「俺のトーコに手を出すのはやめてもらおうか」
気圧差の痺れが残る耳でその言葉を聞きながら、透子は何度か瞬きを繰り返し、混乱した視界にようやく景色が戻ってきた。
見上げた横顔の、苛烈な青い眼差しに、記憶が揺り起こされる。
「あなたは……」
満月の下で出遇った、群青の瞳と靡く黒髪の仙人。透子の血を舐め、透子の額に印を授けた者。上質だがごくありきたりな羽織姿ではあるものの、印象的なその目を髪を、見間違うはずがない。
透子の小さな呟きに気づき、視線を寄越した仙人は微かに目許を緩める。だがそれでもなお、柔和さよりも色濃く浮かぶ鋭利さは拭えなかった。
「な……っ、誰、いや、なんだおまえは!?」
納戸は四方の壁が全半壊し、随分と風通しがよくなってしまっていた。その残骸からどうにか起き上がった伊織が、怒りと恐れのない交ぜになった絶叫を絞り出す。さすがに、己を打ちのめした相手が尋常の存在ではないことは理解したようだ。
同時に、透子の鼻は焦げ臭さを嗅ぎ取る。吹き飛ばされて転がった行灯から火が燃え移り、剥き出しになった柱を駆け上がっていく様子が見えた。
道理で、真夜中にも関わらず相手の服装や表情まで判別できるわけだ。などと感心している場合ではなかった。火事。まだ小火の範疇だが、一大事である。
対処するため動こうとしたが、肩から仙人の手が離れない。透子が苦情を言う前に、バタバタと、忙しなく廊下を走る音が複数近づいてきた。納戸どころか主屋全体を大きく揺るがした嵐に叩き起こされた崇文や千鶴、絢乃が、伊織の大声に気づいて駆けつけてきたのだ。更に遅れてナツたち下屋の奉公人たちも姿を見せ、惨状に息を呑む。
「何事だ!?」
「ひっ、火が! 火事だわっ」
「お兄様、いったいどういうこと!?」
「早く水を! 早くせんか!!」
「はっ、はいぃっ!」
押し寄せた奉公人たちは即座に踵を返し、井戸へと向かう。崇文と千鶴は火を叩き消そうと躍起になったものの、嵐の名残のような夜風に煽られ、既にその程度で収まる炎ではなくなっていた。廊や梁を走り、部屋から部屋へ、加速度的に燃え広がっていく。
両親が半狂乱に陥る中、伊織は敵愾心に満ちた目で仙人を睨み返す。そして絢乃は、揺らぐ炎に慄きながらも、その炎が照らし出す、近寄りがたいほどに常人離れした美貌の仙人に目を奪われていた。
一家それぞれの反応を一顧だにせず、仙人は肩を抱いたまま透子に語りかける。炎が回りつつあるというのに、至って涼しい顔だ。
「これほど早い再会になるとはな。まあいい、行くぞ」
「行くって……」
「待て! どこに連れて行こうって言うんだ!?」
その一言に、当の透子よりも伊織のほうが強く反応した。必死の形相ではあったが、立ち上がった仙人は、躍る炎を背景に、氷よりも凍てついた眼差しを向ける。
「式鬼の目を通じてしばらく観察させてもらった。ここはトーコが健やかに育つためには環境が悪すぎる」
「……っ」
胴長の蜥蜴を肩に乗せた仙人は、いっそ傲岸な口調で言ってのけた。
自宅を「環境が悪すぎる」と痛罵された伊織は、反論できずに押し黙る。「泥棒猫の娘」「蟲喰い」に対し、熾烈を極めた虐待の数々。彼はそれに加担こそしなかったものの、人々を諫めたり、透子を庇ったりすることもなかった。だから透子も、薄っぺらな親切しか見せない伊織に心を許しはしなかった。
「本当はもう少ししてから引き取りに来るつもりだったが、これ以上看過できん。トーコは俺のものだ、これからは存分に愛でてやる」
強烈な独占欲を隠そうともしない台詞に、桃瀬の兄妹は揃って青褪め、透子も釈然としないものを感じる。今夜を含め二度会っただけの相手に、ここまで情熱を向けられる理由が解らない。だが絶望を刻まれたばかりの身としては、むしろこの熱烈さに賭けてみたい気もした。
それにしても、透子は仙人の名を知らないのに、何故彼は当然のように透子の名を口にしているのだろう。同じことを思ったのか、絢乃まで、普段の淑やかさをかなぐり捨てて喚き散らす。
「『蟲喰い』! どうして仙人様が、あんたなんかを知ってるのよ!?」
「仙人ですって!?」
仙女の呼び声は伊達ではない。その仙術を目の当たりにしていないにも関わらず、一目で正体を看破した絢乃の言葉に、千鶴が驚嘆の声を上げた。
「仙人様! どうかお助けを、この火を消していただきたい!」
絢乃の誕生を除けば実に半世紀ぶりの仙人降臨に、屋敷の当主が裏庭に五体投地する勢いで乞い願う。奉公人たちが桶に汲んできた水を撒くものの文字通りの焼け石に水、最早仙人の奇跡に縋るほかない。
その仙人の隣に立つ透子としても、楽観視できる状況ではなかった。障子の桟が炭化して崩れる。炎に呑み込まれるのは時間の問題だ。
仙人は、炎を怖れず、悲愴な願いにも一切耳を貸さなかったが、何かに気づいたように視線を闇空の彼方へと向ける。
彼の直感は、それほど間を置かず、右往左往する只人たちにも明らかになった。
るるるる らららららら……
声が近づいてくる。歌声だ。この世のものとは思えないほどに妙なる、それゆえにひどく場違いな比類なき歌声。────空から。
「なんだあれは!?」
「ぅわああぁぁっ!」
歌いながら月待ちの空を翔んできたのは、一羽の巨大な鳥。ただし頭はふたつあり、羽を広げた姿は三丈近い。
奉公人たちの悲鳴を掻き消す勢いで絢乃が絶叫する。
「────命命鳥!」
仙境に住まう霊鳥。それが、夜闇に紛れて人界の空に彷徨い出てきた。
「火の明るさにつられて降りて来ただけだろう、気にすることは」
仙人一人が動じていなかったが、命命鳥が空気を振るわせるほどの甲高い大音声を納戸跡めがけて叩きつけると、さすがに声が途切れた。
キアアアァァアアッ────
「…………ッ」
「きゃあぁっ」
衝撃波さえ生じるほどの音の暴力に、透子も咄嗟に耳を塞いで叫んだ。屋根瓦が吹き飛び、煽られた炎がより勢いを増す。中には気絶する者もいた。
誰よりも早く顔を上げた仙人が、切り裂くような目つきで命命鳥を見据える。
「人界に彷徨い出て嗅ぎつけたのがおまえの不運だ、トーコは渡さない」
やはり、この怪鳥も「蟲喰い」を狙っているのか。慄いた透子を、仙人が有無を言わさず抱き上げる。
「ひゃあっ!?」
裏返った透子の悲鳴と棚引く煙に構わず、仙人は裏庭に降りた。火傷どころか、羽織の端すら焦げていない。
「ここから動くなよ」
仙人が透子を降ろすと、式鬼も彼の肩から滑り降り、透子を囲むようにしてまた己の尾を食み円を描いた。
その直後、仙人の姿がぐにゃりと揺らぐ。錯覚かと目を疑う前に、彼を中心に巻き起こった旋風が人々の視界を奪った。
「う……っ」
咄嗟に腕を上げて顔を庇った透子の頭に、何かがばさりと落ちてくる。見ると、それは仙人の着ていた紺色の羽織だった。
では中身は? 首を巡らせた透子の目が厨房の上空に捉えたのは、波打つ大きな鱗。
翼を広げた命命鳥と対峙する、一対の角と髭、羽を持つ龍神。
「…………!」
悠に十丈はあろう流麗なその姿に、立ち尽くしていた伊織と絢乃だけでなく、消火を諦め家財道具を運び出そうとしていた当主夫妻や奉公人たちも、茫然と釘づけになる。
絢乃が気圧されたように呟いた。
「五本爪の龍……」
龍の格は爪の数で決まると、透子も聞いたことがある。五本爪はその最高位だ。
露わとなった本性に、命命鳥が尻込む姿勢を見せたが、最上級の龍は容赦しなかった。
仙龍の咆哮が強風と雷雲を招き、昇り始めた朧月を完全に覆い尽くす。黒く垂れ込めた雲が低く唸り、奔るように白い光が閃く。
ついにそこから駆け下りた稲妻が、主屋の一部を粉砕した。
「っ、もう屋敷は駄目だ、逃げるんだ! 透子さんも! ……痛っ!?」
皆に向かって叫び、透子に手を伸ばした伊織だったが、触れる寸前、それこそ雷に打たれたように弾かれた。思いがけない反応に、透子も驚いて言葉を失う。
しかしよくよく見渡すと、火の粉が激しく舞い、建物が大きく軋む中、透子の周囲……蜥蜴の環の内側だけ、微風程度の影響しかなかった。炎の熱も届かず、雷鳴の轟きも壁に遮られているかのようだ。
相手を威嚇し、自身を鼓舞するようにけたたましい雄叫びを上げた命命鳥が、一転して結界に護られた透子を狙い、まっしぐらに急降下してくる。だが追う仙龍のほうが速い。
強靭な顎が、一対の首の片方を捕らえた。命命鳥は醜く叫喚し、龍の牙から逃れようと必死にのたうつ。が、喰らいついた仙龍はその足掻きを押さえ込んで離さない。
長くはない攻防の果てに、命命鳥の首の骨が砕けた。残る一方の首が断末魔の絶叫を狂った音階で奏でる。
ギャアアアアァァァッッ────
仙龍は首を振るって、絶命寸前の命命鳥を倉の屋根に投げつけた。そこにとどめのように落雷が炸裂する。
怪鳥は大きく痙攣し、二度と動かなかった。このまま屋敷と共に炎上し、人界に痕跡を残すことなく燃え尽きるだろう。
雨を伴わない嵐が弱まる気配を見せ始め、疾風を纏った翼持つ仙龍が地上へ降り立つと、その姿は仙人へと戻っていた。三つ鱗の地紋の白地に藍色の流水紋が描かれた、あの夜と同じ狩衣姿。組紐で結った髪が龍の尾の如く靡き、姿勢のいい背中に流れ落ちる。
全焼を免れ得ないであろう屋敷にはやはり頓着せず、仙人は改めて透子に手を差し伸べた。
「とんだ邪魔が入ったな。ほら行くぞ、トーコ」
断られることなど微塵も想定していない、傲慢さすら漂う響きだった。結界を解いて元の大きさに縮んだ式鬼が再び主君の肩によじ登り、縦長の瞳孔でじっと透子を見据える。教えていないはずの名を当たり前のように呼ばれ、胸が奇妙に高鳴った。
だが、透子を誘う声を押し退けるように、引き留めようとする声も上がった。
「待って、透子さん! 行くんじゃない!!」
当主夫妻と奉公人たちが遠巻きに屋敷の終焉を見つめる中、まだ妹と共に裏庭に踏み留まっていた伊織が、切羽詰まった声で透子を呼び止めた。炎の照り返しが、引き攣った頬を明るく染める。
「ここにいてほしい。行かないでくれ、お願いだ……!」
「…………」
透子は乾いた眼差しで伊織を見つめ返す。今夜鍍金が剥がれたものの、この山里で唯一、透子に好意を示してくれた従兄。……仙女と讃えられる妹に劣等感を持ち、古びた信仰の支配する故郷をどこか見下しながらも、旧家の跡取りという座を捨てようとはしない彼。
透子はこの里が嫌いだった。そんな自分を、里から連れ出そうとする者と、里に縛りつけようとする者。
どちらを選ぶかなど、迷うまでもない。
透子は仙人に向き直り、紺の羽織を抱き締めて宣言した。
「……っ不束者ですが、よろしくお願いします!」
言ってから、これでは嫁入りのようだと思って頬が熱くなる。威勢よく言い切った透子の声に、伊織と絢乃が目を剥いたが、仙人は蒼い双眸を細めて笑った。
「いい子だ」
大きな掌が透子の頭をぽんぽんと撫でる。これほど優しく触れる手は、母を亡くして以来だ。だが直後、後ろから足払いをかけられたように、透子の両足は地面から離れた。
「わあっ!?」
上擦った声と共に透子は尻餅をつき、立ち上がろうとして、今度は円環ではなく球体に閉じ込められていることに気がついた。辛うじて中で膝立ちできる程度の大きさの、炎を反照する玻璃のような珠。
思わずぺたぺたと触ると、やはり硝子のように硬く、心地よい冷たさの手触りだった。透子が珠の中で呆気にとられる一方で、珠の外で絢乃が仙人に言い縋る。
「……仙龍様! あたくしも連れて行ってくださいませ!」
「絢乃!? おまえまで何言ってるんだっ」
「仙龍様でしたら、あたくしの霊力が判るでしょう? 仙境に渡りあなた様と共にあるのはあたくしのほうが相応しいはずです!」
兄の制止に構わず、乱心と紙一重の熱心さで詰め寄る絢乃に、ごく僅かに眉をひそめた仙人は一言で返す。
「別におまえは要らない」
「っ」
仙人が絢乃を見返す眼差しには如何なる感情も浮かんでおらず、路傍の石に向ける視線と変わりなかった。願いを即座に払い除けられた絢乃の顔に屈辱の朱が走る。
「俺が欲しいのはトーコだけだ」
臆面もなく公言すると、これ以上の横槍を拒むように再び仙人の姿が歪み、一陣の突風と共に羽を背負う龍の形になった。
巨大な五本爪が、透子を封じた宝珠を鷲掴む。鱗に覆われた尾をしなやかに一振りし、飛膜の翼を羽ばたかせた仙龍は、雷雲が晴れつつある二十三夜の空へと一息に躍り上がった。夜を焦がして燃え盛る屋敷、嘆く気力すら失われた人々を置き去りに、彼方の月へと昇る勢いで飛翔する。
「……!」
母に連れられ父の故郷を訪れて丸四年。透子は青い眼の仙龍と共に、いい思い出など何ひとつない山里を後にした。
気圧差の痺れが残る耳でその言葉を聞きながら、透子は何度か瞬きを繰り返し、混乱した視界にようやく景色が戻ってきた。
見上げた横顔の、苛烈な青い眼差しに、記憶が揺り起こされる。
「あなたは……」
満月の下で出遇った、群青の瞳と靡く黒髪の仙人。透子の血を舐め、透子の額に印を授けた者。上質だがごくありきたりな羽織姿ではあるものの、印象的なその目を髪を、見間違うはずがない。
透子の小さな呟きに気づき、視線を寄越した仙人は微かに目許を緩める。だがそれでもなお、柔和さよりも色濃く浮かぶ鋭利さは拭えなかった。
「な……っ、誰、いや、なんだおまえは!?」
納戸は四方の壁が全半壊し、随分と風通しがよくなってしまっていた。その残骸からどうにか起き上がった伊織が、怒りと恐れのない交ぜになった絶叫を絞り出す。さすがに、己を打ちのめした相手が尋常の存在ではないことは理解したようだ。
同時に、透子の鼻は焦げ臭さを嗅ぎ取る。吹き飛ばされて転がった行灯から火が燃え移り、剥き出しになった柱を駆け上がっていく様子が見えた。
道理で、真夜中にも関わらず相手の服装や表情まで判別できるわけだ。などと感心している場合ではなかった。火事。まだ小火の範疇だが、一大事である。
対処するため動こうとしたが、肩から仙人の手が離れない。透子が苦情を言う前に、バタバタと、忙しなく廊下を走る音が複数近づいてきた。納戸どころか主屋全体を大きく揺るがした嵐に叩き起こされた崇文や千鶴、絢乃が、伊織の大声に気づいて駆けつけてきたのだ。更に遅れてナツたち下屋の奉公人たちも姿を見せ、惨状に息を呑む。
「何事だ!?」
「ひっ、火が! 火事だわっ」
「お兄様、いったいどういうこと!?」
「早く水を! 早くせんか!!」
「はっ、はいぃっ!」
押し寄せた奉公人たちは即座に踵を返し、井戸へと向かう。崇文と千鶴は火を叩き消そうと躍起になったものの、嵐の名残のような夜風に煽られ、既にその程度で収まる炎ではなくなっていた。廊や梁を走り、部屋から部屋へ、加速度的に燃え広がっていく。
両親が半狂乱に陥る中、伊織は敵愾心に満ちた目で仙人を睨み返す。そして絢乃は、揺らぐ炎に慄きながらも、その炎が照らし出す、近寄りがたいほどに常人離れした美貌の仙人に目を奪われていた。
一家それぞれの反応を一顧だにせず、仙人は肩を抱いたまま透子に語りかける。炎が回りつつあるというのに、至って涼しい顔だ。
「これほど早い再会になるとはな。まあいい、行くぞ」
「行くって……」
「待て! どこに連れて行こうって言うんだ!?」
その一言に、当の透子よりも伊織のほうが強く反応した。必死の形相ではあったが、立ち上がった仙人は、躍る炎を背景に、氷よりも凍てついた眼差しを向ける。
「式鬼の目を通じてしばらく観察させてもらった。ここはトーコが健やかに育つためには環境が悪すぎる」
「……っ」
胴長の蜥蜴を肩に乗せた仙人は、いっそ傲岸な口調で言ってのけた。
自宅を「環境が悪すぎる」と痛罵された伊織は、反論できずに押し黙る。「泥棒猫の娘」「蟲喰い」に対し、熾烈を極めた虐待の数々。彼はそれに加担こそしなかったものの、人々を諫めたり、透子を庇ったりすることもなかった。だから透子も、薄っぺらな親切しか見せない伊織に心を許しはしなかった。
「本当はもう少ししてから引き取りに来るつもりだったが、これ以上看過できん。トーコは俺のものだ、これからは存分に愛でてやる」
強烈な独占欲を隠そうともしない台詞に、桃瀬の兄妹は揃って青褪め、透子も釈然としないものを感じる。今夜を含め二度会っただけの相手に、ここまで情熱を向けられる理由が解らない。だが絶望を刻まれたばかりの身としては、むしろこの熱烈さに賭けてみたい気もした。
それにしても、透子は仙人の名を知らないのに、何故彼は当然のように透子の名を口にしているのだろう。同じことを思ったのか、絢乃まで、普段の淑やかさをかなぐり捨てて喚き散らす。
「『蟲喰い』! どうして仙人様が、あんたなんかを知ってるのよ!?」
「仙人ですって!?」
仙女の呼び声は伊達ではない。その仙術を目の当たりにしていないにも関わらず、一目で正体を看破した絢乃の言葉に、千鶴が驚嘆の声を上げた。
「仙人様! どうかお助けを、この火を消していただきたい!」
絢乃の誕生を除けば実に半世紀ぶりの仙人降臨に、屋敷の当主が裏庭に五体投地する勢いで乞い願う。奉公人たちが桶に汲んできた水を撒くものの文字通りの焼け石に水、最早仙人の奇跡に縋るほかない。
その仙人の隣に立つ透子としても、楽観視できる状況ではなかった。障子の桟が炭化して崩れる。炎に呑み込まれるのは時間の問題だ。
仙人は、炎を怖れず、悲愴な願いにも一切耳を貸さなかったが、何かに気づいたように視線を闇空の彼方へと向ける。
彼の直感は、それほど間を置かず、右往左往する只人たちにも明らかになった。
るるるる らららららら……
声が近づいてくる。歌声だ。この世のものとは思えないほどに妙なる、それゆえにひどく場違いな比類なき歌声。────空から。
「なんだあれは!?」
「ぅわああぁぁっ!」
歌いながら月待ちの空を翔んできたのは、一羽の巨大な鳥。ただし頭はふたつあり、羽を広げた姿は三丈近い。
奉公人たちの悲鳴を掻き消す勢いで絢乃が絶叫する。
「────命命鳥!」
仙境に住まう霊鳥。それが、夜闇に紛れて人界の空に彷徨い出てきた。
「火の明るさにつられて降りて来ただけだろう、気にすることは」
仙人一人が動じていなかったが、命命鳥が空気を振るわせるほどの甲高い大音声を納戸跡めがけて叩きつけると、さすがに声が途切れた。
キアアアァァアアッ────
「…………ッ」
「きゃあぁっ」
衝撃波さえ生じるほどの音の暴力に、透子も咄嗟に耳を塞いで叫んだ。屋根瓦が吹き飛び、煽られた炎がより勢いを増す。中には気絶する者もいた。
誰よりも早く顔を上げた仙人が、切り裂くような目つきで命命鳥を見据える。
「人界に彷徨い出て嗅ぎつけたのがおまえの不運だ、トーコは渡さない」
やはり、この怪鳥も「蟲喰い」を狙っているのか。慄いた透子を、仙人が有無を言わさず抱き上げる。
「ひゃあっ!?」
裏返った透子の悲鳴と棚引く煙に構わず、仙人は裏庭に降りた。火傷どころか、羽織の端すら焦げていない。
「ここから動くなよ」
仙人が透子を降ろすと、式鬼も彼の肩から滑り降り、透子を囲むようにしてまた己の尾を食み円を描いた。
その直後、仙人の姿がぐにゃりと揺らぐ。錯覚かと目を疑う前に、彼を中心に巻き起こった旋風が人々の視界を奪った。
「う……っ」
咄嗟に腕を上げて顔を庇った透子の頭に、何かがばさりと落ちてくる。見ると、それは仙人の着ていた紺色の羽織だった。
では中身は? 首を巡らせた透子の目が厨房の上空に捉えたのは、波打つ大きな鱗。
翼を広げた命命鳥と対峙する、一対の角と髭、羽を持つ龍神。
「…………!」
悠に十丈はあろう流麗なその姿に、立ち尽くしていた伊織と絢乃だけでなく、消火を諦め家財道具を運び出そうとしていた当主夫妻や奉公人たちも、茫然と釘づけになる。
絢乃が気圧されたように呟いた。
「五本爪の龍……」
龍の格は爪の数で決まると、透子も聞いたことがある。五本爪はその最高位だ。
露わとなった本性に、命命鳥が尻込む姿勢を見せたが、最上級の龍は容赦しなかった。
仙龍の咆哮が強風と雷雲を招き、昇り始めた朧月を完全に覆い尽くす。黒く垂れ込めた雲が低く唸り、奔るように白い光が閃く。
ついにそこから駆け下りた稲妻が、主屋の一部を粉砕した。
「っ、もう屋敷は駄目だ、逃げるんだ! 透子さんも! ……痛っ!?」
皆に向かって叫び、透子に手を伸ばした伊織だったが、触れる寸前、それこそ雷に打たれたように弾かれた。思いがけない反応に、透子も驚いて言葉を失う。
しかしよくよく見渡すと、火の粉が激しく舞い、建物が大きく軋む中、透子の周囲……蜥蜴の環の内側だけ、微風程度の影響しかなかった。炎の熱も届かず、雷鳴の轟きも壁に遮られているかのようだ。
相手を威嚇し、自身を鼓舞するようにけたたましい雄叫びを上げた命命鳥が、一転して結界に護られた透子を狙い、まっしぐらに急降下してくる。だが追う仙龍のほうが速い。
強靭な顎が、一対の首の片方を捕らえた。命命鳥は醜く叫喚し、龍の牙から逃れようと必死にのたうつ。が、喰らいついた仙龍はその足掻きを押さえ込んで離さない。
長くはない攻防の果てに、命命鳥の首の骨が砕けた。残る一方の首が断末魔の絶叫を狂った音階で奏でる。
ギャアアアアァァァッッ────
仙龍は首を振るって、絶命寸前の命命鳥を倉の屋根に投げつけた。そこにとどめのように落雷が炸裂する。
怪鳥は大きく痙攣し、二度と動かなかった。このまま屋敷と共に炎上し、人界に痕跡を残すことなく燃え尽きるだろう。
雨を伴わない嵐が弱まる気配を見せ始め、疾風を纏った翼持つ仙龍が地上へ降り立つと、その姿は仙人へと戻っていた。三つ鱗の地紋の白地に藍色の流水紋が描かれた、あの夜と同じ狩衣姿。組紐で結った髪が龍の尾の如く靡き、姿勢のいい背中に流れ落ちる。
全焼を免れ得ないであろう屋敷にはやはり頓着せず、仙人は改めて透子に手を差し伸べた。
「とんだ邪魔が入ったな。ほら行くぞ、トーコ」
断られることなど微塵も想定していない、傲慢さすら漂う響きだった。結界を解いて元の大きさに縮んだ式鬼が再び主君の肩によじ登り、縦長の瞳孔でじっと透子を見据える。教えていないはずの名を当たり前のように呼ばれ、胸が奇妙に高鳴った。
だが、透子を誘う声を押し退けるように、引き留めようとする声も上がった。
「待って、透子さん! 行くんじゃない!!」
当主夫妻と奉公人たちが遠巻きに屋敷の終焉を見つめる中、まだ妹と共に裏庭に踏み留まっていた伊織が、切羽詰まった声で透子を呼び止めた。炎の照り返しが、引き攣った頬を明るく染める。
「ここにいてほしい。行かないでくれ、お願いだ……!」
「…………」
透子は乾いた眼差しで伊織を見つめ返す。今夜鍍金が剥がれたものの、この山里で唯一、透子に好意を示してくれた従兄。……仙女と讃えられる妹に劣等感を持ち、古びた信仰の支配する故郷をどこか見下しながらも、旧家の跡取りという座を捨てようとはしない彼。
透子はこの里が嫌いだった。そんな自分を、里から連れ出そうとする者と、里に縛りつけようとする者。
どちらを選ぶかなど、迷うまでもない。
透子は仙人に向き直り、紺の羽織を抱き締めて宣言した。
「……っ不束者ですが、よろしくお願いします!」
言ってから、これでは嫁入りのようだと思って頬が熱くなる。威勢よく言い切った透子の声に、伊織と絢乃が目を剥いたが、仙人は蒼い双眸を細めて笑った。
「いい子だ」
大きな掌が透子の頭をぽんぽんと撫でる。これほど優しく触れる手は、母を亡くして以来だ。だが直後、後ろから足払いをかけられたように、透子の両足は地面から離れた。
「わあっ!?」
上擦った声と共に透子は尻餅をつき、立ち上がろうとして、今度は円環ではなく球体に閉じ込められていることに気がついた。辛うじて中で膝立ちできる程度の大きさの、炎を反照する玻璃のような珠。
思わずぺたぺたと触ると、やはり硝子のように硬く、心地よい冷たさの手触りだった。透子が珠の中で呆気にとられる一方で、珠の外で絢乃が仙人に言い縋る。
「……仙龍様! あたくしも連れて行ってくださいませ!」
「絢乃!? おまえまで何言ってるんだっ」
「仙龍様でしたら、あたくしの霊力が判るでしょう? 仙境に渡りあなた様と共にあるのはあたくしのほうが相応しいはずです!」
兄の制止に構わず、乱心と紙一重の熱心さで詰め寄る絢乃に、ごく僅かに眉をひそめた仙人は一言で返す。
「別におまえは要らない」
「っ」
仙人が絢乃を見返す眼差しには如何なる感情も浮かんでおらず、路傍の石に向ける視線と変わりなかった。願いを即座に払い除けられた絢乃の顔に屈辱の朱が走る。
「俺が欲しいのはトーコだけだ」
臆面もなく公言すると、これ以上の横槍を拒むように再び仙人の姿が歪み、一陣の突風と共に羽を背負う龍の形になった。
巨大な五本爪が、透子を封じた宝珠を鷲掴む。鱗に覆われた尾をしなやかに一振りし、飛膜の翼を羽ばたかせた仙龍は、雷雲が晴れつつある二十三夜の空へと一息に躍り上がった。夜を焦がして燃え盛る屋敷、嘆く気力すら失われた人々を置き去りに、彼方の月へと昇る勢いで飛翔する。
「……!」
母に連れられ父の故郷を訪れて丸四年。透子は青い眼の仙龍と共に、いい思い出など何ひとつない山里を後にした。



