朝の教室。俺、星野春愛(ほしのはるあ)は机に突っ伏していた。
 まただ……たまに来るやつ。
 頭がズキズキと痛み、昨夜の夜更かしゲームのツケが回ってきた。

 春愛「うわ、やべ……また頭痛い」

 (本当は体調最悪だけど、暗い顔してたらクラスの雰囲気悪くなるし。俺はムードメーカーでいたいから、どんなにしんどくても笑顔を作るんだ)

 クラスメイトたちが次々と教室に入ってくる。

 瑛斗「はるあ~、おはよー!今日は元気か?」

 俺はいつものように笑顔で手を振った。

 春愛「えいと~おはよう!今日も頑張ろうぜ!」

 瑛斗「飯食ったか?」

 春愛「うん……」

 (本当は食ってないけど……瑛斗(えいと)、心配するから言わないでおこう)

 1・2限目の授業を何とかやり過ごして、3限目。

 春愛「体育か……だりぃなー」

 (頭痛もまだ治ってないし、フラフラする。でも休むわけにもいかないし……)

 瑛斗「はるあ~お前、顔色悪くね?大丈夫なのか?」

 春愛「うん、昨日ゲームしてて寝不足なだけだから」

 瑛斗「おーそうか、無理すんなよ」

 瑛斗とは高2になって初めて会ったけど、席が隣ですぐ仲良くなった。明るいやつだから気楽でいられる。

 (まだ、本当の俺は見せられないけど……)

 2人で話しながらグラウンドへ向かう。

 出席番号順にチーム分けされ、グラウンドでリレーが始まった。

 俺は自分の番が回ってきて、必死にバトンを握って走り出す。

 春愛「はあ……はあ……」

 最初の100mはなんとかついていけたが、急に息が上がってきた。

 なんとかバトンを繋ぎ、みんなのいる所に、向かおうとしたその時。

 春愛「やば……息、できない……」

 視界がチカチカして、俺は膝に手をついて休んだが、呼吸が上手く出来なくなって、そのまま地面にうずくまった。

 香坂「星野……大丈夫か?」

 振り返ると、見覚えのある人が心配そうな顔で駆け寄ってきていた。

 春愛「えっ……香坂?」

 香坂蒼真(こうさかそうま)。中2の時に同じクラスだったけど、あまり話した記憶がない。高2でまた同じクラスになったが、彼はクールで近寄りがたくて、久しぶりだしなんか気まずい。

 香坂が俺の身体を抱えて、木陰のベンチに連れて行ってくれた。

 (中2の時は身長同じ位だったのに、10㎝は俺より高いよな……?なんか、身体も大きくてこんなにイケメンだったっけ……?)

 近くにあった自動販売機で買ってきた、水のペットボトルを俺に差し出す。

 春愛「うわ、香坂……ありがと……後で金返す」

 香坂「いいって、今は休んで」

 俺はありがたくその水を飲んだ。香坂は心配そうに俺を見つめていた。

 (なんでこんなに距離近いんだ?妙に緊張してしまう)

 本当に久しぶりに見た彼の顔は、バージョンアップされていた。中2の頃は大人しい男の子のイメージだったのに、切れ長の瞳、鼻筋の通った高い鼻、薄い唇……セクシーな顔立ちとはまさにこれと言う感じだ。

 (それに、助けてくれるなんて……意外と優しいんだな。中2の時はあまり話せなかったけど、こんなに気にかけてくれるなんて)

 香坂「……無理するな」

 香坂がそう言って、俺の背中を優しく撫でてくれた。

 春愛「香坂、久しぶりだよな同じクラスになったの。俺のこと覚えててくれた?」

 香坂「覚えてるよ……星野のこと、忘れるわけがない……」

 春愛「へへっ、良かった~なんか、久しぶりすぎて緊張するな」

 香坂「……そうだな」

 しばらく俺の呼吸が戻るまで、香坂は傍にいてくれた。

 ◇

 4限目、家庭科室。エプロン姿の生徒たちが集まっている。俺もエプロンを着けたが、体育の疲れでまだ身体が少しふらついていた。

 先生「はい、今日はグループに分かれてスパイスカレーを作ります。班は4人組で、あみだくじで決めましょう!」

 先生が手作りのあみだくじを黒板に貼った。なんだかレトロで微笑ましい。

 クラス中がざわめく。俺はあみだくじの線を辿った。

 先生「A班は、星野、香坂、田中、佐藤のチーム!」

 春愛「えっ……」

 俺は結果を見て複雑な気持ちになった。

 (香坂とは体育で話したけど、まだ久しぶりで気まずい。田中さんは目立つグループの女の子であまり話したことがないし、佐藤君はちょっとクセがあって付き合いにくい……)

 (誰とも仲良くないチームか……でも、ムードメーカーを頑張れば、まあなんとかなるだろう)

 春愛「よろしく、みんな!」

 俺はいつものように明るく挨拶した。

 香坂「……よろしく」

 田中「香坂君、よろしくお願いします!」

 田中さんが香坂に向かって、すごく嬉しそうに話しかけた。頬を赤らめてるのが分かる。

 (あー、田中さん香坂のこと好きなんだな……)

 佐藤「俺ら空気みたいだな」

 春愛「うん……まあそうだね」

 佐藤「まあ、あいつらに任せて俺らは適当にやろうぜっ」

 春愛「うん」

 (佐藤君、一緒にやってくれるんだ?良かった)

 田中「香坂君と私でカレー担当していいかな?」

 佐藤「うん、いいよー。俺と星野は料理出来ないから、野菜とサラダ担当だな」

 春愛「りょーかい!」

 なぜか香坂が俺を見つめている。田中さんが何か話しかけているのに、上の空のようだ。

 (まだ、俺の体調を心配してくれてるのか、不安そうな顔をしてる)

 先生「材料はこちらに用意してあります。レシピ通りに作ってくださいね。スパイスも色々あるから自由に使って下さい。ただし、入れすぎると辛くなりますから注意して」

 生徒達「はーい」

 テーブルには、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、トマト、パクチー等のリーフ、チキン、ココナッツミルク、そして様々なスパイスの瓶が並んでいる。今日の調理実習は豪華だ。

 佐藤「あー、俺トイレ行ってくる」

 春愛「えっ、もう?」

 佐藤君はさっそく席を離れてしまった。

 (やっぱりサボるんだな……一人で野菜切るのかよ、料理苦手なのに)

 俺は一人で玉ねぎを切り始めたが、すぐに目が痛くなってしまった。

 春愛「うわー、目に染みる……」

 涙がボロボロ出てきて、俺は手で目を擦ろうとした。

 香坂「ダメ!」

 香坂が走ってきて、俺の手首を掴んだ。
 一瞬、時間が止まったような静寂。

 香坂「触ったら、もっとひどくなる」

 春愛「えっ?」

 香坂「水道で手を洗ってから、顔を洗え」

 香坂が俺を水道まで連れて行く。

 俺が手を洗ってから顔を洗うと、香坂が自分のタオルを差し出してくれた。

 春愛「ありがとう香坂。玉ねぎって目痛くなるんだな」

 俺の言葉で香坂は「フッ」っと噴き出し、表情が少し緩んだ。

 ◇

 教室に戻ると、香坂が田中さんに向かって言った。

 香坂「田中、俺がカレー作るから、サラダお願いできるか?星野の代わりに。野菜は俺が切るから」

 田中「え……でも私、香坂君と一緒に……」

 香坂「星野の目、まだ痛そうだから、休ませてあげて」

 田中「はーい……」

 香坂「星野、座ってていいよ」

 春愛「……うん」

 (あれ?なんで香坂が俺のことそんなに気にかけてくれるんだろう……なんか変な気持ちだ……ふわふわしてる)

 香坂がスパイスの瓶を手に取って匂いを嗅いでいた。慣れた手つきで、まるで香りを確かめるように。俺は香坂に近づいてみる。

 春愛「香坂、料理得意なの?」

 香坂「……普通だ」

 香坂が野菜を切り始めた。包丁さばきがプロ級に上手い。

 (手つきが慣れてる。野菜を切るのもすごく上手いし、早いし、なんか手際がいい。「普通」って嘘だろ)

 春愛「うわー、香坂すげーな!」

 俺も隣で人参を切ってみた。

 香坂「……下手だな、星野は」

 春愛「ひどっ!」

 香坂の口元が少し緩む。そして、目を逸らさずに俺を射抜くように見つめる。

 春愛「な、なに?なんで見るの?」

 (目が合うだけで、体温が上がるし、心がザワつく……なんだこれ)

 香坂「……別に。もう目も体調も大丈夫そうだな。安心した」

 視線は逸らさない。俺はますます顔が熱くなった。

 春愛「なんだよ、そんなに見るなよ~緊張するだろ」

 香坂「あーごめん」

 そう言って、香坂は作業を再開し、野菜を切り始める。
 集中して野菜を切る香坂の額に、薄っすらと汗が滲んでいた。

 (真剣な横顔って……なんか見ちゃいけない気がする)

 俺は慌てて視線を逸らす。

 野菜の準備が終わると、コンロに移動して調理を始めた。

 春愛「次は炒めて、水を入れて……あ、スパイスも入れるんだ。えっと、カレー粉大さじ2……」

 俺がスプーンでカレー粉を測ろうとすると、香坂が俺の手を止める。

 香坂「待て」

 香坂が小さな瓶からゴマのようなものを取り出し、鍋に振りかけた瞬間、甘い香りとピリッとした香りが立ち上がった。

 春愛「え、それなに?」

 香坂「……スパイスだ。最初に炒るんだ。クミンシードとマスタードシード」

 (異国の不思議な匂いが漂う。鼻がくすぐったく、とても刺激的)

 クミンシードがパチパチと弾け、ほのかに甘い香りが混ざり、さらに、カルダモンを潰して加え、シナモンスティックを落とすと、複雑で深い香りが立ちのぼる。

 カレー専門店のような本格的な香りに俺たちは包まれた。田中さんも目を丸くして見ている。

 次は、鍋に油をひき、生姜のみじん切りの半量を入れると、じゅっと音を立てて泡が散った。

 香坂「生姜は最初に油で炒めると、香りが立ちやすい」

 春愛「へぇ、カレー粉より先なんだ」

 そこに黄色い粉を振ると、油に溶けて鮮やかな黄色に変わり、室内が一気にカレーらしい香りに包まれた。

 春愛「わ、なんか匂いが本格的!」

 香坂「ターメリックだ。クミンと一緒に炒めるとさらに香りが強くなる」

 田中「香坂君、すごく詳しいんだね!料理男子だなんて知らなかったよ、かっこいいな~」

 田中さんは照れた表情で香坂に話しかけるが、カレー作りに真剣すぎてスルーされている。

 (でも……香坂は俺の方ばかり見てる気がするんだけど、気のせいかな?)

 春愛「すげーこれ、見てるだけで腹減るな」

 香坂「……スリランカの知恵だ。体にいい」

 (スリランカの知恵?なんかかっこいいな。でも香坂、なんでこんなに詳しいんだ?)

 続けて、チキン、野菜を手際よく鍋に入れて炒めて、少量の水を加えて煮込む。

 最後に香坂が振りかけたのは、茶色い粉だった。

 春愛「それも調味料?」

 香坂「ガラムマサラだ。カレーの仕上げに使うやつ」

 (ガラムマサラ?なんか凄い……なんでこんなに本格的なんだ?)

 (本当に、香りがすごくいいな~珍しく腹が減って来たような気がする!香りだけで、鼻の奥がじんわり温かくなる)

 その後、残っていた生姜のみじん切りとざく切りしたトマト、ココナッツミルクを加えて鍋に蓋をする。

 ◇

 20分後。スパイスカレーは完成し、ランチ試食が始まる。

 春愛「いただきまーす!」

 スプーンでカレーをすくって口に運ぶ。

 春愛「!!!」

 (うまい。めちゃくちゃうまい。今まで食べたカレーの中で一番うまいかもしれない。辛さの中に甘味があって、体の中から温まるような感じ……)

 春愛「うっま!これ、マジでうまいよ香坂!天才だな」

 香坂が俺の言葉を聞いて、ほんのり頬を赤らめている。

 (あ、照れてるのか?可愛いじゃん)

 田中「本当!とっても美味しいよ!凄いよ香坂君」

 佐藤「俺も食うー」

 サボってた佐藤君も戻ってきて、カレーを食べ始めた。

 春愛「なんか、体がポカポカする!香坂、本当に、何入れたの?」

 香坂「……スリランカの知恵だ」

 香坂がニヤッと笑った。少し仲良くなれてるのかもしれない。

 春愛「また、スリランカの知恵かよ!もっと詳しく教えろよ。香坂のカレー、すげー美味しいだけじゃなくて、なんか……温かくなるんだよな、心も」

 そう言った瞬間、香坂はまた照れた笑顔を見せた。

 (え、なんで赤くなるの?俺、変なこと言った?)

 (本当に、疲れてた体が軽くなったような気がするんだよ。これはなんだろうな……魔法みたいだ)

 先生「A班、すごく良い匂いですね!カレー担当は香坂君でしたね」

 先生がやってきて、俺たちのカレーを味見する。

 先生「わあ、とても美味しい!カレー粉だけじゃない味ですね。何か工夫されましたか?複雑なスパイスの味と香りがしますね」

 春愛「えーっと……香坂が色々スパイス入れてました」

 俺が香坂を見ると、彼は俯いていた。

 香坂「……ベースはレシピ通りで、色々スパイス入れました。ガラムマサラとか」

 先生「なるほど。とても深い味に仕上がりましたね」

 先生は満足そうな笑顔で去っていく。

 調理実習終了し、片付けが始まった。俺は香坂と一緒に皿洗いをする。

 春愛「香坂、今度また一緒に料理しようぜ」

 香坂「……うん。そんなにカレー美味かった?」

 春愛「うん!忘れられない味になった」

 香坂「そうか……それは良かった」

 香坂は俺の顔をちらっと見て目をそらした。

 (なんか、喜んでるのかな?横顔がまた赤いかも……気のせいかな)

 春愛「今日はありがとう。感謝しかない!」

 教室への廊下。俺は何度も振り返って香坂を見てしまう。

 (香坂のカレー、なんか忘れられない。あいつ、絶対に普通じゃない。料理上手すぎるし、なんかこう……隠してるけど、特別な知識を持ってそう)

 ◇

 5限を終え、俺はいつものように瑛斗と帰っていた。

 瑛斗「調理実習のスパイスカレー、俺の班、激辛だったぜ、誰かがチリパウダー死ぬほど入れたらしい」

 春愛「おー、それは罰ゲームだな。俺の班は香坂が料理上手くて店で食べるスパイスカレーみたいだった。俺また食いたいもん。金払ってでも」

 瑛斗「香坂?あいつ謎が多い男だよな。料理まで上手いなんて。愛想無くてクールなのにイケメンだから女子の人気凄いし」

 春愛「まあ、そうだろうな。あれは間違いなくモテる……あっ、俺スーパー寄ってくからここで」

 瑛斗「おぅ。飯ちゃんと食えよ」

 春愛「うん。じゃあな~」

 瑛斗はヒラヒラと手を振り、去っていく。俺はいつものスーパーに向かった。

 (今日も母さん帰ってこないから、三日分位なんか買っとかないとな……でも、食いたいものがないんだよな~もう飽きたし……)

 ◇

 夜。俺は一人でスーパーの弁当を温めて食べる。

 春愛「今日も一人か……」

 テーブルには「来週まで出張。体に気をつけて」と書かれた母親のメモと封筒に入ったお金が置いてある。いつものことだ。

 (小さい頃からずっとこんな感じで慣れてるけど、今日香坂のカレーを食べた後だと、なんだか物足りないな……)

 その夜。俺はベッドに横になりながらまだあの味を思い出している。

 春愛「体調も不思議と良くなったよな。頭痛もいつのまにか治っってたし」

 (いつもよりずっと体が軽い。香坂のカレーのおかげかな。久しぶりにあんなに沢山食べられた気がする)

 春愛「あーまた香坂のカレーが食べたくなってきた……」

 でも、それよりも気になることがあった。

 (香坂が俺を見つめてきた時の、あの顔が引っかかって眠れない)

 春愛「なんで俺、こんなに香坂のこと考えてるんだ……?」

 体育で助けてもらった時の優しさ、調理実習での気遣い、あの真剣な横顔……。

 俺は枕に顔を埋める。

 明日、また香坂に会うのが怖いような、楽しみなような。

 春愛「この気持ち、なんだろう」

 でも1つだけわかったことがある。これは確かだ。

 俺は香坂蒼真という人に、確実に興味を持ち始めている。

 (もっと知りたいな……スパイスの秘密も、彼の心の奥も……)