文化祭が終わってから、俺は香坂(こうさか)のことが頭から離れなくなった。

 毎日のように、ランチ用の小さなおにぎりやサンドイッチ、お弁当などを作ってくれて、毎朝、ティザンヌと共に机に置いてくれている。

 お返しは、自分のランチのついでに作っているだけだから要らないって言われて、何も出来ずにいる。勿論、材料費のお金も受け取ってもらえない。

 香坂の作る料理は、ただ美味しいだけじゃない。なんというか、心の奥がじんわりほどけて、時々見せる優しい表情を見ると不思議な気分になる。普段はクールなのに、俺が料理を褒めた時だけ嬉しそうな顔をするのも。

 それに、俺のことをよく見守ってくれている。体調が悪くないか、ちゃんとご飯を食べているかとか。なんかむず痒いけどありがたいと思う。

 (なんで俺はこんなに香坂のことばかり考えているんだろう。こんなによくしてもらえているから仕方ないとは思うけど)

 瑛斗「はるあ~、また香坂のこと考えてんのか?文化祭からべったりだよな。焼いちゃうぜ」

 俺は慌てて否定した。

 春愛(はるあ)「べったりって……そんなんじゃない!ただ、料理上手くて凄いなーって思っているだけだ」

 瑛斗「へー、最近は弁当まで作ってもらってるんだろ?お前、香坂とどういう関係なんだ?」

 春愛「どういうって言われても、友達の1人だ。瑛斗(えいと)と同じ」

 瑛斗「それはねえよ。香坂可哀そう~多分、お前、胃袋掴まれちゃったんだよ」

 春愛「ちーがーうー」

 (でも確かに、胃袋掴まれてる……それに、香坂の話ばかりしてる!瑛斗にまで普通じゃない関係だと思われてんだな……やっぱり変だよな……)

 ◇

 ある日の休み時間。俺が香坂の席の近くを通りかかると、香坂は鞄から何かを取り出そうとして、小さな瓶を落としてしまう。

 香坂「あ」

 俺は反射的に瓶を拾い上げた。手のひらサイズの茶色い瓶。ラベルには「4Épices」と書かれてある。

 春愛「これ……4エピシーズ?」

 香坂「……返して」

 香坂が慌てて俺から瓶を取り上げた。その時、鞄の中に同じような瓶がいくつも入ってるのが見える。

 春愛「香坂、なんでスパイス持ち歩いてるの?」

 香坂「……趣味だ」

 春愛「料理得意だもんね」

 香坂「……たまたま入ってただけ」

 (なんだか歯切れが悪いし、絶対に何か隠してる、香坂がこんなに慌ててるの初めて見た)

 その日の放課後、俺は香坂を尾行することにした。なんとなく今日、様子が変だった気がして。彼が普段どういう行動をしているのかも興味がある。

 (香坂のプライベートはクラスメイトの誰も知らないんだよな~探偵ごっこみたいで、ちょっとドキドキする)

 香坂は真っ直ぐ商店街に向かった。ここまで俺と同じ帰り道。しかし、商店街の奥の方、古い建物が並ぶ路地から、裏路地へ続く細い道を左折した。俺は初めてその道を通る。

 (へぇ~こんな道あったんだ……香坂、何処行くんだろう……家?バイト?)

 古い飲食店が並び、一番奥まった緑のツタで覆われた洋館に香坂は入っていく。

 俺は看板を見て、目を丸くする。

 春愛「月香堂(げっこうどう)……漢方(かんぽう)薬膳料理(やくぜんりょうり)

 (ここって、薬膳料理のお店?バイト先?それとも香坂の家?)

 店の前でウロウロしていると、中から人影が見えた。香坂が奥の部屋で何かをしているのがレースのカーテンの隙間から見える。真剣な顔でなにか作業をしているみたいだ。

 (やっぱり、バイト先なのかな?働いている姿、大人みたいでカッコいい……)

 その時、店の扉が開いた。

 月乃(つきの)「あら、お客さん?」

 出てきたのは、小柄なおばあさんだった。白髪を後ろで結んで、深い緑色の服を着ている。

 (なんだかお伽話に出てくる魔女みたいな雰囲気。でも笑顔は優しい)

 春愛「あ、えーっと……」

 俺が慌てていると、おばあさんはじっと俺の顔を見つめた。

 月乃「もしかして……蒼真(そうま)が毎日話してる、星野春愛くん?」

 (え?俺の名前を知ってる?)

 春愛「はい……蒼真って、香坂のことですか?」

 月乃「そうよ。あの子、毎日あなたの話ばかりしてるのよ」

 (毎日?俺の話を?)

 俺の鼓動が暴れ出す。

 その時、奥から香坂が慌てて飛び出してきた。

 香坂「星野!なんで……?」

 香坂の顔が真っ青になっている。

 (こんなに焦った香坂、初めて見る。後つけて来たの知ったら怒るかな……)

 月乃「星野くん、よかったら中でお茶でも飲んでいかない?」

 春愛「えっ、でも……」

 俺が香坂の顔を見ると、彼は諦めたような表情で視線を逸らす。

 香坂「……入って」

 春愛「え?」

 香坂「そのうちバレると思ってたから……入っていいよ」

 (香坂、なんか怒ってる……?でも、俺のことをこのおばあさんに、話してくれてたなんて驚きだ)

 香坂に促されて、俺は月香堂の中に入った。

 足を踏み入れた瞬間、空気が変わった気がした。外より空気がひんやりして、ほんのり甘い匂いが漂っている。

 (パンデピスが焼き上がった時の匂いに似てる。甘いスパイスの匂い)

 天井から吊るされたハーブが揺れて、ランプの光に透けて見える。まるで魔法使いの家みたい。

 (俺、本当に学校帰りに寄っただけだよな?なんか、異世界に来たみたいだ)

 店の中は、不思議で神秘的な空間だった。棚にはたくさんの瓶が並んでいて、それぞれに漢字やカタカナでラベルが貼ってある。「当帰」「甘草」「メリッサ」「クローブ」……。

 春愛「わあ……」

 (まるでファンタジーの世界みたい。香坂はいつもここにいるのかな?)

 俺が店内を見回していると、おばあさんがお茶を持ってきてくれた。

 月乃「はい、ティザンヌよ。心を落ち着ける効果があるの」

 一口含んだ瞬間、ふわっと広がる香りに目を見開く。甘いのに苦くて、体の奥に染み込んでいく感じ。

 (普通のお茶じゃないやつ。胃のあたりからじんわり温まって、心まで溶けていくみたい)

 (……これ、いつも香坂が飲ませてくれるティザンヌに似てる)

 春愛「あの……おばあさんは?」

 月乃「私は月乃。この子の祖母よ」

 月乃おばあちゃんは香坂を見て、にこりと笑う。

 月乃「蒼真、この子がいつも話してる星野くんだね」

 香坂「ばあちゃん、余計なこと言うな!」

 香坂が真っ赤な顔で抗議する。

 (こんなに感情的な香坂、初めて見た。なんか反抗期みたいで可愛い)

 春愛「いつも?俺のことを?」

 俺が聞くと、香坂はますます赤くなって俯いて頭を抱えてしまった。

 月乃「この子ね、『星野が今日も疲れてた』『星野がまた頭痛で辛そうだった』って、毎日心配してるのよ」

 春愛「え……えーっ?毎日?」

 俺の頬は熱を帯びる。

 (香坂が俺のこと、毎日心配してくれてたなんて……)

 春愛「えっ、なんで……?」

 月乃「『星野の顔色が悪かった』『星野がちゃんと食べてるか心配だ』とかね」

 春愛「うわあああ!」

 俺は両手で顔を覆った。

 (恥ずかしすぎる!でも、すごく嬉しい。香坂が俺のことを、そんなに……)

 春愛「なんで……なんで俺のこと、そんなに……」

 (息が浅くなって、どう呼吸していいか分からない)

 月乃「蒼真の作るお茶、美味しかったでしょ?」

 月乃おばあちゃんがにっこりと笑う。

 春愛「え、はい。これ、香坂が作ってくれたのか?」

 香坂「知らない」

 香坂が小さい声で否定するけど、もう十分すぎるほどバレてる。香坂の顔は恥ずかしさで爆発しそうなほど耳まで真っ赤だ。

 春愛「えっと、いつも、ティザンヌを香坂が飲ませてくれるんです。頭が痛かった時に飲んだら、気にならなくなりました」

 俺は興奮して月乃おばあちゃんに話す。

 春愛「ティザンヌは、おばあちゃんが香坂に教えたの?」

 月乃「そうよ。この子は小さい頃から、ティザンヌで体調を整えるのが得意なの」

 月乃「世界の薬草学を色々と組み合わせて、取り入れてるのよ」

 (なんだかすごそうな話だ。香坂ってそんなにすごいことできるんだ)

 月乃「蒼真は天才なの。人の体調を見ただけで、どのスパイスやハーブが効くかわかるのよ。あっ、お菓子も持ってくるわね。ヒルデガルトのクッキーを焼いたのよ」

 そう言って、おばあちゃんはキッチンの奥へと向かう。

 俺は香坂を見た。彼は相変わらず視線を逸らしたままだ。

 春愛「すげー……だから香坂の料理、あんなに美味しくて体に良いのか」

 香坂「……恥ずかしい」

 香坂が小さく呟く。

 (恥ずかしい?なんで?)

 春愛「全然恥ずかしくないよ!むしろすごいじゃん!」

 俺が興奮して言うと、香坂が顔を上げ驚いたような顔をしている。

 香坂「気持ち悪いと思わないのか?」

 春愛「なんで気持ち悪いの?人の体調を良くしてくれるなんて、最高じゃん」

 香坂の目が少し潤んだような気がした。

 (香坂、そんなに、薬草やスパイスに詳しいことが、気持ち悪がられるって思ってたんだな)

 春愛「香坂……」

 香坂「なんだ」

 春愛「なんで俺のこと、そんなに心配してくれるの?」

 俺の質問に、香坂は答えに詰まった。

 香坂「……お前が体調悪そうだと、ほっておけない」

 春愛「どうして?」

 香坂が一歩、俺に近づく。

 (近い……香坂の匂いがする。なんか、スパイスみたいな甘い香り)

 香坂「……ずっと」

 香坂の声が震えていた。

 心臓の音がドクンと跳ねる。香坂の声なのか、俺の鼓動なのか分からない。耳まで熱くなって息が詰まる。

 (続きが聞きたいのに、怖くて聞きたくない。目の前の香坂が、急に別の世界の人に見える)

 香坂「ずっと、お前のことが……」

 (え?なに?続きが聞きたい!)

 その時、月乃おばあちゃんが戻ってきた。

 月乃「あら、いいところだったかしら?」

 香坂「ばあちゃん……!」

 俺は顔が熱くなってしまい慌てる。

 (何を言おうとしてたんだろう、香坂は)

 月乃「ごめんごめん。でも、クッキー食べてみて」

 結局、俺たちは一緒にクッキーとティザンヌをいただいた。香坂はまだ恥ずかしいようで、こちらを見ないようにしている。クッキーはジンジャーやスパイスが色々入っていて、クリスマスクッキーみたいで美味しかった。

 でも、さっきの言いかけた言葉が気になって仕方ない。

 (「ずっと、お前のことが……」って、何だったんだろう)

 月乃おばあちゃんは、香坂の色んな話を聞かせてくれた。香坂は終始恥ずかしそうだったけど。

 店を後にしようとした時、香坂が俺を呼び止めて言う。

 香坂「ちょっと待って星野、これ持って行って」

 タッパーが入った茶色い紙袋を俺に渡してくれた。

 春愛「これ何?」

 香坂「薬膳カレーと玄米だ。晩飯に食べて」

 春愛「やったー!いいの?」

 香坂「うん。試作品だから。また、感想聞かせて。それと……腹減ったらいつでも来い」

 春愛「え?」

 香坂「うちに。薬膳カレー、いくらでも食べさせてやる。種類いっぱいあるから、制覇してよ」

 (そうだ、文化祭の時約束してくれてたからか)

 春愛「本当にいつ来てもいいの?」

 香坂「……うん。いつでも」

 俺は、香坂と仲良くなれたみたいで、嬉しくて走り出しそうだった。

 (月乃おばあちゃんのおかげで、香坂との距離はかなり縮まったと思う)

 カレーが心配だから、走るのを辞めて、ゆっくり歩いて帰ろう。

 ◇

 家に帰ると、珍しく玄関に靴があった。

 春愛「あ、母さん帰ってる」

 リビングに行くと、母さんがソファでうとうとしている。

 (仕事の合間で帰って来てくれたのかな。1か月ぶりか~相変わらずとても疲れている)

 春愛「母さん、おかえり」

 母「あ、春愛。ただいま、元気だった?」

 母さんが目を擦りながら起き上がる。

 春愛「うん、元気だよ」

 (本当は最近体調悪いことが多いけど、心配かけたくないから言えない……)

 母「良かった。でも、また痩せたんじゃない?ちゃんと食べてる?コンビニ弁当ばっかりじゃダメよ。商店街のお惣菜のお店で、野菜とお魚も買ってちゃんと食べるのよ」

 春愛「大丈夫、ちゃんと食べてる。最近は手作りの弁当とか食べる機会もあったし」

 母「あら、誰が作ってくれたの?」

 春愛「あー、えっと……友達が」

 (香坂のことは言えないな。母さんが変に心配するかもだから)

 母「友達想いの子がいるのね。良かった。お母さん、また来月まで出張だから、お金は多めに置いておくわね」

 春愛「うん、ありがとう。お母さんこそ、体に気をつけてよ」

 母「春愛は本当にいい子ね。お母さんの心配なんてしなくていいのよ」

 (でも本当は、もっと一緒にいたい……でも母さんも仕事頑張っているから、我慢しなきゃ。もう高2だし)

 春愛「母さんの仕事、応援してるから。頑張って」

 母「ありがとう。春愛はしっかりしてるから、お母さんも安心して仕事できるの」

 母さんはそう言って、また眠そうに目を擦った。明日の朝早くには出発するんだろう。

 俺は一人で香坂の薬膳カレーを温めながら、今日のことを思い出していた。

 (今日、月香堂で見た光景。香坂と月乃おばあちゃんの温かいやり取り。本当に楽しそうだった。ちょっと羨ましい)

 香坂が俺のことを心配してくれて、毎日俺の話をしてくれてると思うと、心がじんわりと温かくなる。

 (母さんは俺が元気だと思ってる。でも本当は違う。朝ごはん抜くことも多いし、頭痛もよくする。でも、心配かけたくないから言えない……)

 (そんな俺の本当の姿を、香坂は見てくれて、心配してくれてるんだろうな……)

 香坂は俺の弱さを見抜いて、放っておかない。あの幻想的な店で、スパイスの匂いに包まれて、香坂が「俺のことを見てるんだ」ってよく分かった。

 薬膳カレーと玄米を一口食べてみると、また、美味しすぎて泣きたくなる。身体全体がふわふわしている。

 (こんな気持ちになるなんて、思いもよらなかった)

 (友達として心配してくれてるだけなのかな。それとも……俺は香坂の特別なのかな)

 春愛「まさか、そんな……」

 でも、あの真剣な顔。「ずっと、お前のことが……」って言いかけた時の表情を思い出すと、心臓が騒がしくなる。

 (香坂の気持ち、ちょっと知りたいな……でも、聞くのが怖い。もし、ただの友達としか思われてなかったら……)

 俺は布団に潜り込む。

 (明日、香坂にどんな顔して会えばいいんだろう。でも、会いたい。もし昨日の続きが聞けたら……俺は、どうなってしまうんだろう)

 でも一方で、香坂があんなに俺のことを心配してくれてるって知れて、すごく嬉しい。

 (誰かがこんなに俺のことを考えてくれるなんて……初めてだから)

 母さんは仕事で忙しいし、俺のことを心配してくれる人なんて、この世にいないと思ってた。

 でも香坂は違う。俺が気づかないところで、ずっと俺のことを見守っていてくれる。

 (明日、お礼を言おう。ちゃんと、ありがとうって)

 そう思うと、少しだけ眠れそうな気がした。

 ◇

 翌朝。俺は少し早めに学校に着いた。

 (香坂に会ったら、昨日のお礼を言うんだ)

 でも、いざ香坂の顔を見ると、なんて言えばいいのかわからなくなってしまう。

 香坂「……おはよう」

 香坂が小さく挨拶してきた。なんだかいつもより恥ずかしそうだ。

 春愛「お、おはよう」

 (うわあ、なんか気まずい。昨日のことがあったから……)

 でも、俺は勇気を出して話しかける。

 春愛「香坂、昨日は……えっと……薬膳カレーありがとう」

 香坂「どうだった?」

 香坂が慌てたように言う。

 春愛「すごく美味かった!ほうれん草のカレーだったよな?スパイシーで濃厚で玄米も初めて食べたけどカレーに合うと思った」

 香坂が驚いたような顔で俺を見る。

 香坂「詳しく教えてくれて、助かる。また試食してくれ」

 春愛「うん……あのさ」

 香坂「えっ、なに?」

 春愛「俺のこと、こんなに心配してくれてたなんて知らなかった。ありがとう」

 香坂の頬がピンクに染まる。

 香坂「……別に、大したことじゃない」

 春愛「大したことだよ!俺、すごく嬉しかった」

 (この気持ち、伝わってるかな?感謝を伝えたいんだ)

 香坂「……そうか」

 香坂が小さく微笑む。その笑顔がキラキラしているように見えて、胸の奥が疼いた。

 (やばい。香坂のこと、もっと深く知りたくなってしまう。これ以上近づいてもいいのかな)