「薄氷様。このあと少し、お時間いいでしょうか」
透子がそう切り出したのは、雨上がりの座敷で冷製の炊き合わせや滝川豆腐などの朝餉をいただき終えたときだった。瑠璃茉莉は草薙と共に厨に膳を下げに行き、満開の紫陽花に囲まれた小閣には、透子と薄氷の二人しかいない。
「……どうした」
修練に向かおうと座敷を去りかけていた薄氷だったが、座り直して話を促す。心持ち常よりも低く抑えられた声は、おそらく彼も、透子の言わんとしていることを承知しているためと思われた。
滝と渓流、紫陽花の競演を横目に、薄氷と向かい合わせに端座した透子は、声が震えてしまわないよう努めながら、無言の了解を敢えて言葉にした。
「……人界の暦では、今日で六月が終わります」
「そうだったな」
短い相槌からは、その胸の裡は推し量れなかった。透子は一呼吸置いて続ける。
「────七月になれば、わたしは十九歳になります」
「…………」
「薄氷様は、いつわたしを────お召し上がりになるのでしょうか?」
濡羽と群青の視線が、正対して互いを射た。
透子が覚悟をしていた十八歳の誕生日は、何事もなく過ぎ去った。暦を数え間違えたかと思ったが、その翌日も、更に翌日にも鱗王が仙果を喰らう様子はなく、ついに七月が終わってしまった。
透子からは何も言えず、また薄氷から何か言い出すこともなく、透子は迎えるはずのなかった十八歳の夏を彼と共に過ごした。結局パゴダ型の日傘も買ってもらったし、人界の夏祭りで露店を覗き歩き、大輪の花火を見上げた。
夏が終わっても日々は続き、十五夜には楼閣の露台で月を眺めて里芋型の月見団子を食べ、亥の月亥の日には亥の子餅を食べた。正月は昨年以上に力作の御節料理と一緒に花びら餅も味わった。七草粥や小豆粥、上巳には甘酒、端午には粽。一年越しで、雪景色を楽しめる執明山の露天風呂にも行った。菖蒲湯や菊湯などの季節の薬湯も、一周どころか二周してしまった。
浅葱との騒動から一年が過ぎた頃、薄氷に式鬼を遣わしてもらい、従妹の近況も知った。子爵家とは破談になってしまったようだが、その頭には緑の黒髪が艶やかに輝いていた。
しかし、絢乃は仙女としての通力を完全に失っていた。
女の霊力は長い髪に宿ると言う。あの日、鱗環で豊かな髪と共に失われた残り少ない霊力は、髪とは違い、二度と戻ってはこなかった。
絢乃自身の悲嘆はともかく、桃瀬家、いや山里全体にとっては、それすらも些事であるほどの事態が待ち構えていた。開国後、洪水や渇水に備えて人工の貯水池がいくつか建設されたが、新たに造られるその堰堤によって、山里全域が水没することが決まったのだという。折悪しく、龍神の怒りを買っただけでなく仙女の奇跡まで喪失した桃瀬家は求心力を失い、里は離散を余儀なくされた。……こうして人界から少しずつ信仰が消え、そのたびに仙界は遠ざかっていくのだろう。
そして気がつけば、透子はまたひとつ、齢を重ねようとしていた。
長い沈黙が続き、やがて薄氷が薄く唇を開く。
「…………透子は俺に喰われたいのか」
この一年、薄氷があまり「おまえ」という二人称を用いなくなったことに、透子は気づいていた。そして今、所有物の仙果ではなく、意思を持つ十八歳の女に対して、薄氷はそう問いかけた。
その言葉の重みに透子は僅かに怯んだものの、呼吸を整え、迷いなく答える。
「わたしの命はもう長くありません。どうせ死ぬのなら薄氷様に食べられたいし────薄氷様に食べられるのなら、いちばん美味しいわたしを食べてもらいたいと、そう想っています」
包み隠すことのない透子の告白に、薄氷は僅かに口端を歪めた。
「……俺も桃姑が熟し、喰える日を心待ちにしていた。だが同時に、まだ透子を失いたくなかった。それで一年も決断を先延ばしにしてしまったが……当人に決断を促されるとは、なんとも不甲斐ない話だ」
自嘲を浮かべる薄氷をずるいと透子は思った。せっかく透子が被食者の覚悟を決めたのに、捕食者に惜しまれては決意が鈍る。
叶うなら、透子だってまだ死にたくない。生きていたい。麗らかな春を、眩しい夏を、鮮やかな秋凛とした冬を、瑠璃茉莉や草薙、龍宮洞の皆と────薄氷と共に、何度だって迎えたい。
そもそも、常人の透子と仙龍の薄氷とでは寿命が違う。それも解っているから、一年間、ずっと先送りにしていた「その日」を今日とするけじめを、張り裂けそうな思いでようやく口にしたというのに。
今日の透子は、朱華の長襦袢に銀朱の絽の小紋を重ねていた。ここまで鮮やかな紅は、透子の衣装としては珍しい。裾と袂に僅かに蔓草と鬼灯が描かれているだけの意匠も同様だ。────鬼灯は死者を導く灯火、赤い着物は血を目立たせないため。最後の日にはこれを着ようと、一年以上前から決めていた。玉結びの髪も、リボンを外すだけで簡単にほどける。
再び沈黙が満ちた。それを破ったのは、またも薄氷の深みのある声だった。
「────仙人を目指す気はないか?」
「え?」
「仙果の登仙は前例がないわけではない。仙籍に入れば、短命の業からは解放される。……俺はまだ、透子に傍にいてほしい」
登仙した仙果の話は図書殿の文献にも記載があったから、透子も既に知っていた。知っていて、口にはしなかった。透子も幼い頃はささやかな通力があったから、仙女の素質が皆無と言うわけではない。だがその肩書きに好印象を抱いていないことも事実だし、何より、儚いからこそ艶めかしい仙果の瑞々しさにはどうしたって敵わなくなる。
「……登仙して、桃姑とは言えなくなる透子を、薄氷様は変わらず愛せるの?」
「……!」
ここで即座に是と頷かれたら、逆に透子は薄氷を信用できなかっただろう。桃姑であったからこそ透子を見初めた薄氷は苦悶の末、率直な言葉を口にした。
「…………それでも俺は、桃姑を喰うよりも、透子と飯を食いたい」
やはりどうにも色気より食い気の言い回しだが、粋とは程遠いその言葉は、毎日贈られたどんな美辞麗句よりも透子の心を揺さぶった。
三度の沈黙が二人の間に流れる。瑠璃茉莉が戻ってこないのは、薄氷が結界で渓谷を遮断したためか、一年ぶりに銀朱鬼灯の着物に袖を通した透子に察するものがあったためか。いずれにしても、余人に聞かせる話ではない。
三度目は、透子が先に口を開いた。
「────では、ひとつ賭け、いえ契約をしましょう」
「契約?」
単語をなぞった薄氷に、透子は唇の前に人差し指を立て、悪戯めいた笑いを浮かべて告げる。
「そう。期間は、わたしと薄氷様、どちらかが相手に飽きるまで。薄氷様が先にわたしを持て余したら、わたしを食べてくださって構いません。だけどわたしが先に薄氷様に愛想を尽かしたら、鱗の加護はそのままに、わたしを解放してください。……残念ながら、わたしたちは鳳凰や麒麟のような運命のつがいではありませんから」
「どちらも飽きなかった場合は?」
「そしたら普通に添い遂げるだけでしょう。死が二人を分かつまでね」
「なるほど……」
神仙との契約は、口約束だけで絶対の効力を発揮する。薄氷は、今度は面白そうに唇を歪めた。
「いいだろう。契約成立だ。────では手始めに、登仙の下準備をするか」
誓約を認めて薄氷は立ち上がり、透子を濡縁へと促した。首を傾げる透子の前で、その姿は風に攫われて巨大な応龍の本性を現す。鋭い爪で自らの尾を裂いてひと振りすると、溢れた鮮血が透子に降りかかった。
「────繧区凾繧堤函縺阪k霄!?」
文字化けのような悲鳴が梅雨の晴れ間に響き渡ったのも無理はない。まともに龍の血を浴びた透子は、半ば本気で、今すぐ三行半を叩きつけようかと思った。
それほどの仕打ちをしておきながら、五本爪の王龍は薄氷の声でこともなげに言う。
「落ち着け。すぐに馴染む」
その言葉どおり、水が土に染み込むように血の色と匂いは消えた。着物は勿論、軒や床板に散った血痕も跡形もなく消え失せ、薄氷は自らの舌で傷口を塞ぐ。
「龍の血を浴びた者の身体は鋼のように硬くなる。並大抵のことでは傷つかない」
「ふうん……?」
確かに、そんな記述も目にした気がする。だが試しに透子が自分で頬をつつくと、柔らかい感触が指先に返って来た。蒼の双眸が笑うように和む。
「普通に触れる分には変わりない。そう硬くては抱き心地もよくないしな。ひとまずは俺の弟子として仙籍には登録するが、適した師が見つかればそちらに師事を仰いでもいい。どんな仙女を目指す?」
あまりにもさらりと言われた抱き心地云々を、透子も迂闊に聞き流してしまった。それよりも今後の展望に気をとられ、透子は少し思案して希望を語る。
「……わたしはやっぱり、病や怪我を癒す、薬師の仙女を目指したいです」
「万能薬の仙果の血肉を差し出すのか? あまり感心しないな」
苦々しい薄氷の声を、透子は明るく笑って否定した。
「仙果の血肉を寄越せと言われないために、仙薬の技術も知識も究めて、あと最低限、自分の身を守れる術を会得したいんです。────わたしを捧げるのは薄氷様だけですから」
「そうだな。こうして透子の甘さを知るのは俺だけでいい」
そう言って、薄氷は首を軒下まで下ろし、舌先で透子の唇にちょんっと触れた。口づけを予告する行為なのか、犬猫に舐められたようなものなのか。瞬時に判断できなかったせいで、透子は目を白黒させたものの、顔を赤らめるタイミングを逸してしまった。
「それと、これは契約じゃなくて単なるわたしの願望ですけど。薄氷様には、わたしよりも長生きしてほしいんです。わたしが死んだら、わたしを食べて葬ってください」
仙果と仙龍として始まった自分たちには、やはりその終わりが相応しい。鳥葬ならぬ龍葬を希望する透子に、薄氷は長い髭をそよがせて頷いた。
「骸も誰にも渡すつもりはない。それが俺の最後の晩餐だ」
透子としては、自分が死んだあとも、自分を糧に、薄氷には長生きしてほしかった。けれど同時に、こんな思いもある。
「そこまでは求めませんけど。……でも正直に言えば、薄氷様にはわたし以外の仙果を食べてほしくないです。桃姑も桃児も」
透子が薄氷のものである間は、薄氷も透子だけのものであってほしい。薄氷が食べるのは透子一人だけ、自分がいちばん美味だと想われたい。いちばんに愛されたい。
「ああ。その分透子が俺を満足させてくれればいい」
透子の我儘を、薄氷は同じく我儘で受け容れた。
「では、これからどうぞよろしくお願いします。……できれば末永く」
折り目正しく契約を結び、最後に一言希望を添えて、透子は龍の鼻先に頬を寄せた。薄氷は改めて透子の装いを見て、愉快そうに喉を鳴らす。
「知っているか。大陸では嫁入りの際、花嫁は赤い衣裳を着るんだそうだ」
「へえ……」
そういう意図で選んだ着物ではなかったが、偶然の一致に、透子は純粋に感嘆した。
契約は交わされた。これからは桃姑ではなく透子として……仙果ではなく仙女として、花嫁として、偉大な仙龍に寄り添い、共に生きていきたいと想う。
いつか永遠の眠りに就く、その日まで。
透子がそう切り出したのは、雨上がりの座敷で冷製の炊き合わせや滝川豆腐などの朝餉をいただき終えたときだった。瑠璃茉莉は草薙と共に厨に膳を下げに行き、満開の紫陽花に囲まれた小閣には、透子と薄氷の二人しかいない。
「……どうした」
修練に向かおうと座敷を去りかけていた薄氷だったが、座り直して話を促す。心持ち常よりも低く抑えられた声は、おそらく彼も、透子の言わんとしていることを承知しているためと思われた。
滝と渓流、紫陽花の競演を横目に、薄氷と向かい合わせに端座した透子は、声が震えてしまわないよう努めながら、無言の了解を敢えて言葉にした。
「……人界の暦では、今日で六月が終わります」
「そうだったな」
短い相槌からは、その胸の裡は推し量れなかった。透子は一呼吸置いて続ける。
「────七月になれば、わたしは十九歳になります」
「…………」
「薄氷様は、いつわたしを────お召し上がりになるのでしょうか?」
濡羽と群青の視線が、正対して互いを射た。
透子が覚悟をしていた十八歳の誕生日は、何事もなく過ぎ去った。暦を数え間違えたかと思ったが、その翌日も、更に翌日にも鱗王が仙果を喰らう様子はなく、ついに七月が終わってしまった。
透子からは何も言えず、また薄氷から何か言い出すこともなく、透子は迎えるはずのなかった十八歳の夏を彼と共に過ごした。結局パゴダ型の日傘も買ってもらったし、人界の夏祭りで露店を覗き歩き、大輪の花火を見上げた。
夏が終わっても日々は続き、十五夜には楼閣の露台で月を眺めて里芋型の月見団子を食べ、亥の月亥の日には亥の子餅を食べた。正月は昨年以上に力作の御節料理と一緒に花びら餅も味わった。七草粥や小豆粥、上巳には甘酒、端午には粽。一年越しで、雪景色を楽しめる執明山の露天風呂にも行った。菖蒲湯や菊湯などの季節の薬湯も、一周どころか二周してしまった。
浅葱との騒動から一年が過ぎた頃、薄氷に式鬼を遣わしてもらい、従妹の近況も知った。子爵家とは破談になってしまったようだが、その頭には緑の黒髪が艶やかに輝いていた。
しかし、絢乃は仙女としての通力を完全に失っていた。
女の霊力は長い髪に宿ると言う。あの日、鱗環で豊かな髪と共に失われた残り少ない霊力は、髪とは違い、二度と戻ってはこなかった。
絢乃自身の悲嘆はともかく、桃瀬家、いや山里全体にとっては、それすらも些事であるほどの事態が待ち構えていた。開国後、洪水や渇水に備えて人工の貯水池がいくつか建設されたが、新たに造られるその堰堤によって、山里全域が水没することが決まったのだという。折悪しく、龍神の怒りを買っただけでなく仙女の奇跡まで喪失した桃瀬家は求心力を失い、里は離散を余儀なくされた。……こうして人界から少しずつ信仰が消え、そのたびに仙界は遠ざかっていくのだろう。
そして気がつけば、透子はまたひとつ、齢を重ねようとしていた。
長い沈黙が続き、やがて薄氷が薄く唇を開く。
「…………透子は俺に喰われたいのか」
この一年、薄氷があまり「おまえ」という二人称を用いなくなったことに、透子は気づいていた。そして今、所有物の仙果ではなく、意思を持つ十八歳の女に対して、薄氷はそう問いかけた。
その言葉の重みに透子は僅かに怯んだものの、呼吸を整え、迷いなく答える。
「わたしの命はもう長くありません。どうせ死ぬのなら薄氷様に食べられたいし────薄氷様に食べられるのなら、いちばん美味しいわたしを食べてもらいたいと、そう想っています」
包み隠すことのない透子の告白に、薄氷は僅かに口端を歪めた。
「……俺も桃姑が熟し、喰える日を心待ちにしていた。だが同時に、まだ透子を失いたくなかった。それで一年も決断を先延ばしにしてしまったが……当人に決断を促されるとは、なんとも不甲斐ない話だ」
自嘲を浮かべる薄氷をずるいと透子は思った。せっかく透子が被食者の覚悟を決めたのに、捕食者に惜しまれては決意が鈍る。
叶うなら、透子だってまだ死にたくない。生きていたい。麗らかな春を、眩しい夏を、鮮やかな秋凛とした冬を、瑠璃茉莉や草薙、龍宮洞の皆と────薄氷と共に、何度だって迎えたい。
そもそも、常人の透子と仙龍の薄氷とでは寿命が違う。それも解っているから、一年間、ずっと先送りにしていた「その日」を今日とするけじめを、張り裂けそうな思いでようやく口にしたというのに。
今日の透子は、朱華の長襦袢に銀朱の絽の小紋を重ねていた。ここまで鮮やかな紅は、透子の衣装としては珍しい。裾と袂に僅かに蔓草と鬼灯が描かれているだけの意匠も同様だ。────鬼灯は死者を導く灯火、赤い着物は血を目立たせないため。最後の日にはこれを着ようと、一年以上前から決めていた。玉結びの髪も、リボンを外すだけで簡単にほどける。
再び沈黙が満ちた。それを破ったのは、またも薄氷の深みのある声だった。
「────仙人を目指す気はないか?」
「え?」
「仙果の登仙は前例がないわけではない。仙籍に入れば、短命の業からは解放される。……俺はまだ、透子に傍にいてほしい」
登仙した仙果の話は図書殿の文献にも記載があったから、透子も既に知っていた。知っていて、口にはしなかった。透子も幼い頃はささやかな通力があったから、仙女の素質が皆無と言うわけではない。だがその肩書きに好印象を抱いていないことも事実だし、何より、儚いからこそ艶めかしい仙果の瑞々しさにはどうしたって敵わなくなる。
「……登仙して、桃姑とは言えなくなる透子を、薄氷様は変わらず愛せるの?」
「……!」
ここで即座に是と頷かれたら、逆に透子は薄氷を信用できなかっただろう。桃姑であったからこそ透子を見初めた薄氷は苦悶の末、率直な言葉を口にした。
「…………それでも俺は、桃姑を喰うよりも、透子と飯を食いたい」
やはりどうにも色気より食い気の言い回しだが、粋とは程遠いその言葉は、毎日贈られたどんな美辞麗句よりも透子の心を揺さぶった。
三度の沈黙が二人の間に流れる。瑠璃茉莉が戻ってこないのは、薄氷が結界で渓谷を遮断したためか、一年ぶりに銀朱鬼灯の着物に袖を通した透子に察するものがあったためか。いずれにしても、余人に聞かせる話ではない。
三度目は、透子が先に口を開いた。
「────では、ひとつ賭け、いえ契約をしましょう」
「契約?」
単語をなぞった薄氷に、透子は唇の前に人差し指を立て、悪戯めいた笑いを浮かべて告げる。
「そう。期間は、わたしと薄氷様、どちらかが相手に飽きるまで。薄氷様が先にわたしを持て余したら、わたしを食べてくださって構いません。だけどわたしが先に薄氷様に愛想を尽かしたら、鱗の加護はそのままに、わたしを解放してください。……残念ながら、わたしたちは鳳凰や麒麟のような運命のつがいではありませんから」
「どちらも飽きなかった場合は?」
「そしたら普通に添い遂げるだけでしょう。死が二人を分かつまでね」
「なるほど……」
神仙との契約は、口約束だけで絶対の効力を発揮する。薄氷は、今度は面白そうに唇を歪めた。
「いいだろう。契約成立だ。────では手始めに、登仙の下準備をするか」
誓約を認めて薄氷は立ち上がり、透子を濡縁へと促した。首を傾げる透子の前で、その姿は風に攫われて巨大な応龍の本性を現す。鋭い爪で自らの尾を裂いてひと振りすると、溢れた鮮血が透子に降りかかった。
「────繧区凾繧堤函縺阪k霄!?」
文字化けのような悲鳴が梅雨の晴れ間に響き渡ったのも無理はない。まともに龍の血を浴びた透子は、半ば本気で、今すぐ三行半を叩きつけようかと思った。
それほどの仕打ちをしておきながら、五本爪の王龍は薄氷の声でこともなげに言う。
「落ち着け。すぐに馴染む」
その言葉どおり、水が土に染み込むように血の色と匂いは消えた。着物は勿論、軒や床板に散った血痕も跡形もなく消え失せ、薄氷は自らの舌で傷口を塞ぐ。
「龍の血を浴びた者の身体は鋼のように硬くなる。並大抵のことでは傷つかない」
「ふうん……?」
確かに、そんな記述も目にした気がする。だが試しに透子が自分で頬をつつくと、柔らかい感触が指先に返って来た。蒼の双眸が笑うように和む。
「普通に触れる分には変わりない。そう硬くては抱き心地もよくないしな。ひとまずは俺の弟子として仙籍には登録するが、適した師が見つかればそちらに師事を仰いでもいい。どんな仙女を目指す?」
あまりにもさらりと言われた抱き心地云々を、透子も迂闊に聞き流してしまった。それよりも今後の展望に気をとられ、透子は少し思案して希望を語る。
「……わたしはやっぱり、病や怪我を癒す、薬師の仙女を目指したいです」
「万能薬の仙果の血肉を差し出すのか? あまり感心しないな」
苦々しい薄氷の声を、透子は明るく笑って否定した。
「仙果の血肉を寄越せと言われないために、仙薬の技術も知識も究めて、あと最低限、自分の身を守れる術を会得したいんです。────わたしを捧げるのは薄氷様だけですから」
「そうだな。こうして透子の甘さを知るのは俺だけでいい」
そう言って、薄氷は首を軒下まで下ろし、舌先で透子の唇にちょんっと触れた。口づけを予告する行為なのか、犬猫に舐められたようなものなのか。瞬時に判断できなかったせいで、透子は目を白黒させたものの、顔を赤らめるタイミングを逸してしまった。
「それと、これは契約じゃなくて単なるわたしの願望ですけど。薄氷様には、わたしよりも長生きしてほしいんです。わたしが死んだら、わたしを食べて葬ってください」
仙果と仙龍として始まった自分たちには、やはりその終わりが相応しい。鳥葬ならぬ龍葬を希望する透子に、薄氷は長い髭をそよがせて頷いた。
「骸も誰にも渡すつもりはない。それが俺の最後の晩餐だ」
透子としては、自分が死んだあとも、自分を糧に、薄氷には長生きしてほしかった。けれど同時に、こんな思いもある。
「そこまでは求めませんけど。……でも正直に言えば、薄氷様にはわたし以外の仙果を食べてほしくないです。桃姑も桃児も」
透子が薄氷のものである間は、薄氷も透子だけのものであってほしい。薄氷が食べるのは透子一人だけ、自分がいちばん美味だと想われたい。いちばんに愛されたい。
「ああ。その分透子が俺を満足させてくれればいい」
透子の我儘を、薄氷は同じく我儘で受け容れた。
「では、これからどうぞよろしくお願いします。……できれば末永く」
折り目正しく契約を結び、最後に一言希望を添えて、透子は龍の鼻先に頬を寄せた。薄氷は改めて透子の装いを見て、愉快そうに喉を鳴らす。
「知っているか。大陸では嫁入りの際、花嫁は赤い衣裳を着るんだそうだ」
「へえ……」
そういう意図で選んだ着物ではなかったが、偶然の一致に、透子は純粋に感嘆した。
契約は交わされた。これからは桃姑ではなく透子として……仙果ではなく仙女として、花嫁として、偉大な仙龍に寄り添い、共に生きていきたいと想う。
いつか永遠の眠りに就く、その日まで。



