翌日の昼前、当主の家族四人を乗せた馬車と透子は、奉公人たちに見送られ、揃って桃瀬家を出立した。

 僅かな荷を携えて門を出た透子はとぼとぼと、しばらくは馬車の後ろについて歩く形になる。仙人の末裔たちを乗せた立派な馬車と、みすぼらしい徒歩の娘との対比に、畑仕事をする里人たちが、やはり対照的な視線を投げかけてくる。

「桃瀬家の馬車だ」
「相変わらず、見事なもんだよ」
「それに引き替え、後ろの『蟲喰い』と来たら……」
「本当、見苦しいったらありゃしないねえ」

 聞こえずとも解るひそやかな嘲りにいっそう惨めな気持ちになり、透子は機械的に足を運びながら項垂れた。

 次第に両者の距離は開き、やがて透子は轍の跡を逸れて山へと足を向ける。

 かつて桃や桐、牡丹など数多の花が咲き乱れ、仄かに菊の香薫る霊泉が滾々と湧き出ていた聖なる山々。特に桃瀬家の先祖は、蛟龍を従えたり龍女を娶ったりと龍神と縁深い者が多く、遺された竜血や竜骨は霊薬の原料として重宝されていた。……帝都育ちの透子からすれば、それらは単なる鉱物や化石に過ぎないのだが、文明開化の喧伝さえ一昔前のものとなった今も本気で、里の人々はその霊験を信じている。

 仙人も霊獣も去った山、だがその威容は些かも損なわれてはいない。屹立する巨木、空を覆う枝葉の天蓋。行き渡る風が運ぶ水の匂い、土の香り。

 その清浄な空気に浸りながら、透子は鬱々とあてどなく歩を進めているわけではなく、明確にある場所を目指していた。絢乃が「あたくしたちが帰るまで戻ってきては駄目よ」と厳命した以上、屋敷に戻っても奉公人たちに追い出されてしまう。一週間、山中で安全に過ごすための拠点は不可欠だった。

「……着いた」

 辿り着いたのは、小さな滝壺に程近い、古びた祠を備えた洞窟。入口は低いが内部は広く、かつて仙人が暮らしていたと思しきそこは、以前山に分け入った際に偶然見つけたものだった。風雨を凌げ、水にも困らない。

 岩壁に凭れ、ゴツゴツとした地面に腰を下ろす。山に入ったあたりから、小さな羽虫が纏わりついて鬱陶しいが、最早この程度は許容範囲だった。

 それでも透子は、手探りで胸元の守り袋を握り締める。

 絢乃が透子を「蟲喰い」と過剰に貶めるのは、焦りの裏返しでもあるのだと思う。最初の呪符は一年もった。それが半年、三ヶ月と短くなり、今では一ヶ月ともたない。ナツのように無邪気な尊敬を抱く者たちもまだまだ多く、本人は頑なに認めないが、齢を重ね、緩慢だが確実に、絢乃の通力は失せつつあった。

(……それに)

 凋落は絢乃ばかりではない。今も里一番の御大尽である桃瀬家だが、先代の頃に比べ奉公人の数は減った。下屋ではなく主屋に住まわせ、雇用する「下女」ではなく身内の「家事手伝い」という名目で無償で酷使できる透子は、当主にとって実に便利な存在だろう。最盛期は千人を数えた里の人口も今は五百人足らず。伊織も危惧していたとおり、まさに時代に取り残された、緩やかに終焉に向かう土地。

 遠からず、仙女から只人に堕ちたとき、絢乃は、桃瀬家は、里人たちはどうなるのだろう。……蟲を祓う術を失う透子自身も。

 避けがたい、だが恐ろしい未来の想像を振り払い、ひとまず透子は現在を生き延びることにした。雪解けの清冽な水で喉を潤し、食べられる野草や木の実を探す。

 そうこうしている間に太陽は青天を渡り、傾いたと思ったらあっという間に西の彼方へ沈んでしまう。今夜は満月と見紛う宵待だが、鬱蒼と無秩序に繁る枝葉がその姿を遮り、辛うじて木立をすり抜けた光りが洞窟の前を青白く照らしている。

 その月明かりを恃んで、火は熾さず、透子は入口から角を折れた場所に、薄い古着を上掛け代わりに寝転んだ。それでも、身体を内外から苛む空腹と肌寒さに加え、不愉快な羽音に周囲を飛び回られては、どうしても眠りは浅くなる。

 しかも、翌日には羽音はふたつになった。そこにガサガサ、ズルズルと迫る不気味な音まで混ざり、その夜の眠りは完全に妨げられた。

(何……?)

 目を凝らす必要はなかった。洞窟を一歩出た途端、真向かいの茂みを掻き分け鎌首をもたげた巨大な蛇と、まともに視線がぶつかったからだ。それは、大の大人も丸呑みできそうなほど……人界の常識ではありえないほどに大きい。

「…………ッ」

 声にならない悲鳴が掠れて漏れる。昼中(ひるなか)の虫や鳥などより、透子が真に怖れているものは実にこれだった。────闇の奥で蠢く有象無象の物の怪たちもまた、透子目掛けて這い出てくるのだ。

 それでも今までは、異形ではあっても「蟲」と括れる程度の小物ばかりだった。こんな大物に狙われてはひとたまりもない。

 視線を逸らさない大蛇は、確実に透子に狙いを定めている。

 その眼前を(よぎ)ることになる洞窟の外か、暗闇に閉ざされ行き止まりの可能性の高い洞窟の奥か。どちらに逃げるべきか、透子は咄嗟の判断に迷った。だか透子の決断を待たず、爛々と瞳を輝かせた大蛇は勢いよく茂みから飛び掛ってくる。

 次の瞬間、激しい光と音が夜を裂いた。

「!」

 まさに晴天の霹靂と言うべき至近距離での閃光と轟音に、透子は突き飛ばされたように後ろに転がる。身を起こしても、耳は使いものにならなかったが、一足先に回復した目は、月光の下に太い身を投げ出してぴくりとも動かない大蛇と、それを踏みつけて堂々と立つ人影を捉えた。

 背の高いその人影は、組み紐や飾り帯などの装飾の施された豪奢な狩衣と切袴を纏い、感情の見えない無表情で透子を見下ろしていた。……その双眸が、深い淵のように澄んだ蒼であると、皓々とした満月の夜とは言え妙にはっきりと見えた。

 その出で立ち、その瞳。只人であるはずがない。この迷信深い山里に染まるまいと思っていたはずの透子の脳裏に、「仙人」という言葉が自然と浮かんだ。変幻自在の、近くて遠き者たち。

 ならば彼は、透子を助けてくれたということだろうか。

「あ……ありがとう、ございます」

 この四年、呪符を与えてくれる絢乃にも、唯一親切にしてくれる伊織にさえ言ったことのない感謝の言葉が、彼に対しては無意識のうちにこぼれた。

 だが、それに対する返事は冷淡だった。

「別におまえを助けたわけではない。俺は仙境で禁を犯したこの野槌を追って来て処罰しただけだ」

 深い声で突き放すように言った直後、彼は微かに鼻を動かす。

「血が出ているな」
「え? ……あ」

 唐突な台詞で、透子はようやく左手の痛みを自覚した。倒れた拍子に尖った石で切ったらしく、掌底から血が細く垂れている。

 彼は落雷に打たれて絶命した野槌から降り、吸い寄せられるような足取りで、座り込んだままの透子に近づいてきた。膝を折り、透子の手をとり、傷口に唇を寄せる一連の動作は流れるようで、透子に拒む(いとま)を与えなかった。少しひんやりとした唇を割って出てきた濡れた感触に、ようやく透子は悲鳴を上げる。

「うわっ、やだっっ」

 手を激しく振り払い、透子は非難の籠もった眼差しで彼を睨み据えた。初対面で承諾もなしに血を舐め取った彼は、透子の怒りを受け流して平然と宣う。

「傷、塞がっただろう」
「っ、うそ……」

 彼の言うとおりだった。止血どころか無傷の掌底を、透子は絶句してまじまじと見つめる。

 すると今度は、その額に唇が触れた。

「! ちょっとっ、何するのっ」

 再びの無許可の接触に喚く透子に、彼は小さく笑う。絢乃の心を踏み躙る嘲笑とも、伊織のへらりと軽薄な笑顔とも異なる、目を逸らせない不敵な笑い。

「また会おう」

 立ち上がり、束ねた長い髪を泳ぐ魚の鰭のように翻した彼は、短いその言葉と鮮烈な印象を残し、茂みの向こうの闇に消えた。

「…………」

 透子はその場でしばし呆然としていたが、冬枯れの名残を孕む夜風が容赦なく吹きつけ、腕を抱いて洞窟の中へ逃げ込む。細かい羽音に煩わされることなく眠りに就き、どうにか無事、二度目の朝も迎えることができた。

 満月の下に晒された野槌の死骸は、朝日の下、忽然と消え失せていた。しかし夢ではない証拠に、残骸と思しき肉片が幾らか散乱している。山の獣たち、或いは夜の物の怪たちが食欲旺盛に、骨の髄まで喰い散らかしたようだ。この程度の痕跡では、物の怪の出現を証明するのは難しかろう。

 だが、「蟲喰い」の体質が昨晩の野槌を引き寄せたのであれば、いずれは日中も、小物の虫や鳥に収まらず、猪や熊などの凶暴な獣も呼ぶことになるのだろうか。背筋の凍る可能性に、透子は身震いを禁じ得なかった。

 それでも、三日目以降は特筆するような出来事もなく、迎えた七日目、透子は洞窟を離れ、旧都方面へ続く切り通しが一望できる地点へ移動した。そして夕刻前、鄙の地には不釣合いな馬車が戻ってきたことを確認すると、日が暮れてしまう前に山を降りる。一家の帰宅後は可及的速やかに戻らなければ、それはそれで絢乃の機嫌を損ねる。

 急速に夜が忍び寄る茜空の下、透子一人では表門を潜るわけにもいかず裏口に回ると、透子の帰宅を予想してか、木戸の向こうに伊織が立っていた。若君自らの出迎えに、透子は軽く驚きながらも恐縮する。

「おかえり。大丈夫だった?」
「伊織様!? ……お気遣いいただき申し訳ございません。ただいま戻りました」

 畏まって頭を下げる透子に、伊織は微かに困ったような微笑を浮かべた。

「……本当は、帰ってこないほうがよかったんじゃない?」
「まさか!」

 予想外の問いかけに、透子は声を裏返らせて否定したが、心の中では肯定する声があった。

 戻りたくない。逃げ出したい。けれどそれはできない。透子が「蟲喰い」で絢乃が仙女である以上、透子は絢乃から離れられない。侮蔑や嘲笑や差別、心を苛むあらゆる悪意と引き替えに得られる安寧が、たとえ仮初めでしかなくても。絢乃が意地悪く揶揄してくるのはよくあることだが、まさか伊織にまで言われるとは思わなかった。

 慌てふためく透子に、伊織は更に眉尻を下げる。

「ごめんね、困らせたくて言ったわけじゃないんだ。ただ、」

 言葉はそこで途切れた。突然、透子の脇をすり抜けて木戸を出ると、伊織は地面を爪先で二度三度蹴りつける。

「伊織様?」
「蜥蜴だよ。青っぽくて大きかったけど、大丈夫、逃げていったから」

 振り返った透子に笑いかけながら、伊織はふと気づいたように言う。

「そう言えば、今日はほかに蟲がいないね」