朝、目が覚めると、また夢を見ていた。星野とキスする夢。
(またやってしまった……夢の中でまで星野を……汚す……)
あの事故のキスから数日経つのに、夢に出てくるのはいつも星野の顔だ。
(柔らかい唇の感触、温かい息遣い、驚いたような瞳……)
全部が妙にリアルで、起きても消えない。
(最低だ。俺、何しているんだ……星野に許可も得ずに、勝手に……)
自己嫌悪で胸が重い。
(星野は俺のことを友達だと思っているのに、俺は夢の中で勝手に想いを満たそうとしている。こんなの知られたら、気持ち悪がられて当然だ……)
でも、どんなに後悔しても、星野のことを考えてしまう。あの唇の感触を思い出してしまう。
(忘れられない。夢にまで出てきて、気づけば何度も反芻してしまう……)
俺は頭を抱える。
(これが恋じゃなかったら、なんなんだ。でも、男同士でこんな気持ちになるなんて……)
罪悪感と混乱で、朝から頭がぐちゃぐちゃになる。
月香堂の奥の作業部屋で、薬草の調合をしているが全く手につかない。
古い薬草学の本とスパイス瓶が並ぶ机を前に、俺は唇に触れながら、あの日の出来事を思い返していた。
◇
――星野が初めて月香堂を訪れた時。
俺は張り切って薬膳カレーを作っていた。星野が来るかもしれないと思って。アーユルヴェーダの体質傾向を取り入れて、星野に合うスパイスを配合し、いつもより丁寧に仕込む。
月乃「今日は蒼真、張り切って薬膳カレーを作っているの。星野くんが来るって分かってるみたいにね」
ばあちゃんの言葉に俺は慌てた。ばあちゃんにはいつも色々とバレている。隠し事なんて出来ない。
(まさか、そんなに分かりやすかったのか?恥ずかしい……)
星野が店の奥に現れた時、俺の心臓は跳ね上がった。
香坂「……来たんだ」
春愛「うん。お邪魔してもいい?」
香坂「……いいよ。座ってろ。すぐできるから」
(星野のために作った薬膳カレー。喜んでくれるだろうか)
星野がカレーを口にした瞬間の表情を、俺は忘れることができない。目を大きく見開いて、驚いたような顔をして、それから幸せそうに微笑んだ。
春愛「美味しい……!文化祭の時よりもっと美味しい」
あの時の星野の笑顔はヤバい。心からの笑顔だったから。
(俺の料理で、星野があんなに喜んでくれるなんて……こんなに嬉しいことがあるのだろうか)
(沢山調べて作った甲斐があった。星野の笑顔が見れるなら、何時間でも厨房に立っていられる)
春愛「誰かがこんなに俺のことを考えてくれるなんて、初めてだから」
その言葉を聞いて、俺の胸が締め付けられる。
(星野は一人なんだ。寂しい思いをしているんだ……ほっておけないだろ)
香坂「だったら、いつでもここに来い。腹が減った時、寂しい時、いつでもいい。俺が作ったもの、食べさせてやる」
星野の目が潤んでいた。俺はその瞬間を脳裏に刻む。
(星野を守りたい。幸せにしたい)
その気持ちがますます強くなっていく。
俺たちの手が触れ合った時のことも忘れられない。
香坂「俺……お前と話してると、楽しい」
春愛「俺もだよ?」
(星野の純粋な瞳に吸い込まれそうだ……これ以上、見つめ合うのは危険だ……)
月乃「あら、いい雰囲気ね」
俺たちは慌てて手を離す。嬉しくて恥ずかしいけど、星野を近く感じられた瞬間だった。
(でも、星野はどうして、手を触れたままにしたのだろう……)
◇
――翌日の学校。目が合うたびに、お互い恥ずかしそうに微笑む秘密の時間が始まる。
俺と星野は、ふいに特別な空気を共有していた。昨日のことがあってから、今まで以上に意識してしまう。
昼休み、星野が俺の席の近くを通りかかった時、俺は小さく頷くと、星野も頷き返してくれる。
(目で会話している。特別な関係みたいだ)
(でも、これって何だろう……友達以上の関係なのか?それとも俺の勘違い?)
放課後、俺たちは偶然一緒に校門を出ることになった。でも3メートルは離れて歩く。一緒にいると仲が良いと思われてしまうから。
教室では滅多に話すことはない俺たちの関係は異質だろう。俺と仲良いと思われると星野に迷惑がかかると思うから、空気を読んでいる。
(秘密の関係というやつか……でも、もっと近づきたい。この距離がもどかしい……でも近づけない)
俺が振り返ると、星野が少し恥ずかしそうに微笑む。とても可憐だった。
(星野のそんな顔を、俺だけに見せてくれている……嬉しいのに、苦しくなる)
――そして、あの日。月香堂でキャトル・エピスの調合をしていた時。
月乃「今日は二人で作業してみる?蒼真に教えてもらいなさい」
俺は星野を作業スペースに案内した。近い。すごく近い。二人だといつもより狭く感じる。星野はミルクみたいな甘い香りがする。
(星野の匂いって、こんなに甘いのか……頭がおかしくなりそうだ)
香坂「こうやって、ゆっくり回してすり潰すんだ」
俺の手が星野の手を包む。
(温かくて、柔らかくて……俺を狂わせる。星野の手って、こんなに小さいんだ)
星野が俺の視線に気づき、見つめ返してきた。二人とも視線を外さず、見つめ合う時間が始まる。
(星野の瞳に吸い込まれそうだ……もう少し近づけば、互いの息が混ざり合って、一線を越えてしまいそうで――怖いのに、離れられない)
香坂「……星野」
春愛「な、なに?」
俺の顔がもっと近づいていく。
(触れそうで触れられない距離が、一番苦しい……俺の心の中の悪魔が暴れだし、「今すぐ奪え」って叫んでいる)
(もしこのままキスしてしまったら、もう後戻りはできない。それでも――身体が勝手に動きだしそうだ)
その時、星野の手が滑って乳鉢が傾いた。
星野「あ!」
俺たちが同時に支えようとして……
唇が触れ合った。
(時間が止まったみたいだった)
4つのスパイスの粉が、スローモーションのようにひらひらと舞い散って、甘くてスパイシーな香りが俺たちを包み込む。
(星野の唇は、ずっと苺だと思っていた。甘くて、触れたら一瞬で溶ける果実みたいに)
(でも実際は違った。柔らかくて、熱くて、生きている体温が伝わってきて――頭の中が真っ白になった)
(紛れもなく、生きている人間だった。俺が勝手に作り上げた幻想じゃない、本物の星野春愛だった)
数秒間、俺たちはそのまま離れなかった。
春愛「……っ、あっ」
我に返った星野は、慌てて身を離す。
(キスしてしまった……事故とはいえ、俺たちキスしてしまった……)
星野は真っ赤になって謝り、俺も謝る。でも、心の奥では嬉しくて仕方なかった。
(苺の幻だと思っていた唇は、もう幻じゃない。触れた瞬間に現実に変わって、俺を縛り始めた。もう、逃げられない)
しかし、星野は逃げるように月香堂を出ていった。
◇
――翌日の学校は気まずかった。
昼休み、星野が逃げるように教室を出て行く。俺は追いかけて、星野の腕を掴んだ。
香坂「待って」
人気のない廊下で、俺は星野におにぎりを渡す。
香坂「……昨日の、お詫び」
香坂「……嫌な思いさせて、迷惑かけて……ごめんな」
でも星野は首を横に振る。
春愛「嫌な思いしてないし、迷惑じゃないよ、ただ恥ずかしいだけで……」
(星野も嫌じゃなかった……?マジかよ……)
その言葉で、俺の心は軽くなった。
香坂「……今日も、来れるか?月香堂に。昨日の続き、やろう」
春愛「そうだな!完成させたいよ、キャトル・エピス!ちゃんと行くから」
(星野の笑顔ヤバい……また来てくれるんだ!それだけで俺は救われる)
――その日の放課後の月香堂。
俺たちは一緒にキャトル・エピスを完成させた。
(手が触れるたびにドキドキする……でも、昨日のような気まずさはなく、自然に会話ができている)
お互い意識しているのはしょうがないけど、気まずさは思ったより感じなかった。
(星野と過ごす時間が、どんどん特別になっている。この気持ち、もう隠しきれない)
◇
――現在。
調理実習のスパイスカレー、文化祭のパンデピス、ティザンヌ……全部、星野のために作った。星野に美味しい物を食べさせて、少しでも体調が良くなるように願いを込めて。
そして、いつの間にか、星野を元気にしたいという想いは、恋に変わっていた。
(もしこの想いを言わずに終わったら、一生「苺の幻」みたいに俺の中で燻り続けるんだろう)
(嫌だ。そんな後悔、したくない)
でも、伝える勇気がない。
(星野は俺のことを、どう思っているんだ?友達以上に思ってくれているのだろうか……)
――その日の放課後。俺は月香堂でいつものようにスパイスの調合をしていた。でも、全然集中できない。
月乃「蒼真、浮かない顔してるわね」
ばあちゃんが俺の隣に座った。
香坂「……別に」
月乃「星野くんとうまくいってないの?」
香坂「……知らない」
ばあちゃんはため息をついた。
月乃「あんたって子は、本当に不器用ね」
香坂「……余計なお世話だ」
月乃「星野くん、あんたのこと嫌がってるの?」
俺は黙った。
(嫌がってるかどうかはわからない。でも、きっと困惑してるだろう)
月乃「でも、また来てくれたじゃない。それに、一緒にキャトル・エピスも作ったんでしょ?」
香坂「……うん。でも星野はキャトル・エピスの意味知らないから」
月乃「へ~言わなかったのね。蒼真、あの子に自分の気持ち、話したことある?」
香坂「……ない」
(そんなこと、できるわけがない。俺みたいな奴が、星野に想いを伝えるなんて)
月乃「なら、この機会に話してみたら?」
香坂「……無理だ。薬膳とか、スパイスとか……気持ち悪いし、男に好かれてるって知ってしまうのが可哀想だ」
月乃「そんなことないでしょ。あの子、あんたの料理喜んで食べてたじゃない」
(それは……確かにそうだけど)
月乃「あの子は普通じゃないわよ。あんたのこと、ちゃんと理解してくれる子だよ」
(ばあちゃんの言葉を信じたい気持ちはある。でも、怖いんだ。嫌われて拒絶されることが)
月乃「星野くん、あんたが毎日心配してるって知っても、嫌な顔しなかったでしょ?それどころか、喜んでたじゃない」
(確かに、星野は俺が心配して色々食べさせても、喜んでくれてる気がする)
月乃「星野くんなら大丈夫よ。あんたの想い、ちゃんと伝えなさい」
◇
翌日の昼休み。俺は決意して、教室から出ていった星野を追いかけて、人気のない廊下で声をかける。
香坂「星野」
春愛「あ……香坂」
香坂「これ、作りすぎたから食べて」
星野は、俺の渡した紙袋の中身を確認する。
春愛「わあ~助かる~今から購買行こうと思ってたから。何?サンドイッチ?」
香坂「うん。スペルト小麦のパン作ったから、サンドイッチにしてみた」
春愛「なんか、身体に良さそうなやつだ!」
香坂「うん。そう、ミネラルとか多いみたい」
春愛「食べたら、また感想言えばいい?」
香坂「うん。それと、話があるから、放課後、月香堂に来てくれないか?」
春愛「え?」
香坂「大事な話がある……」
春愛「うん……わかった」
(今日こそ、ちゃんと伝えよう。もう逃げたくないんだ)
◇
放課後、俺は月香堂でティザンヌを煎じながら星野を待っていた。心を落ち着かせるため、ラベンダーとミントベースのティザンヌを。
春愛「香坂?」
振り返ると、星野が店の入り口から歩いて来ていた。
香坂「……ここじゃ話しにくい」
俺は星野を店の奥の作業スペースに案内した。あの日、キスをしてしまった場所だ。
星野を座らせ、二人分のティザンヌを作業台に置く。
香坂「飲んで、ラベンダーのティザンヌ」
春愛「うん。良い匂いがする。眠くなりそう」
香坂「あー、リラックス効果あるからな」
春愛「あっ、そうそう、サンドイッチ美味かった。パンが少し固めだけどハムの味が引き立つような気がした。身体に良さそうな味だった!」
香坂「食べれたなら良かった。ちょっと癖あるから」
春愛「大丈夫だった。ところで話ってなに?」
香坂「あの日のことなんだけど……俺、お前が俺のこと嫌いになったと思った」
春愛「嫌いって……なんで?」
香坂「薬膳とか……気持ち悪いだろ?こんなにスパイス塗れの部屋、普通怖いだろ?」
星野は首を振る。
春愛「全然気持ち悪くないよ。むしろ、すごいと思う」
香坂「うん。ありがと……でも、ほんとに……キスしてごめん……」
春愛「それは、もういいじゃん、俺が悪いんだし……もう気にするなよ」
香坂「うん、わかった」
少し、胸のつかえが取れた気がした。二人とも喉が渇いたのか、ティザンヌを一口飲む。
春愛「あー、香坂、俺も聞きたいことがあるんだ」
香坂「……なんだ?」
春愛「……なんで俺のこと、そんなに心配してくれるの?」
星野の質問に、俺は答えに詰まった。
(正直に言ってしまおうか。もう、隠しきれないし、そのために星野を今日呼んだのだから……勇気を出すしかない)
香坂「……お前が体調悪そうだと、ほっておけない」
春愛「どうして?」
星野が身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
(距離が近すぎる……星野の瞳が真剣だ)
香坂「……ずっと」
俺の声が震えていた。
(言ってしまおうか。でも、もし拒絶されたら……)
(星野は俺のことを友達だと思ってる。それなのに、こんな気持ちを押し付けていいのか?ギリギリになって迷い始める)
(でも、もう引き返せない。この想いを抱えたまま、普通に接するなんて無理だ)
香坂「俺、お前のことが……好きなんだ。友達としてではなくて……その……恋愛対象として」
(言ってしまった)
星野の目が、丸くなる。驚いたような、困惑したような表情。
(やっぱり戸惑っている……そりゃそうだよな。男同士でこんなこと言われても……)
香坂「中学の時から、お前を見てたけど……お前が笑顔じゃなくなると、心配になるんだ。だから、笑ってほしくて、美味いものを食べさせたくなる……体調悪そうな時は、助けたくなるんだ……変だろ?」
(俺の愛情は重すぎるかもしれない……でも抑えられないんだ)
春愛「香坂……」
香坂「でも、俺みたいな奴が、お前に想いを伝える資格なんて……」
春愛「ある」
星野がはっきりと言った。
香坂「え?」
春愛「香坂には、その資格があるよ。俺のこと心配して、料理作ってくれるの超嬉しいから」
俺の頬が熱くなる。
(星野……俺の想いを否定しないでいてくれるのか?拒絶しなくていいのか?でも……知らないぞ)
春愛「俺も……香坂のこと」
星野が何かを言おうとして、でも言葉に詰まった。頬を赤らめて視線を逸らす。
(星野も何か言いたいことがあるみたいだ……でも、急すぎたかな……言葉が見つかるまで待ってあげよう)
(友達以上の気持ちがあるのかもしれないけど、男同士だから戸惑ってるんだろうな)
その時、ばあちゃんが現れた。
月乃「あら、いいところだったかしら?」
香坂「ばあちゃん……!」
頭がかっと熱くなりながら抗議する。
月乃「ごめんごめん。でも、お茶のお代わり持ってきたの」
ばあちゃんがにこりと笑って、カルダモンチャイを持ってきてくれた。
月乃「この子、本当に星野くんのことばかり心配してるのよ」
ばあちゃんが星野に向かって言う。
春愛「知ってます。だから……」
月乃「あ、私は失礼するわね、お邪魔虫よね、フフッ」
ばあちゃんが店に戻ると、俺は話を戻した。
香坂「返事はいつでもいいから。別にしなくてもいいし。今まで通りでも俺は構わない。お前のこと心配させてくれるなら」
春愛「……ちゃんと返事するから」
香坂「うん……いつでもいいから……それと、他の奴らみたいに俺も名前で呼んでいい?仲良くなりたくて」
星野「うん!もちろん!」
香坂「はるあって可愛い名前だよな。お前に良く似合ってる」
俺がそう言うと、春愛の顔がぱあっと赤く染まる。
春愛「ちょっと恥ずかしいんだ~でも気に入ってる。俺も、そうまって呼んでいい?」
香坂「……うん」
(春愛って呼んだ瞬間、胸の奥で光が弾けた。ずっと暗闇で燻っていた想いが、初めて声になった気がして)
(「蒼真」って呼ばれた瞬間は、体温が跳ね上がった。たった二文字が、祈りのように俺の胸に刻まれていく)
二人でカルダモンチャイを飲みながら笑顔で見つめ合う。スウィートマサラがピリッと効いている。ブラウンシュガーのほのかな甘さが二人の空気も甘くした。
(同じカップから立ちのぼる香りを吸い込むたびに、春愛と未来を分け合ってるみたいで――もう戻れないって思った)
春愛は帰り際に言う。
春愛「蒼真、告白してくれてありがとう。ちゃんと考えてから、返事するから……」
(春愛が俺の想いを受け止めてくれた。それだけで胸がいっぱいだ)
(でも、心の奥では期待している。春愛も俺と同じ気持ちでいてくれたら……)
明日はどんな一日が待っているのだろう。春愛との新しい関係の始まりだ。



