伯父に先代子爵の妾になることを命じられたその夜、闇に閉ざされた納戸の中で、透子はなかなか寝付けずにいた。

 明日、いやもう今日も朝早くから、水汲みに薪割りに洗濯、やることは山ほどある。早く(やす)まなければ支障が出るというのに、受けた衝撃のあまりの大きさが、束の間の現実逃避さえ許さない。

 絢乃の祝言は三ヶ月後だと言われた。十七歳になるその月に、透子は先代子爵の妾になる。四年間血を流し続け、ついに致命傷を負った心が完全に死ぬ日。

 ……心は死ぬのに、躰は、先代子爵と従妹の玩具として生き続ける。

(お父さん……お母さん)

 綿の潰れた黴臭い褥に横臥し、瞼を伏せ、もう記憶の中にしかいない両親を呼ぶ。下女の母は勿論、名家の跡取りであった父さえ、家の恥として、一枚の写真も残っていなかった。そう言えば透子は、両親の遺骨の行方さえ知らない。二人が生き、愛し合った証は透子だけ。

「蟲喰い」という業だけを遺し、立て続けに亡くなった父母を恨もうとしたことは幾度となくある。けれどそのたびに思い出すのは、二人の優しい姿ばかりで、憎むことはどうしてもできなかった。

 望まれて産まれ、慈しまれて育った記憶があるから、この里で一人きりでも耐えてこられた。────けれど、それももう、限界だ。

 背後でつと、引き戸の動く気配がした。襖で間仕切られた邸内に個室の鍵という概念はないが、ここはそもそもが納戸、内側から施錠できるはずもない。

 できるだけ音を立てずに戸を開けたその人物は、身を起こして視線を真っ向から受けた透子に、少し驚いたようだった。

「……あれ、起きてたんだ」
「伊織様……?」

 手に行灯を提げて訪ねてきた従兄は、ややばつの悪そうな声を漏らした。

「こんな遅くにごめんね」

 そう口では謝りながらも、透子に許可を求めることなく伊織は納戸に入ってきて、戸の前に腰を下ろす。本能的に透子は身を引いたが、狭い室内、手を伸ばせばすぐに触れられる距離でしかない。

「……本当にごめん。あのあとも食い下がったけど、結局、父を説得することはできなかった」

 座敷での集まりが散会したのち、伊織が蒼白な顔で崇文を追った姿を、透子は虚ろな目で眺めていた。まだ若い従妹が老人に囲われることに唯一難色を示した彼は、父親に翻意を求め、そして叶わなかったのだろう。

「……伊織様がお謝りになることはありません」

 辛うじて透子はそう返したが、作り笑いさえ浮かべることができなかった。その様子を、伊織も沈痛な目で見返す。

「だけどあんまりだろう。父娘どころか、祖父と孫ほど歳の離れた老人の、しかも妾だなんて。……だから」

 ここで、二十年前の父が母に語ったように、ここから逃げよう、里を捨てようと言ってくれれば、透子は彼の手を取ったかもしれない。

 だが、二十年前の再来は起こらなかった。

「だからせめて、初めて(●●●)は、僕がもらってあげるよ」
「い……っ」

 嫌悪感しか呼び起こさない言い回しに、透子は全身の毛を逆立てる。だが逃げ場などなく、伊織は易々と透子の細い腕を掴んだ。その両目に、隠しおおせない狂気が宿っている。

「離してください!」
「最初の相手が萎びた老人なんて嫌だろう? 大丈夫、優しくしてあげるから」
「やめてっ……」

 透子の拒絶を聞き流し、異様な熱に浮かされた伊織は亀裂のような笑みを貼りつけた。穏和な表情の下に潜んでいた歪んだ欲望。痩身とは言え、腕を掴む手は痛みを覚えるほどに力強く、圧倒的な性差を突きつけてくる。

 恐怖と、それ以上の絶望が透子の胸を真っ黒に塗りつぶす。折れてしまった心を、この上蹂躙して粉微塵に砕こうというのか。

 伊織のもう一方の手が伸ばされたとき、突然、天井から何かがその頭に落ちてきた。

「うわっ!?」

 伊織は透子から手を離し、両手を頭上で振り回して「何か」を払い落そうとする。それ(●●)は、払い落とされたと言うよりも自主的に伊織の頭から飛び下り、膝をつき合わせた従兄妹たちの間に割って入った。

「なんだっ、蜥蜴?」
「っ」

 青く光る鱗に覆われた蜥蜴。その大きさは透子の足ほどもある。透子が山を下りた夕方に伊織が追い払ったものと同一の個体だろうか。首を起こして伊織を威嚇するような様子といい、気味悪く思っていいはずだが、「蟲喰い」として蛇や蛙にも慣れていることに加えて間一髪助けられた形にもなって、透子はそれほど怖れはしなかった。

「あっちへ行けっ、このっ」

 だが、邪魔をされた上に無様な姿を晒すことになった伊織は、怒り心頭に達して蜥蜴を薙ぎ払う。壁にぶつかって落ちた蜥蜴はすぐさま体勢を立て直し、壁を這い上がった。────その胴が、まるで粘土細工のように長く伸びる。

「なん……っ」
「いやあっ」

 これにはさすがに、伊織も透子も仰天した。透子の身長よりも長く、蛇のように伸びた蜥蜴は、二人の反応を置き去りに行灯の光も届かない天井に貼りつき、自身の尾に喰らいついて円を描く。

 その円から、逆巻く嵐が落ちてきた。

「!」

 二人とも、悲鳴を上げる間もなかった。晴天の霹靂よりなおあり得ない屋内の竜巻に弾き飛ばされ、伊織は先程の蜥蜴よろしく壁に叩きつけられる。同じく透子も衝撃は不可避だったが、壁への激突は回避された。

 五秒足らずで荒れ狂う暴風が消えると、透子は、腰の抜けた自分の肩を誰かがしっかりと支えてくれていることに気づいた。

 その「誰か」は、納戸の壁と廊下の障子を突き破って裏庭に転がり落ちた伊織に向かい、傲然と言い放つ。

「俺のトーコに手を出すのはやめてもらおうか」