諦念と共に生きる透子の運命を一変させる、その魁は、一羽の雀だった。
「本当、透子さんって何やらせても駄目ね」
「……申し訳ございません」
軽暖の砌の一日、絢乃の唇から澱みなく溢れ出る辛辣な言葉を、透子はひたすら平伏してやり過ごそうとしていた。原因は、洗って干した絢乃の肌襦袢にべったりと落とされた雀の糞で、今日の洗濯を担当した透子が槍玉に挙げられたのである。
「下ろしたてだったのに、これじゃ台無しじゃない。どうしてくれるの、ねえ?」
「申し訳ございません……」
透子としては謝罪を重ねるほかないが、一方で、鳥の糞の落とし先にまで責任は持てないとも思う。しかし時には当主よりも重んじられる仙女の怒りの鉾先から、屋敷内で最も軽んじられている「蟲喰い」を庇い立てする者はいなかった。
怒りを蔑みに転化させてひとしきり透子を呵責し、絢乃はいくらか気が晴れたようだった。癇癪を起こして声を荒げたり手を上げたりしないのは、仙女としての気位だろう。だが耳や肌は傷つかなくても、透子の矜持は既に満身創痍である。
「『蟲喰い』の上に使えない、泥棒猫の娘。由緒ある桃瀬の血が半分でも流れているなんて信じられない、とんだ厄介者ね。もういいわ、捨ててちょうだい、そんなもの。また新しく仕立てさせるから」
心を抉る罵倒の結びの言葉に、透子は密かに安堵する。これが気に入りの花籠の小紋や四君子の絵羽であれば、この程度では済まなかったはずだ。
しかし、厄介者の従姉を睥睨する絢乃の台詞にはまだ続きがあった。
「でもこのままなんのお咎めもなしじゃ、ほかの奉公人たちに示しがつかないわね」
罵詈雑言の数々は、絢乃にとって「お咎め」の範疇ではないらしい。煌めく双眸が、艶めく朱唇が、ニイッと暗い愉悦に歪む。
「丁度あたくしたち、家族みんなで明日から一週間ばかり、京に出かけるの」
その「家族」に、当然、透子は含まれない。そして絢乃の言う京とは東の帝都ではなく西の旧都で、桃瀬家の馬車が京へ上ることはそう珍しい話でもなかった。
「透子さんもその間、屋敷を出て行きなさい。あたくしたちが帰るまで戻ってきては駄目よ」
「え……」
自分たちの留守中に羽を伸ばさせてなどやらない、という意図がありありと窺えた。絢乃はただ「出て行け」と命じただけで何処其処へ行けとは言わなかったが、桃瀬家の門を出れば、里じゅうに「泥棒猫の娘」「蟲喰い」と爪弾きにされている透子の居場所など、人気のない山の中くらいしかない。そして絢乃もそれを解っているのだ。
即座に諾と答えられなかった透子に、絢乃は大仰に目を丸くして言い放つ。
「あら、嫌なの? 本当ならあなたみたいに目障りな役立たず、屋敷どころか里から追い出したっていいところなのよ」
「! それだけは……っ」
狼狽の声は、嬲るような声によって受け止められた。
「でしょう? それを、一週間なんて期限付きの追放で許してあげるんだから、感謝しなさい」
里を囲み連なる山々。昔はそのいずれにも、桃瀬家の先祖を筆頭とする仙人たちが洞府を構えていて、様々な祥瑞を示し、数々の恵みをもたらした。開国後の今も変わらず、里人たちは篤い信仰を捧げている。
間もなく暦は啓蟄、虫たちが冬の眠りから覚める頃。無意識に衿の上から守り袋を……蟲祓いの呪符を押さえる透子の姿に、絢乃は満足げに唇に弧を描く。
「……承知しました」
いずれにしても、透子に承諾以外の返答が許されていようはずもなかった。
「本当、透子さんって何やらせても駄目ね」
「……申し訳ございません」
軽暖の砌の一日、絢乃の唇から澱みなく溢れ出る辛辣な言葉を、透子はひたすら平伏してやり過ごそうとしていた。原因は、洗って干した絢乃の肌襦袢にべったりと落とされた雀の糞で、今日の洗濯を担当した透子が槍玉に挙げられたのである。
「下ろしたてだったのに、これじゃ台無しじゃない。どうしてくれるの、ねえ?」
「申し訳ございません……」
透子としては謝罪を重ねるほかないが、一方で、鳥の糞の落とし先にまで責任は持てないとも思う。しかし時には当主よりも重んじられる仙女の怒りの鉾先から、屋敷内で最も軽んじられている「蟲喰い」を庇い立てする者はいなかった。
怒りを蔑みに転化させてひとしきり透子を呵責し、絢乃はいくらか気が晴れたようだった。癇癪を起こして声を荒げたり手を上げたりしないのは、仙女としての気位だろう。だが耳や肌は傷つかなくても、透子の矜持は既に満身創痍である。
「『蟲喰い』の上に使えない、泥棒猫の娘。由緒ある桃瀬の血が半分でも流れているなんて信じられない、とんだ厄介者ね。もういいわ、捨ててちょうだい、そんなもの。また新しく仕立てさせるから」
心を抉る罵倒の結びの言葉に、透子は密かに安堵する。これが気に入りの花籠の小紋や四君子の絵羽であれば、この程度では済まなかったはずだ。
しかし、厄介者の従姉を睥睨する絢乃の台詞にはまだ続きがあった。
「でもこのままなんのお咎めもなしじゃ、ほかの奉公人たちに示しがつかないわね」
罵詈雑言の数々は、絢乃にとって「お咎め」の範疇ではないらしい。煌めく双眸が、艶めく朱唇が、ニイッと暗い愉悦に歪む。
「丁度あたくしたち、家族みんなで明日から一週間ばかり、京に出かけるの」
その「家族」に、当然、透子は含まれない。そして絢乃の言う京とは東の帝都ではなく西の旧都で、桃瀬家の馬車が京へ上ることはそう珍しい話でもなかった。
「透子さんもその間、屋敷を出て行きなさい。あたくしたちが帰るまで戻ってきては駄目よ」
「え……」
自分たちの留守中に羽を伸ばさせてなどやらない、という意図がありありと窺えた。絢乃はただ「出て行け」と命じただけで何処其処へ行けとは言わなかったが、桃瀬家の門を出れば、里じゅうに「泥棒猫の娘」「蟲喰い」と爪弾きにされている透子の居場所など、人気のない山の中くらいしかない。そして絢乃もそれを解っているのだ。
即座に諾と答えられなかった透子に、絢乃は大仰に目を丸くして言い放つ。
「あら、嫌なの? 本当ならあなたみたいに目障りな役立たず、屋敷どころか里から追い出したっていいところなのよ」
「! それだけは……っ」
狼狽の声は、嬲るような声によって受け止められた。
「でしょう? それを、一週間なんて期限付きの追放で許してあげるんだから、感謝しなさい」
里を囲み連なる山々。昔はそのいずれにも、桃瀬家の先祖を筆頭とする仙人たちが洞府を構えていて、様々な祥瑞を示し、数々の恵みをもたらした。開国後の今も変わらず、里人たちは篤い信仰を捧げている。
間もなく暦は啓蟄、虫たちが冬の眠りから覚める頃。無意識に衿の上から守り袋を……蟲祓いの呪符を押さえる透子の姿に、絢乃は満足げに唇に弧を描く。
「……承知しました」
いずれにしても、透子に承諾以外の返答が許されていようはずもなかった。



