俺は月香堂(げっこうどう)のことが気になって仕方なくなった。

 (あの異世界みたいな幻想的な店や、月乃(つきの)おばあちゃんから聞いた話が衝撃的すぎて、頭から離れない)

 放課後、俺は再び月香堂を訪れる。香坂(こうさか)がいつでも来ていいって言ったから、本当に遊びに来てしまう。

 月乃「春愛(はるあ)くん、また来てくれたの?嬉しいわ」

 月乃おばあちゃんが出迎えてくれる。

 春愛「あの……香坂はいますか?」

 月乃「奥にいるわよ。今日は蒼真(そうま)、張り切って薬膳カレー作ってるの。春愛くんが来るって分かってるみたいにね」

 春愛「え?」

 月乃おばあちゃんがくすくす笑いながら、俺を店の奥に案内してくれた。

 そこは小さなキッチンとダイニングがあって、薬膳カレーの良い香りが漂っている。香坂がエプロンをつけて、何かを作っている。

 香坂「……来たんだ」

 春愛「うん。お邪魔してもいい?」

 香坂「……いいよ。座ってろ。すぐできるから」

 香坂がキッチンに向かう。その後ろ姿を見ていると、なんだか得体の知れない安心感に包まれる。

 (俺のために作ってくれてるの……?)

 しばらくして、香坂が薬膳カレーを持ってきてくれた。

 春愛「わあ……」

 見た目からして、文化祭の時に食べたのより本格的だ。サラサラしたスパイスカレーに揚げたナスやズッキーニ、カボチャが飾られていて、見た目にも食欲をそそる。

 春愛「いただきます」

 一口食べた瞬間、体の中に温かさが広がっていく。

 春愛「美味しい……!文化祭の時よりもっと美味しい」

 香坂「……そうか」

 香坂が嬉しそうな顔をする。

 春愛「香坂って、本当にすごいね。こんな美味しい料理作れるなんて」

 香坂「……大したことない」

 春愛「大したことあるよ!俺、こんなに美味しいカレー食べたことない」

 香坂の頬が赤くなる。

 (可愛い……って、香坂を可愛いと思ってる俺って……)

 春愛「あの、香坂」

 香坂「なんだ?」

 俺は香坂を見つめた。昨日から伝えたかったことを言ってみる。

 春愛「俺のこと、いっぱい心配してくれて……ありがとう」

 香坂「……別に」

 春愛「でも嬉しい。誰かがこんなに俺のことを考えてくれるなんて、初めてだから」

 香坂が俺を見つめ返す。その瞳が、なんだかいつもより優しい。

 香坂「星野って、一人でいることが多いんだよな?」

 春愛「え?」

 香坂「家でも、一人だろ?」

 (香坂に、そんなことまでバレてんの……?)

 春愛「まあ、母さん忙しいし」

 香坂「寂しくないのか?」

 香坂の問いかけに、俺は胃の奥がキリキリと痛みだした。

 春愛「寂しい……かも」

 正直に答えると、香坂の表情が少し暗くなる。

 香坂「だったら、いつでもここに来い」

 春愛「え?」

 香坂「腹が減った時、寂しい時、いつでもいい。俺が作ったもの、食べさせてやる」

 (えっ、香坂……そこまで俺のためにするの?)

 俺の視界がぼやけ始める。

 (ヤバい泣きそう……でも我慢しなくっちゃ)

 春愛「……本当にいいの?」

 香坂「……うん。約束する」

 その時、香坂がデザートを持ってきた。文化祭の時よりも小さくて可愛らしいパンデピス。

 春愛「これ、俺のために?」

 香坂「……余ったから」

 香坂がそう言うけど、明らかに俺のために作ってくれたものだ。

 春愛「ありがとう」

 俺がパンデピスのお皿に手を伸ばすと、香坂も同じタイミングで手を伸ばし、手が触れ合った。

 香坂「……」

 春愛「……」

 お互い手を引っ込めない。香坂の手は大きくて、温かい。

 (胸がどうしようもなくドキドキしてる……)

 春愛「香坂……」

 香坂「……星野」

 (この気持ち、何だろう……香坂といると、すごく安心するのに、同時に胸が苦しくなるんだ)

 香坂「俺……お前と話してると、楽しい」

 春愛「俺もだよ?」

 俺たちは見つめ合う。

 (香坂の瞳、綺麗だな。それにこんなに優しく見つめられたら……俺はどうしたらいいの?)

 その時、月乃おばあちゃんの声が聞こえた。

 月乃「あら、いい雰囲気ね」

 俺たちは慌てて手を離す。

 月乃「春愛くん、また明日もおいで。蒼真、喜ぶから」

 香坂「ば、ばあちゃん……!」

 香坂が真っ赤になって抗議する。

 春愛「また……来てもいいですか?」

 月乃「もちろんよ。この子、あなたが来ると張り切って料理作るの」

 香坂「ばあちゃん、余計なこと言うな!」

 俺は笑いながら月香堂を後にした。

 (今日も楽しかった。それに、香坂ともっと仲良くなれた気がする)

 ◇

 翌日の学校。俺と香坂は、なんだかいつもと違う雰囲気だった。

 目が合うと、お互い少し恥ずかしそうに微笑む。でも、みんなの前では普通に振る舞おうとしている。

 瑛斗「春愛、今日なんか機嫌いいな」

 春愛「そ、そうかな?」

 瑛斗「香坂とも仲良さそうだし。よかったじゃん。話してるとこ全然見ないのに、なんでそんなに仲良いのか不思議だけど」

 (バレてる?でも、瑛斗は深く詮索しない。月香堂での密会は、二人だけの秘密で言えないから助かる)

 昼休み。俺は香坂の席の近くを通りかかった。

 香坂「……」

 香坂が俺を見上げて、小さく頷く。

 (目で会話してる……なんか、秘密の関係みたいで楽しい)

 放課後、俺と香坂は偶然一緒に校門を出た。

 春愛「お疲れ様」

 香坂「……お疲れ」

 なんだか気恥ずかしい。

 春愛「今日も……月香堂行ってもいい?」

 香坂「うん。待ってるから」

 香坂がそう言って、少し照れたように頬を染めた。

 (可愛い……こんなにカッコいいのにいつも恥ずかしそうで……)

 俺たちは並んで歩くことはない。一緒だと、周りに怪しまれそうで。俺は3メートルくらい離れて香坂の後ろを歩く。

 (秘密の恋みたい……って、恋?)

 俺の頬が熱くなった。

 ◇

 月香堂に着くと、香坂はもう店の奥で何かの準備をしていた。

 春愛「こんにちは」

 月乃「いらっしゃい、春愛くん。蒼真、春愛くんが来たわよ」

 香坂「座ってて」

 香坂が振り返って、俺を見て小さく微笑んだ。

 (その笑顔、俺だけに向けられてるの贅沢すぎる……)

 月乃「今日は二人で作業してみる?蒼真に教えてもらいなさい」

 春愛「え?」

 香坂「嫌じゃなければ」

 春愛「やってみたい!」

 香坂が俺を店の奥の作業スペースに案内してくれた。そこには古い薬草学の本と、たくさんのスパイスが並んでいる。

 香坂「これ、キャトル・エピスの調合だ」

 春愛「キャトル・エピス?」

 香坂「フランスの4つのスパイス。ペッパー、クローブ、ナツメグ、ジンジャー」

 香坂が乳鉢を手に持ち、丁寧にスパイスを量り取る。

 春愛「すごい……プロみたい」

 香坂「……大したことない。これ、配合によってちょっと味が変わって面白いんだ。パンデピス、カレー、ハンバーグにも使えるし。星野もやってみるか?」

 香坂が俺の隣に座る。狭い空間に2人きり。本当に近すぎる。

 (香坂の匂いがする……スパイスみたいに甘い香り)

 春愛「へぇ~奥が深いんだな。えっと、どうすれば……」

 俺が乳鉢を持とうとした時、香坂の手が俺の手に重なった。

 香坂「こうやって、ゆっくり回してすり潰すんだ」

 香坂が俺の手を包むように、一緒に乳鉢を回してくれる。

 (手が温かい……心臓がバクバク煩い……これなんかヤバい、変な気分になる……)

 春愛「こ、こんな感じ?」

 香坂「……うん。上手」

 (香坂の顔が近い。すごく近い。それにしても、香坂の瞳、綺麗だな……)

 俺が見とれていると、香坂も俺を見つめ返していた。

 香坂「……星野」

 春愛「な、なに?」

 香坂の顔がもっと近づく。

 (まさか……これって……)

 その時、俺の手が滑って、乳鉢が傾いた。

 春愛「あ!」

 中に入っていたスパイスが宙に舞い上がる。

 香坂が咄嗟に乳鉢を支えようとして、俺も同じように手を伸ばした。

 そして……

 俺たちの唇が、触れ合った。

 (時間が止まったみたいだ)

 香坂の瞳が、すぐそばにある。驚いたような、でもどこか優しい瞳。

 周りで、4つのスパイスの粉が、まるでスローモーションみたいにひらひらと舞い散っている。甘くてスパイシーな香りが、俺たちを包み込んだ。

 香坂「……ん」

 (香坂の唇……柔らかいし、温かい……)

 俺の心臓がドクドクと壊れそうに響き、香坂の頬が真っ赤に染まる。

 (俺もきっと同じ顔をしてるんだろうな……)

 数秒間、俺たちはそのまま唇が触れ合ったまま、離れなかった。

 春愛「あっ」

 我に返った俺は、慌てて身を離す。

 春愛「ご、ごめん!俺が乳鉢を落としそうになったから……」

 香坂は呆然としたまま、俺を見つめている。

 香坂「……」

 (何か言ってよ、香坂……)

 香坂は固まって、何も言えないでいる。

 (気まずすぎる……でも、なんで胸がこんなに苦しいんだ?)

 春愛「あの……その……」

 (なんて言えばいいんだ?)

 香坂「……星野」

 やっと香坂が口を開いた。

 香坂「……ごめん、嫌な思いさせて……」

 香坂の声が震えている。

 春愛「え?」

 香坂「……キス」

 香坂がそう言った瞬間、俺の顔が爆発しそうに熱くなった。

 春愛「い、嫌じゃない……」

 俺は正直に答えた。

 春愛「むしろ……」

 (むしろドキドキした、って言えない)

 香坂「むしろ?」

 (香坂が俺を見つめている。その瞳が、なんだか期待しているみたいだ)

 春愛「む、むしろ……えっと……」

 俺がしどろもどろになっていると、月乃おばあちゃんの声が聞こえた。

 月乃「あら、何か音がしたけど大丈夫?」

 俺は慌てて立ち上がる。

 春愛「だ、大丈夫です!ちょっと乳鉢を……」

 月乃「あら、スパイスが散らばってる。お掃除しましょうね」

 月乃おばあちゃんが入ってきて、俺たちの間の空気が変わった。

 春愛「あ、あの、俺、今日はもう帰ります!」

 俺は逃げるように月香堂から飛び出す。

 外に出ても、心臓の爆音が止まらない。

 (うわあぁぁ……キス、しちゃったよ……)

 香坂の唇の感触が、まだ残ってる。

 (柔らかくて、温かくて……)

 俺の全身が熱を帯びて燃えそうだ。

 香坂のあの顔……驚いてたけど、嫌がってるようには見えなかった。

 (すぐ押しのけなかった……俺もだけど……香坂なに考えてんだろう……)

 家に帰る途中、俺はずっと考え続ける。

 香坂蒼真。

 調理実習で一緒にスパイスカレーを作った時から、なんとなく気になり始めて、文化祭で薬膳カレーとパンデピス作ってる姿を見て、もっと興味を持った。

 それに、たくさんの料理を俺に食べさせてくれて、心を満たしてくれる人。そして、俺のことを心配してくれる優しい人。

 今日、俺は確信する。

 (俺は香坂のことが好きなのかもしれない、友達以上なのは間違いない)

 あのキスは事故だったけど……でも、嫌じゃなかった。

 (むしろ、もう一度……だめだめ!何考えてるんだ俺!)

 頭を振って、変な考えを追い払う。

 でも、香坂の顔が頭から離れない。あの驚いたような、でも嫌がってないような表情。

 (香坂のこと、頭から離れない……!もう無理――)

 俺はどうすればいいんだろう。明日、学校で顔を合わせたら、きっと気まずいよな。

 でも……会いたいんだ。

 香坂に会って、あの続きを聞きたい。

 (この気持ち、伝えたいのかな?)

 俺は枕に顔を埋めた。

 (香坂の顔が浮かんで、眠れそうにない)

 ◇

 翌日の学校。俺は香坂の顔をまともに見れなかった。

 目が合いそうになると、すぐに視線を逸らしてしまう。香坂も同じみたいで、なんだかお互い気まずい。

 瑛斗「春愛、今日なんか変じゃね?」

 春愛「そ、そんなことないけど」

 瑛斗「顔赤いし、落ち着きないし……熱でもあんのか?まさか、香坂と何かあった?」

 春愛「な、ないない!何もない!」

 (バレバレだ……大事件すぎて、平静を装うなんて俺には無理だ!)

 昼休み。俺は一人でコンビニのサンドイッチを食べようと、教室を出た。1人になれる所を探そうと歩いていると、誰かが俺の腕を掴んだ。

 香坂「待って」

 香坂の声が、いつもより低い。

 春愛「え……」

 俺は大人しく立ち止まった。香坂の手が、俺の腕を優しく掴んでいる。

 香坂が俺を人気のない廊下の角に連れて行く。

 香坂「……これ」

 香坂が小さな紙袋を俺に差し出した。中を見ると、手作りのおにぎりが入っている。

 春愛「これは……」

 香坂「……昨日の、お詫び」

 春愛「お詫びって……」

 (あのキスのこと?)

 香坂「……嫌な思いさせて、迷惑かけて……ごめんな」

 香坂がそう言うと、なぜか胸がキュンと締め付けられた。

 (迷惑じゃない。全然迷惑じゃないのに)

 春愛「嫌な思いしてないし、迷惑じゃないよ、ただ恥ずかしいだけで……」

 俺がそう言うと、香坂が顔を上げる。

 香坂「本当か?」

 春愛「うん。むしろ……」

 (むしろ嬉しかった、なんて言えない)

 香坂「むしろ?」

 春愛「む、むしろありがとう!おにぎり!」

 俺は慌てておにぎりを取り出す。

 (やばい、変な答えになった)

 でも香坂が少し微笑んだような気がした。

 香坂「……今日も、来れるか?」

 春愛「え?」

 香坂「月香堂に。昨日の続き、やろう」

 (昨日の続きって……キスの続き?)

 春愛「だ、大丈夫なの?気まずくない?」

 香坂「うん。キャトル・エピス、完成しなかったから……」

 香坂がそう言って、俺を真っ直ぐ見つめる。

 (あっ、キャトル・エピスか!焦った……キスの続き、なわけないよな)

 春愛「そうだな!完成させたいよ、キャトル・エピス!ちゃんと行くから」

 俺がそう答えると、香坂の表情が明るくなった。

 香坂「じゃあ、待ってるから」

 ◇

 その日の放課後、俺は再び月香堂に向かった。

 (気まずくない、気まずくない、きっと大丈夫)

 月香堂に着くと、香坂がもう準備をして待っていてくれるのが見えた。

 春愛「来たよ」

 香坂「……うん。入って」

 俺たちは一緒に薬膳カレーの試食を始める。昨日のような気まずさはなく、自然に会話ができた。

 香坂「……昨日のこと、悪かったな」

 春愛「ううん、俺のせいじゃん、嫌な思いさせてごめんな」

 香坂「違う、俺は、嫌じゃなかったから」

 香坂がそう言った瞬間、俺の心臓が跳ね上がる。

 春愛「え?」

 香坂の頬が赤くなる。

 春愛「俺も……嫌じゃなかったから」

 俺がそう答えると、香坂は目を丸くした。

 香坂「……そうなんだ」

 春愛「うん」

 俺たちは見つめ合う。

 (この気持ち、何だろう……友達以上の何かだけど、男同士でこれはいいのかな……)

 香坂「キャトル・エピス作ろうか」

 春愛「うん。作ろう」

 俺たちは、昨日の続きでキャトル・エピスを調合し始める。
 たまに触れてしまう手にドキドキするけど、なんとか持ちこたえて無事に完成した。

 料理に色々使えるみたいだから、市販の料理に振りかけたり、試してみよう。

 (香坂と過ごす時間が、どんどん特別になっている)

 今日は、それ以上に香坂との時間が大切に感じられた。

 (この気持ち、いつか言葉にできるかな。今は、本当の気持ちを認めるのが怖いんだ)