たたなづく峰々のどの頂よりも高く、雲間の月光を浴び、泳ぐように仙龍は夜を翔ける。
とうに日付も改まった深夜、眼下の世界は穏やかな眠りに就いていた。
珠に護られ、風を切る感触や耳を劈く轟音は遠く、夜に遮られて高度の感覚も薄い。慣れてしまえば揺籃のような安心感さえあるが、それでも透子は、口をぽかんと開けて、前から後ろへと瞬時に流れ去る光景を食い入るように眺め続けていた。驚愕の極みの連続で目が冴えて、とても眠るどころではない。
闇に沈んだ景色の中に時折、人里の常夜灯が水面に映る星のように小さく輝いている。最初は井戸に落ちた星屑であった光が湖面に瞬く星の群れになり、更に密度を増して銀河となる。
頭上と足下の星々、その狭間の未明の空を、仙龍は長い髭をそよがせ優雅に、疾風となって泳ぐ。透子は幾度かその顔を見上げたが、視線は一度も交わらなかった。
やがて未明から薄明へと移ろい、東の空が白み始める。夜明けが満ち潮のようにひたひたと近づいてようやく、透子は目線の先に広がる景色を認識した。
広い盆地の只中に、碁盤の目のように交錯する幾条もの路。左右を川に挟まれ、奥に聳える山々に抱かれたこの地形を、透子は地図上の存在として知っている。
(旧都……?)
馬車で丸一日以上を要する距離を、仙龍は二時間足らずで翔けてきた。
仙龍は水を湛えた池を越え、右手の二股の川へと首を向けた。その合流地点、三角洲に広がる森の上まで来たところで、合図もなければ速度も緩めず下降を始める。
「っきゃああああああああッッ!?」
殆ど垂直、降下を通り越し落下の勢いで迫る地表に、透子の喉から尾を引く悲鳴が迸った。なまじ払暁でぼんやりと視界が利くようになったせいで、根源的な恐怖に心臓が飛び跳ねる。理性で無駄と悟りつつも、本能が固く目を瞑った。
だが、衝撃は覚悟した千分の一にも満たなかった。叩きつけられるのではなく抱きとめられるような感触を背中と膝裏に覚える。
おそるおそる瞼を開くと、青年の姿に戻った仙人が、鍛え上げられた両腕で透子を横抱きに抱えていた。肩から式鬼の姿は消えている。兎にも角にも、地面がすぐ足の届く距離に戻ってきた安堵で全身の強張りが解け、そのはずみで眦から涙がひと雫だけ転がり落ちた。
それを、仙人がすかさず舌先で舐め取る。
「ひゃあぁっ!?」
透子は調子外れの声を上げ、次いで仙人の腕から降りようと身を捩らせた。
「っ、降ろしてっ」
「裸足だろう、おとなしくしていろ」
「…………」
反論の余地のない指摘に言動を封じられ、そこでようやく透子は周囲を見回す余裕ができた。
肌に涼しく沁みる空気に満ちた、濃い森の只中。薄日ではその全容を照らし出すには至らず、そこここに夜の名残が蟠っている。微かに届く、せせらぎの音が耳に清々しい。
そして二人の眼前には、樹齢幾星霜とも知れない、この森の中でひときわ高く太く枝葉を広げる巨木。その波打つ根元にはこれまた巨大な洞があり、三尺はある仙人も悠々と通れるほどの四足門が構えられていた。
透子を抱いたまま、仙人が片手で門扉を軽く押しただけで、重厚な軋みと共に門が開く。仙人は大股に歩を進め、門をくぐった。
「…………!」
洞内の景色に、透子はまたも言葉を失う。
桃瀬家さえ比べ物にならないほど立派な屋敷が、そこにあった。
光を織った縮緬のような細波を描く川に、今を盛りと繁る木々と花々。その眺めの各所で朝陽を受けて輝くのは瑠璃紺の瓦屋根。透廊が棟々を繋ぎ、軒下には緻密な装飾の灯籠が連なる。白い花弁が流れる水面には、鱗のきらめきも垣間見えた。
それは、御伽話に語られる仙窟そのもの。蓬莱という名と共に忘れられつつある一幅の絵画のような景観、その登場人物の一人に、仙女の従妹ではなく「蟲喰い」の自分がなろうとしている。
「もう大丈夫です。歩けます。ここなら裸足でも平気です」
「……そうか」
回廊を回ることなく中央を突っ切り、最も大きな建物の裏手から長く伸びる透橋に上がったところで、いいかげん気恥ずかしさに耐え切れなくなった透子は強硬に言った。仙人は渋々といった様子で透子を降ろしたが、紺の羽織をその肩に掛け、羽織ごと抱き寄せて歩く。変わらない密着の度合いに透子は閉口したが、逆に仙人はこの上なく御機嫌麗しそうであった。
言葉で語らないその真意を探ろうと横目に見て初めて、一日の始まりの陽光を浴びるその髪が、完全な漆黒ではなく青みがかった黒だと気づく。月光を受けた龍の鬣と同じ、夜の一歩手前の空のような色。
仙境は山里よりも春の訪れが遅いのか、橋の両側では満開の桜が花弁を波打たせている。
ともあれ、これでようやく透子は、蟲から仙女から、あの山里から逃げられた。
その解放感と、地に足のついた安堵感に気が緩み、今まで退けられていた睡魔が一挙に押し寄せてくる。
やや足下の覚束なくなった透子をしっかりと支え、仙人がフッと小さく笑った。切れ長の目だから、流し目がとても様になる。
「二年……いや一年半くらいか。伸び伸びと健やかに暮らすがいい。────完全に熟すまでな」
それは些か奇妙な言い回しのように透子には聞こえた。機が熟する、ということだろうか。だとしたら、その「機」とはいつで、何を意味するのか。確か彼は「これほど早い再会になるとは」「もう少ししてから引き取りに来るつもりだった」と言っていたと、薄靄の漂い始めた頭の片隅で思い出す。
「……熟したら?」
足運びだけでなく、呂律も怪しくなってきた。
熟したら「また会おう」。会って、そうして────?
突然、仙人が身を翻し、透子は白木の柱に背を預ける格好になった。追い詰められた状態で、頤を仙人の長く整った指で掬われ、強制的に視線を絡め取られる。
眼前に、またあの、目を離せない不遜な笑みを浮かべた蒼の瞳がある。
答えは簡潔だった。
「────おまえを喰う」
息が止まった。
それは何かの比喩なのか、それとも────本気か。
凍りついた透子を額が触れるほどの至近距離で見下ろし、仙人は更に言う。
「肉を齧って血を啜る。想像しただけで堪らないな」
「────!」
その言葉を証明するように、仙人は透子の鼻先を甘噛みした。傷を刻むような力ではない、けれど確かに、歯が触れた。
そこで、夜通し過度な緊張に晒され続けた心身に限界が来た。
糸が切れるように、透子は意識を手放した。
とうに日付も改まった深夜、眼下の世界は穏やかな眠りに就いていた。
珠に護られ、風を切る感触や耳を劈く轟音は遠く、夜に遮られて高度の感覚も薄い。慣れてしまえば揺籃のような安心感さえあるが、それでも透子は、口をぽかんと開けて、前から後ろへと瞬時に流れ去る光景を食い入るように眺め続けていた。驚愕の極みの連続で目が冴えて、とても眠るどころではない。
闇に沈んだ景色の中に時折、人里の常夜灯が水面に映る星のように小さく輝いている。最初は井戸に落ちた星屑であった光が湖面に瞬く星の群れになり、更に密度を増して銀河となる。
頭上と足下の星々、その狭間の未明の空を、仙龍は長い髭をそよがせ優雅に、疾風となって泳ぐ。透子は幾度かその顔を見上げたが、視線は一度も交わらなかった。
やがて未明から薄明へと移ろい、東の空が白み始める。夜明けが満ち潮のようにひたひたと近づいてようやく、透子は目線の先に広がる景色を認識した。
広い盆地の只中に、碁盤の目のように交錯する幾条もの路。左右を川に挟まれ、奥に聳える山々に抱かれたこの地形を、透子は地図上の存在として知っている。
(旧都……?)
馬車で丸一日以上を要する距離を、仙龍は二時間足らずで翔けてきた。
仙龍は水を湛えた池を越え、右手の二股の川へと首を向けた。その合流地点、三角洲に広がる森の上まで来たところで、合図もなければ速度も緩めず下降を始める。
「っきゃああああああああッッ!?」
殆ど垂直、降下を通り越し落下の勢いで迫る地表に、透子の喉から尾を引く悲鳴が迸った。なまじ払暁でぼんやりと視界が利くようになったせいで、根源的な恐怖に心臓が飛び跳ねる。理性で無駄と悟りつつも、本能が固く目を瞑った。
だが、衝撃は覚悟した千分の一にも満たなかった。叩きつけられるのではなく抱きとめられるような感触を背中と膝裏に覚える。
おそるおそる瞼を開くと、青年の姿に戻った仙人が、鍛え上げられた両腕で透子を横抱きに抱えていた。肩から式鬼の姿は消えている。兎にも角にも、地面がすぐ足の届く距離に戻ってきた安堵で全身の強張りが解け、そのはずみで眦から涙がひと雫だけ転がり落ちた。
それを、仙人がすかさず舌先で舐め取る。
「ひゃあぁっ!?」
透子は調子外れの声を上げ、次いで仙人の腕から降りようと身を捩らせた。
「っ、降ろしてっ」
「裸足だろう、おとなしくしていろ」
「…………」
反論の余地のない指摘に言動を封じられ、そこでようやく透子は周囲を見回す余裕ができた。
肌に涼しく沁みる空気に満ちた、濃い森の只中。薄日ではその全容を照らし出すには至らず、そこここに夜の名残が蟠っている。微かに届く、せせらぎの音が耳に清々しい。
そして二人の眼前には、樹齢幾星霜とも知れない、この森の中でひときわ高く太く枝葉を広げる巨木。その波打つ根元にはこれまた巨大な洞があり、三尺はある仙人も悠々と通れるほどの四足門が構えられていた。
透子を抱いたまま、仙人が片手で門扉を軽く押しただけで、重厚な軋みと共に門が開く。仙人は大股に歩を進め、門をくぐった。
「…………!」
洞内の景色に、透子はまたも言葉を失う。
桃瀬家さえ比べ物にならないほど立派な屋敷が、そこにあった。
光を織った縮緬のような細波を描く川に、今を盛りと繁る木々と花々。その眺めの各所で朝陽を受けて輝くのは瑠璃紺の瓦屋根。透廊が棟々を繋ぎ、軒下には緻密な装飾の灯籠が連なる。白い花弁が流れる水面には、鱗のきらめきも垣間見えた。
それは、御伽話に語られる仙窟そのもの。蓬莱という名と共に忘れられつつある一幅の絵画のような景観、その登場人物の一人に、仙女の従妹ではなく「蟲喰い」の自分がなろうとしている。
「もう大丈夫です。歩けます。ここなら裸足でも平気です」
「……そうか」
回廊を回ることなく中央を突っ切り、最も大きな建物の裏手から長く伸びる透橋に上がったところで、いいかげん気恥ずかしさに耐え切れなくなった透子は強硬に言った。仙人は渋々といった様子で透子を降ろしたが、紺の羽織をその肩に掛け、羽織ごと抱き寄せて歩く。変わらない密着の度合いに透子は閉口したが、逆に仙人はこの上なく御機嫌麗しそうであった。
言葉で語らないその真意を探ろうと横目に見て初めて、一日の始まりの陽光を浴びるその髪が、完全な漆黒ではなく青みがかった黒だと気づく。月光を受けた龍の鬣と同じ、夜の一歩手前の空のような色。
仙境は山里よりも春の訪れが遅いのか、橋の両側では満開の桜が花弁を波打たせている。
ともあれ、これでようやく透子は、蟲から仙女から、あの山里から逃げられた。
その解放感と、地に足のついた安堵感に気が緩み、今まで退けられていた睡魔が一挙に押し寄せてくる。
やや足下の覚束なくなった透子をしっかりと支え、仙人がフッと小さく笑った。切れ長の目だから、流し目がとても様になる。
「二年……いや一年半くらいか。伸び伸びと健やかに暮らすがいい。────完全に熟すまでな」
それは些か奇妙な言い回しのように透子には聞こえた。機が熟する、ということだろうか。だとしたら、その「機」とはいつで、何を意味するのか。確か彼は「これほど早い再会になるとは」「もう少ししてから引き取りに来るつもりだった」と言っていたと、薄靄の漂い始めた頭の片隅で思い出す。
「……熟したら?」
足運びだけでなく、呂律も怪しくなってきた。
熟したら「また会おう」。会って、そうして────?
突然、仙人が身を翻し、透子は白木の柱に背を預ける格好になった。追い詰められた状態で、頤を仙人の長く整った指で掬われ、強制的に視線を絡め取られる。
眼前に、またあの、目を離せない不遜な笑みを浮かべた蒼の瞳がある。
答えは簡潔だった。
「────おまえを喰う」
息が止まった。
それは何かの比喩なのか、それとも────本気か。
凍りついた透子を額が触れるほどの至近距離で見下ろし、仙人は更に言う。
「肉を齧って血を啜る。想像しただけで堪らないな」
「────!」
その言葉を証明するように、仙人は透子の鼻先を甘噛みした。傷を刻むような力ではない、けれど確かに、歯が触れた。
そこで、夜通し過度な緊張に晒され続けた心身に限界が来た。
糸が切れるように、透子は意識を手放した。



