蒼真に名前で呼ばれた日から、俺の毎日は変わった。
学校でも、蒼真が俺を見る目が優しくなったような気がする。相変わらずクールだけど、時々見せる小さな笑顔が、俺をドキドキさせる。
クラスメイトの前では相変わらずあまり話すことはない。目で合図する秘密の関係が続いている。
(今のままでいいと蒼真は言ってくれたけど、本当にそれでいいのかな?)
でも、まだ何かが足りない気がしていた。
蒼真は俺に想いを告白してくれた。でも、俺はちゃんと答えられてない。その時は、頭が真っ白になって言葉が出なかったんだ。
俺も蒼真のことが好きだと思う。友達以上に。でも恋愛感情ってなんだろう?まだ恋を知らないから、すぐ返事できなかった。同じ気持ちの大きさなのかも分からなくて。
(でも、最近蒼真のことばかり考えてる。これはもう……)
(答えは見つかっているのかもしれない)
(俺も、蒼真に何かしてあげたい。蒼真が俺にしてくれたみたいに)
そう思って、俺は月香堂を訪れた。
月乃「星野くん、いらっしゃい」
月乃おばあちゃんが出迎えてくれた。
春愛「あの……お願いがあるんです」
月乃「何かしら?」
春愛「蒼真に作ってあげたいんです。何か、美味しいもの」
月乃おばあちゃんの目が、嬉しそうに細まる。
月乃「あら、いいわね。何を作りたいの?」
春愛「えーっと……蒼真がよく作ってるパンデピス?」
月乃「ああ、フランス風のパンデピスね」
月乃おばあちゃんは奥から古い本を持ってきた。
月乃「じゃあ、キャトル・エピス教えるわね」
春愛「キャトル・エピスはこの間、蒼真と作ったよ」
月乃「ああ、そうだったわね。あれね、フランス語で『4つのスパイス』という意味で、フランス料理の伝統的なスパイスミックスなのよ。ペッパー、クローブ、ナツメグ、ジンジャーを絶妙な比率で混ぜ合わせて、パンデピスにはシナモンとカルダモンも追加するの」
春愛「へ~いっぱいスパイス入ってるんだね。でも全然辛くないよ」
月乃「そうね。ハチミツが入ってるから辛さは感じないかも。このスパイスはね、心を温めて、愛を深める効果があるのよ。好きな人にこのキャトル・エピスを入れたお菓子をプレゼントすると上手く気持ちが伝えられるんだよ。恋の媚薬だから」
月乃おばあちゃんは笑顔で話してくれる。
(好きな人にお菓子をあげると上手く気持ちが伝えられる?恋の媚薬……俺には必要だ、まず告白する勇気が足りないから)
春愛「凄いね、恋の媚薬なんだ……知らなかった」
(あれ?蒼真がしょっちゅうパンデピスくれてたのは、俺に気持ちを伝えるために頑張ってたのか……なんか可愛いことするな、意外すぎる)
月乃「でも、シンプルだから、とても難しいのよ。少しでも分量を間違えると、失敗しやすいから」
春愛「俺にできるかな……」
月乃「大丈夫。愛があれば、きっとうまくいくわ」
◇
それから一週間、俺は毎日放課後に月香堂の月乃おばあちゃんの工房で、パンデピス作りの練習を始めた。蒼真は俺が練習している時は、月乃おばあちゃんに止められて中には入って来ない。月乃おばあちゃんが言うには、作ってる最中に好きな人に見られると、恋の媚薬が効かないらしい。
俺はかなり頑張っていた。でも、全然うまくいかない。
1回目はハチミツが多すぎて焦がし、2回目はスパイスの分量を間違えて苦くなり、3回目は卵を入れ忘れて生地がうまく膨らまなかった。
春愛「くそー!蒼真みたいに上手くできない!」
俺は頭を抱えた。
月乃「春愛くん、焦らなくて大丈夫よ」
月乃おばあちゃんが慰めてくれる。
春愛「でも、全然うまくいかないんです。俺本当に不器用なんです」
月乃「蒼真だって、最初はうまくできなかったのよ。何度も失敗して、泣きながら練習してたんだから」
(蒼真が泣きながら?想像できない……)
月乃「あの子、あなたに美味しい料理を作ってあげたくて、必死に練習してたのよ」
(俺のために……?嘘だろ?蒼真は最初からなんでもうまく作れる人だと思ってた……)
月乃「だから、あなたも諦めちゃだめ。想いがあれば、きっと伝わるから」
(想いがあれば伝わる……俺の気持ち、蒼真に伝わるかな)
春愛「もう1回、頑張ってみます」
◇
5回目の挑戦。俺は慎重にスパイスを量り、ハチミツを加え、生地をさっくりと混ぜた。
(今度こそ、うまく作れますように)
オーブンから甘い香りが漂ってくる。今度はうまくいきそうだ。
月乃「いい香りね。今度は成功しそうよ」
春愛「本当ですか?」
月乃「ええ。愛の力ね」
(愛の力……俺、蒼真のこと本当に好きなのかな)
パンデピスが焼き上がった。形は崩れているけど、今までで一番美味しそうだ。
春愛「やった!できた!」
月乃「おめでとう。きっと蒼真も喜ぶわよ」
(これで蒼真に気持ちを伝えられるかな……でも、まだ怖いな)
◇
月香堂のカウンター。夕陽がガラスのフラワーベースに映り、キャトル・エピスの甘くスパイシーな香りが漂う。
俺はやっと完成したパンデピスを包装していた。でも、手が震える。
(本当に渡していいのかな……もし蒼真が困ったりしたら……)
(でも、蒼真も俺にたくさん料理を作ってくれた。今度は俺の番だ)
俺は震える手でパンデピスを包み、蒼真を呼び出した。
蒼真がすぐに来てくれて、静かに俺を見つめる。
蒼真「どうした?大丈夫か?ばあちゃんになんかやらされてたけど」
春愛「あの……これ」
俺は緊張しながら、包みを差し出した。
春愛「俺が作ったパンデピスなんだけど……めちゃくちゃ下手で、ボロボロだけど……」
蒼真「春愛が作ったのか?ばあちゃんじゃなくて?」
春愛「うん……貰ってくれる?」
蒼真「うん、うわ~凄いじゃん」
包装紙を開く蒼真。形は不恰好で、ボロッと崩れてしまう。でも、それを見ても満面の笑みを浮かべて、じっと見つめている。
(やっぱり下手すぎて困ってる……?)
蒼真「……食べてみる」
蒼真が一口食べた。俺の心臓が止まりそうになる。
蒼真「……美味しい」
春愛「え?」
蒼真「春愛が作ってくれたから、めちゃくちゃ美味しい」
俺の瞳に涙が滲んで、今にもこぼれそうになる。
春愛「本当に?でもこんなボロボロなのに……」
蒼真「嘘じゃない。こんな美味いパンデピス初めてだ。キャトル・エピスの配合が絶妙だ」
蒼真が俺をじっと見つめた。
春愛「本当に?」
蒼真「このキャトル・エピス、俺の心に効きすぎて、もはや劇薬だ」
春愛「蒼真……」
(今だ。今なら言える)
でも、言葉が出てこない。胸がドキドキして、喉が詰まったみたいになってしまう。
蒼真「ん?」
春愛「あの……あの時、ちゃんと答えられなかったけど」
俺は勇気を振り絞った。
春愛「俺も、蒼真のことが……す、すっ、すっ!」
言おうとして、なぜか噛む。
春愛「す、スパイス!……じゃなくて……」
(なんでスパイスが出てくるんだよ!緊張しすぎだろ俺!)
俺は言葉を噛んで顔が熱くなる。蒼真が俺の顔を覗きこみ額に軽くデコピンをした。
蒼真「スパイスがなんだ?今度、一緒に新しいスパイス試してみるか?」
春愛「違う!好きって言いたいんだよ!」
俺は真っ赤になって叫んだ。
蒼真の頬も、赤くなった。
蒼真「……俺も」
春愛「何?」
蒼真「俺も、春愛のことが好き。ずっと……」
(2回目だけど、やっぱりドキドキする。好きって言葉の威力凄すぎる……)
俺は勇気を振り絞り、蒼真の両肩に手を置き、頬にそっとちゅっとキスをした。キャトル・エピスの香りがふわっと漂う。
蒼真「!」
蒼真が目を丸くする。
春愛「好き」
今度はちゃんと言えた。
(声に出した瞬間、胸の奥で弾けるみたいに景色が眩しく見えた。ただ「好き」って言っただけなのに、こんなに世界が変わるんだ)
蒼真は顔を真っ赤にして、嬉しそうに笑ってくれている。
蒼真「俺も……春愛のことが大好きだ」
春愛「俺も……大好き」
蒼真「……春愛」
蒼真は目を細め、俺をギューと抱きしめ、胸に引き寄せた。俺の心臓がドクドクと鳴り、蒼真の指が俺の背中に回る。
(蒼真の匂い……スパイスみたいに甘くて温かい)
蒼真「春愛、こんな重い男なのにいいのか?」
春愛「……いいよ。当たり前じゃん。俺のこと、世界一好きだから」
蒼真「……確かに。世界一好きだ」
春愛「だったら答えはひとつだ」
(重いなんて思わない。俺にとっては、それが一番の安心なんだ)
蒼真が俺の顎をそっと持ち上げて、親指で俺の唇を優しくなぞる。キャトル・エピスの甘い香りが、二人の息遣いに混ざっていく。
蒼真「……苺じゃないんだな」
春愛「え……苺?」
蒼真の指が、俺の唇の輪郭をゆっくりと辿る。優しいのに熱い感触。
蒼真「ずっと、苺の幻だと思ってた。でも、本物なんだな……春愛の唇は、俺のものだ」
(蒼真の声が低くなり震えてる……俺の心臓、もう壊れそうだ……)
蒼真の瞳が、キラキラと輝いていて綺麗だ。恥ずかしくなった俺はふいに目を伏せる。
蒼真「春愛……逃げないで、こっち見て」
息が触れそうな距離で、目が合い、胸が痛いほど高鳴って、視線を逸らせない。
(もう、蒼真からは逃げられない……)
次の瞬間、唇が重なった。最初は触れるだけの軽いキス。でも、すぐに蒼真の手が背中に回り、強く抱き寄せられる。
(やばい……心臓が破裂しそうだ)
(温かさと甘い香りに包まれて、息をするのも忘れる……もう、チョコみたいに溶けそう)
ほんの一瞬のつもりが、蒼真は離れない。もう一度、今度は少し深く唇が重なって、俺の指先が蒼真の制服の袖をぎゅっと握る。
(……あったかくて優しくて、雲の上にいるみたいだ。でも、なんでこんなにドキドキするんだよ……)
何度も重ねられる唇に、俺の肩が小さく震えた。呼吸が乱れて、胸の奥が熱くて苦しくなる。
春愛「ん……も、もう……蒼真……息、できないって……!」
蒼真はハッとして唇を離し、額をコツンと合わせ、頬を赤くしたまま小さく笑う。
(唇が離れた後も、心臓は暴れっぱなしで止まらない。俺たち、もう友達には戻れないんだ……って実感した)
蒼真「……ごめん。でも、もう離したくない」
春愛「……バカ。俺もだよ」
(こんなの……もう二度と逃げられない)
春愛「蒼真……」
蒼真「春愛」
春愛「何?」
蒼真「……今度から、毎日一緒にスパイス調合するぞ。ガラムマサラ作ってお前の好きなスパイスカレー一緒に作ろう」
春愛「え?一緒にガラムマサラ?」
蒼真「一緒に」
蒼真が俺の手を取る。
俺は頷いた。
春愛「うん!」
◇
それから、俺たちは毎日一緒にスパイス調合をするようになった。
蒼真が先生で、俺が生徒。でも時々、俺が変なアイデアを出すと、蒼真が「それは危険だ」と言って止めてくれる。
蒼真「春愛、その組み合わせはダメだ」
春愛「えー、でも美味しそうじゃん」
蒼真「絶対、ダメ、お前のドーシャには合わない」
春愛「ドーシャ?」
蒼真「うん、まあ詳しいことはまた今度な」
そんなやり取りが、すごく楽しい。
月乃「どうしたの、なんかもめてるの?喧嘩しちゃダメよ」
蒼真「ばあちゃん、勝手に入ってくるなよ」
春愛「月乃おばあちゃん、お邪魔してます」
月乃「星野くん、良かったわね、想いを伝えられて」
蒼真「ばあちゃん……」
春愛「はい!キャトル・エピス効きました!凄い媚薬です」
月乃「あ~媚薬ね。ばあちゃんが作ったのよ、そのお話。フフッ」
蒼真「は?」
春愛「え?」
月乃「実はね、キャトル・エピスに媚薬の力なんてないのよ。ただのフランスの古いスパイスミックスだからね。私が昔、じいさんにプロポーズされた時も、キャトル・エピス入りのパンデピス作ってもらったのよ。それで『恋の媚薬』って話を作って、蒼真に教えたの」
春愛「ええ!?嘘だったの!?」
春愛の目が丸くなる。
蒼真「……薄々気づいてた」
春愛「蒼真、知ってたの!?なんで教えてくれなかったの!」
蒼真「薬草の本に媚薬の記述がなかったから、調べたんだ。でも、春愛が信じてるの見てたら……そのままでいいかなって」
俺は頬をプク―と膨らませた。
春愛「もう!騙された!」
月乃「フフッ、でもね、蒼真のお父さんとお母さんも、キャトル・エピス入りのお菓子で恋が始まったのよ。お母さんがお父さんに手作りクッキー渡した時にね」
蒼真「……それも嘘だろ」
月乃「本当よ~。料理には、作る人の気持ちが込められるものなの。キャトル・エピスは媚薬じゃないけど、想いを伝えるきっかけになるのよ」
春愛「そうなんだ……でも、嘘でもキャトル・エピスのおかげで、蒼真に想いを伝えられたから良かったです!」
月乃「そうよ。大切なのは、二人の気持ちなんだから」
蒼真「はぁ~やられたな~ばあちゃんに騙された」
春愛「いいじゃん!月乃ばあちゃんにキャトル・エピスが恋の媚薬なんだって教えてもらってから、蒼真がいっぱいパンデピスとかハンバーグ作ってくれてたこと思い出して、俺嬉しかったもん」
(媚薬じゃなかったなんて、ちょっと拍子抜けだけど、俺たちには本当に効いてたんだから……それでいいや)
蒼真「ちょっと恥ずかしいし……でも、まあ、いっか、春愛に告白出来たから」
春愛「俺も!なんか不思議と勇気でたもん」
◇
――その後。
月香堂の奥で、二人でスパイスの香りに包まれながら、料理やお菓子を作る毎日が始まった。
春愛「蒼真」
蒼真「ん?」
春愛「キャトル・エピスの秘密、知れて良かった?」
蒼真「うん、まあ」
春愛「嘘の媚薬でも、真実の気持ちが育ったなら十分だよな」
蒼真が驚いたような顔をする。
春愛「蒼真が作ってくれるパンデピスも、ハンバーグも、薬膳カレーも……全部、愛情の味がしてたから」
蒼真「春愛……」
春愛「だから今度は、俺が蒼真に美味しいもの作ってあげる。キャトル・エピスじゃない、俺だけのスパイスで」
蒼真「お前だけの?」
春愛「うん!この香りを嗅ぐだけで、いつでも俺を思い出してもらえるような……そんなスパイス・ミックスを見つけたい」
蒼真が俺を見つめる。その瞳が、すごく優しい。
蒼真「春愛の笑顔が見れるものを、作ろう」
(俺の笑顔か……心がポカポカと温かくなってくる)
蒼真「最近、春愛が食べ物に興味を持ってくれて嬉しい。顔色も良くなったし、あまり倒れなくなったよな?」
春愛「うん!朝ごはんも食べるようになったし、栄養がいっぱい身体の中に蓄えられた気がする。1人でもちゃんと食べるよ。蒼真が色々教えてくれたから元気になれたし」
(蒼真の料理は、キャトル・エピスが入らなくても、俺の心に染み込んでいるよ)
春愛「また明日も、一緒に作ろう」
蒼真「うん。また明日」
これからも、蒼真と一緒にいろんなスパイスを調合して、美味しいものを作っていこう。
キャトル・エピスの秘密は明かされたけれど、俺たちの恋は本物だった。嘘の媚薬が運んでくれた真実の恋。
(毎日が、蒼真のおかげでこんなに温かくて幸せになった。この気持ち、ずっと大切にしたい)
俺と蒼真にとってのキャトル・エピスは、ただのスパイスじゃない。恋の始まりをくれた、かけがえのない秘密だ。
(次はどんなスパイスで、何の料理を一緒に作ろうかな?考えるだけで、未来が甘く香っていく)
(これからも、蒼真と一緒にスパイスを混ぜて、笑って、時々喧嘩して。そんな当たり前が、きっと一番幸せだ)
月香堂から漂うスパイスの香りが、二人のこれからを静かに祝っているようだった。
Fin.



