると彼女は頷いて、「先輩、よろしくお願いします」と、まだそうなったわけでもないのに親しげな視線を送ってきた。

「こちらこそ」

 ほんの少し頭を下げたが、最上製薬の跡継ぎだということは言わなかった。

        *

 翌週、同好会室に行くと、いきなり代表から「モガミズがいいんじゃないの」と言われた。なんのことかわからないので訊くと、バンド名だという。エム、オー、ジー、エイ、エム、アイ、ゼットで、MOGAMIZなのだそうだ。

「2人の名前を組み合わせたり色々考えたんだけどね」

 悪戯っぽくニヤッと笑った。

「MOGAMIZがいいと思うんだよ、絶対に」

 そして、「いいよね、決めるよ」とさも当然というように同意を促した。すると、「いつものことなの」というように茂上が小さく両手を広げたので、仕方ないね、と最上は笑いながら返した。それを了解と受け取ったのか、「よし決まり!」と代表に肩を叩かれた。そして、「同じ『もがみ』でややこしいから、2人を下の名前で呼ぶことにするね」と、これも勝手に決められてしまった。

        *

 今秋の大学祭に関するミーティングが終わって代表やメンバーが退室したあと、ピアノチェアに座った彼女が躊躇いがちに口を開いた。

「あの~、ジャズの演奏経験ってありますか?」

「いや、ずっとクラシックだったから」

 ショパンならほとんどの曲が弾けると伝えた。すると、一気に顔を綻ばせた。

「わたしも大好きです、ショパン」

 そして鍵盤を軽やかに叩いた。『子犬』だった。ワルツ第六番変ニ長調。2分弱の短い曲の中で、子犬が自らのしっぽを追いかけてグルグル回る様子が表現された可愛い曲。彼女にピッタリの曲だと思った。

(きわむ)さんも弾いてみて」

 いきなり名前を呼ばれて驚いたが、それを顔には出さないようにしてピアノチェアに腰かけた。そして、鍵盤の上に指を置いた。
 3年半ぶりのピアノだった。少なからず緊張したので、心を落ち着かせるために大きく息を吸った。そして鍵盤から少し指を浮かせて、そのままの状態で頭の中にメロディーが流れてくるのを待った。

 満ちてきた。
 メロディーが満ちてきた。
 すると指が自然に動き始めた。
 気づいたら鍵盤の上を指が縦横無尽に動き回っていた。
 自分でも信じられないくらいに力強くショパンの舞曲を奏でることができた。

 弾き終わると、彼女がびっくりしたように大きく目を開けて見つめていた。目が合うと、ハッと気づいたように拍手を始めた。そういう反応を予想していなかったのでちょっとびっくりしたが、「どうも」と言って軽く頭を下げた。

 それから交互にピアノを弾いて1時間ほど過ごしたあと、彼女を喫茶店に誘った。

 最寄り駅の近くにあるこじんまりとした店だった。コーヒーを頼むと、彼女はミルクティーを注文した。

 ピアノ演奏に魅了されたと彼女は何度も言った。ショパンの曲を3年半振りに弾いたなんて信じられないと。そしてニコッと笑って、「わたし、ショパンのボロネーゼが大好きなんです」と言った。

「えっ、ボロネーゼ?」

 思わず笑ってしまった。すると、なんで笑うの? というような表情になった。言い間違いがわかっていないようだったので、「笑美ちゃん、それはスパゲッティだろ」と指摘したが、それでも気づかないようだった。彼女はキョトンとした顔でこちらを見つめていた。

「ショパンの曲は、ポロネーズ!」

 正しい曲名を告げると、すぐにヤダ~と言って両手で顔を隠した。両手で隠したまま、イヤイヤと首を横に振った。

「もう、わたしったら……」

 穴があったら入りたいというような顔になった。その仕草と表情に見惚れた。可愛いな、と思った。すると、胸の中で八分音符が軽やかに弾んだ。

        *

 MOGAMIZは秋の大学祭でデビューを果たした。屋外ステージにピアノを2台並べてショパンの曲をジャズ風にアレンジして演奏した。
 1曲目は自分がリードを取る『ポロネーズ〈軍隊〉』で、
 2曲目は笑美が単独で弾く『子犬』、
 3曲目の『幻想即興曲』は連弾による速弾きを披露した。

 弾き終わった瞬間、どよめきが起こった。と同時に拍手が沸き起こり、指笛がそれに重なった。
 信じられないほどの反応だった。鳥肌が立って何がなんだかわからなくなった。それは笑美も同じようで、呆然とした様子で鍵盤に手を置いたまま固まっていた。

「立って!」

 部長の声で我に返った。慌てて立ち上がって、笑美を促して2人でお辞儀をすると、勢いを取り戻した波のように拍手が押し寄せてきた。

 会場が静まるのを待って『夜想曲第二番変ホ長調』を弾いた。甘美で夢創的な美しいノクターンに誰もが魅了されているようだった。
 そのせいか、指が鍵盤を離れてしばらく経ってから静かな拍手がさざ波のように始まり、それがいつまでも続いた。誰もが余韻の中にいるように思えた。

 拍手が収まると、笑美に目で合図をして、最後の曲を弾き始めた。『ワルツ第一番変ホ長調〈華麗なる大円舞曲〉』
 すると、演奏につられるように学生たちが踊り始めた。社交ダンス部の学生だろうか、彼らは古き良き時代の貴族のように優雅に舞った。

 演奏が終わってお辞儀をすると、また大きな拍手が押し寄せてきた。それだけでなく、アンコールを求める拍手が鳴り止まなかった。
 これには困った。アンコール曲を用意していなかった。しかし、観客はそれを許してくれなかった。

 どうしましょう、

 困り顔の笑美が耳元で囁いた。と言われても返す言葉はなかったが、突然、あることが閃いた。それを囁き返すと、彼女の目がぱっと明るくなった。そして、うん、という感じで頷いた。

 椅子に座った絵美が『子犬』を弾き始めた。それを追いかけるように同じメロディーを弾いた。犬の尻尾を笑美が、それを追いかける犬の口を表現するように演奏したのだ。

 エンディングで追いついて同時に弾き終わった瞬間、会場を埋め尽くす観客が全員立ち上がって頭の上で手を叩き始めた。スタンディングオベーションだった。予期せぬ出来事に驚いたが、すぐに立ち上がって観客に拍手を送った。すると会場からの拍手が一段と大きくなった。それに応えて笑美の右手を持ち上げると、彼女は貴族のようにスカートの裾を持ち上げ、足を折ってお辞儀をした。その瞬間、拍手が更に大きくなった。「ブラボー」という掛け声がいつまでも続いた。