山籠りからおよそ一ヶ月。溢れる梅に続いて桜が蕾をつけ、膨らみ、綻び、咲き誇り、散り果てる。

 その間、透子は一度も絢乃に蟲祓いの呪符を請わなかった。二ヶ月近く前に渡された符は、啓蟄から春分、清明に渡って効力を発揮し続け、昼も夜も、一匹たりとて蟲は寄ってこない。

 絢乃としては、透子をいたぶる口実がなくなった反面、通力の強さの証左でもあるため、さぞ複雑な心境だろう。とは言え、従姉を奉公人として顎でこき使うこと自体は通常運転である。

 一方で透子も、従妹とは似て非なる戸惑いを隠せずにいた。

 絢乃の通力が再び強まった可能性も、勿論なくはない。だが透子にはそれ以上に思い当たる節があるのだった。

(……もしかして)

 穀雨を控えた一日の終わり、行灯の頼りない明かりを横に置いて、母の形見の手鏡を左手に持ち、右手で前髪を掻き揚げる。剥き出しになった丸い額、眉間の少し上に、古い時代の女官や仙女の花鈿のような痣が浮かび上がっていた。

 ……山籠りの満月の夜、青く輝く瞳の仙人が口づけた場所。

(これのおかげ……?)

 偶然と退けるには、あまりにもタイミングが合いすぎている。

 痣は角がやや丸みを帯びた菱形で、角度によって様々な色に煌めく。痣と言うよりも、葉や花弁を模した刺青に近い。普段から前髪を下ろしているから誰にも見られてはいない、なんなら透子自身、数日気づかなかったくらいだ。

 どれほど疎まれ蔑まれ、悲しくても悔しくても、「蟲喰い」は、仙女の下でしか生きられない。そう刷り込まれていた大前提が、ここに来て大きく覆ろうとしている。

「蟲喰い」に呪符を授ける機会がなくても、下女としての粗を目敏く見つければ、絢乃はまた、「だったら出て行きなさいよ、できるものならね」と透子を皮肉るだろう。……そのとき、「わかりました、ではさようなら」と涼しい顔で返すことができれば、どれほど胸がすくことか。

 次に絢乃にそう言われたら、お望みどおり、こんな里、出て行ってやる。そう心を決めてしまうと、仙女の挑発がむしろ待ち遠しい。

 しかしそのすぐ翌日の昼下がり、従妹の脅迫よりも先に、透子は伯父、桃瀬家の当主に広間へと呼びつけられた。この四年で初めてのことだ。

 怪訝と不安を抱えつつ座敷へ向かうと、室内には、水墨画の掛軸を飾った床の間を背に上座に座る伯父だけでなく、次席の伯母と二人の従兄妹、桃瀬一家が集結していた。

 透子の呼び出しを聞かされていなかったのか、伊織と絢乃は、「どうしてあなたが」と、異口同音の目線を向けてくる。伊織の表情に浮かんでいるのは純粋な驚きだが、絢乃の眉間には忌々しさが漂っていた。

「……失礼いたします」

 針の筵の心地で、透子は下座で手を付き一礼する。頭を上げると、留紺の変わり花菱小袖に半幅帯を合わせた伯母の憎悪に満ちた眼差しと目が合った。

 伯母の千鶴(ちづる)は、もしかしたら絢乃以上に透子を毛嫌いしている。理由は明白だ。彼女にとって透子は、婚約者を奪った女の娘なのだから。結局は義弟になるはずだった崇文(たかふみ)と結婚することで予定どおり桃瀬の女主人に納まり、後継ぎの一男一女を設け、その一女が仙女としてこれ以上ない名声を得ても、女としての恨みは尽きないものらしい。

 逆に、当時の桃瀬家で唯一、透子の父の駆け落ちを喜んだのが伯父崇文だろう。慣習どおり長男が家を継げば、次男の彼は、よくて他家への婿入り、悪ければ一生冷や飯食いであったはずだ。だがその暗い感謝が姪への好感に結びつくわけでもなく、厄介だが無償で使える下僕としか見做していなかった。

 その崇文が、顎を傲然と上げて重々しく口を開く。

「絢乃と、五十嵐(いがらし)子爵家ご嫡男との縁談が正式にまとまった」
「まあっ……」

 吉報に、絢乃が可愛らしく口許で手を合わせ、顔を綻ばせる。伊織も千鶴も、めでたそうに破顔した。

「おめでとう、絢乃」
「祝言が楽しみだこと。ああでも、そうすると絢乃は京へ行ってしまうのね、嬉しいけど淋しいわ」
「ありがとうございます、お母様、お兄様」

 和気藹々とした母子たちの様子を、透子は呆然と眺める。まさか決心した透子よりも先に、絢乃がこの山里を出て行くことになるとは。

 だが従姉妹は共に今年で十七歳、気づけば結婚適齢期真っ只中だ。

「『絶対に仙龍様の花嫁になる!』って息巻いてた絢乃が結婚かあ。次期子爵殿は龍神よりも佳い男だったのかな?」
「嫌だわお兄様、そんな昔の戯言をいつまでも」

 兄からの祝福と愛情に満ちた揶揄を、妹もはにかみながらも笑顔で受ける。

 登仙は人だけの特権ではない。魚や鳥や獣、草木などの動植物、時には岩や刀といった無生物さえも、永い歳月を経て神性を帯びることがある。特に、桃瀬家とも縁深いという龍は、鱗・羽・裸・毛・介に大別される生物のうち、鱗族の筆頭格だった。

 だんだん、透子にも状況が読めてきた。

 一ヶ月前、一家揃って旧都に出向いたのは、子爵家との見合いと挨拶のためだったのだ。遷都から半世紀足らずの帝都と違い、千年以上王都としての歴史を持つ旧都は、まだ比較的、古い慣習や敬虔さが残っている。絢乃の美貌に加え、仙女としての神秘性が見初められたからこそ、僻地の娘が華族の嫁に選ばれたに違いない。

 そして、絢乃も頬を染めて喜んでいるということは、相手は家柄だけでなく、その容姿や物腰なども、気位の高い仙女のお目に適う好青年だったのだろう。

 そこまでは判る。しかしこの場に透子が呼ばれた理由が解らない。

 その答えは、やはり上座の伯父から告げられた。

「透子、おまえも女中として共に行け」
「え?」
「は!?」
「父さん!?」

 従兄妹三人、揃って驚愕の声を上げる。千鶴も声こそ出さなかったものの、信じられないものを見る目で夫を凝視した。崇文は煩わしそうに眉をひそめる。

「仕方があるまい、絢乃の仙符がなければ、『蟲喰い』はまともに生活できんだろう」
「それはそうですが、子爵家に、こんな不吉な粗忽者を引き連れて行くなんて」

 千鶴は夫の言に納得がいかないようだったが、それは透子も同様だった。多少手順は狂ったものの、ようやく絢乃の支配から解放されると思ったのに。

 もしかしたら、今ここが、額の菱紋を明らかにし、決別を宣言する時ではないのか。

 口を開きかけた透子より僅かに早く、崇文が言った。

「まあ聞け。女中というのは表向き(●●●)だ。絢乃の身の回りの世話は、子爵家の使用人たちがきちんと請け負ってくれる」
「『表向き』?」

 当事者の一人である絢乃が小さく繰り返す。

「五十嵐家の先代は表舞台を離れて子爵邸の別館に隠居しているものの、未だにお盛ん(●●●)らしくてな。妻にも妾にも先立たれて、昼夜の世話(●●)をしてくれる若い後添いをご所望なのだそうだ」
「────っ」

 透子は鋭く息を呑んだ。伯父の言わんとしていることが解ってしまったからだ。同様に察した絢乃が、弾んだ声で明言する。

「まあっ。ではあたくしは五十嵐子爵の若君に、透子さんは先代に、それぞれ嫁ぐということですの?」
「正式に先代の後妻になるわけではないがな。体裁もあるし、飽くまで名目は『世話係』だ。だがさすがは子爵家、透子の分まで結納金を包んでくださるそうだ」

 それは結納金ではなく身請け金、もしくは口止め料だろう。

 残酷にはしゃぐ妹と裏腹に、伊織が立ち上がって憤慨した。

「父さん! どうしてそんな惨いことを! 透子さんは僕が……っ」
「口を挟むな。おまえには桃瀬の跡取りとして、千鶴同様、由緒ある仙人の一族から優秀な嫁をもらう。既に候補も見繕ってある」

 透子からするとややちぐはぐな遣り取りが父子の間で交わされ、絢乃は憐れみを装いきれていない嘲りの眼差しを透子に向ける。

「そうね、可哀そうな透子さんのことを忘れて一人で嫁入りする気でいたわ。ごめんなさいね?」

 白々しさ極まる謝罪に続き、とどめの一言が放たれる。

「あなたは一生、あたくしの下僕(もの)なのよ」
「────!」

 反論は喉の奥で潰えた。黒い愉悦を浮かべた絢乃の双眸によって、「『蟲喰い』を救えるのは桃瀬の仙女だけ」、という暗示が再び透子の思考を侵食していく。

 額の紋は、偶然にしてはできすぎていた。だがやはり、できすぎた偶然でしかなかったのかもしれない。蟲の寄ってこない今の平穏が何に由来するものか証拠はなく、また永続的だという保障もない。仙人の紋の効果と仮定したとして、仙女の符が有限だったように、効能が尽きたらどうすればいいのだろう。「また会おう」とは言われたが、その言葉が果たされる日は来るのか、来るとしてもいつになるのか。

 透子は彼の号も名も知らない。蒼い瞳と、夜の川のように流れた髪ばかりが鮮明で、もう顔さえ定かではない。

「嫁ぎ先でまで不憫な従姉の面倒を見ようだなんて、なんて慈悲深い仙女様でしょう」

 千鶴が嬉々として娘を褒め称えた。

 この先ずっと、死ぬまで絢乃に飼い殺される。それも、彼女が子爵夫人として幸せに暮らす姿を横目に、好色な老人の慰み者になりながら。

 唇から血の気の失せた透子の様子に、絢乃が勝ち誇ったようにニタリと笑う。

「これからもよろしく、透子さん」

 その瞬間、ぽきり、と乾いた音が耳の奥で響くのを、透子は確かに聞いた。

 それは、この山里での理不尽に四年間耐えてきた心が、ついに折れた音だった。