そして、八日目の朝。
いつもと同じ時間に目を覚ました透子は、円窓の外の明るさに気づいて跳ね起きた。浴衣姿で寝所から座敷に飛び出すと蔀戸が上がり、すっかり葉を落とした枝越しに、言葉もなく空を見上げる。
まだ雲が穹昊の大半を占めてはいたが、その色は限りなく白く、また紗を重ねたように薄かった。その雲間から八日ぶりの朝陽が差し込み、川面に反射して透子の目を眩しく射る。
「……!」
壮大な兄弟喧嘩に決着がついた。透子の、龍宮洞の弟子一同の待ち人が帰ってくる。帰ってくるはずだ。
同じく息せき切って屋根裏部屋から降りてきた瑠璃茉莉と共に着物を選ぶ。白や薄紅、線描などの様々な桜の花を幾重にも重ねて一面に散らした小紋の袷に、よく見ると七宝紋の織られた帯は帯揚げや帯締めを使わない半幅帯。髪は結い上げて簪を挿すことはせず、丁寧に梳ってリボンを飾るに留める。
風呂吹き大根の味噌が少々盛りすぎだったり蜜柑の飾り切りがやや荒かったりしたのは、やはり草薙にも緊張があったということだろう。準備の間、透子も膳の前に大人しく座っていられず、濡縁に出て、次第に雲が晴れつつある空を見上げていた。
不思議なことに、遠雷が鳴り響いている間のほうが心は平静だった。空模様とは裏腹に、一片の曇りもなく王の帰還を信じて待っていられた。
もし帰らなかったら、などと考えるのは、薄氷に対して失礼になる。そう解っているのに、鱗王の凱旋を信じて疑わないのに、万が一、億が一の懸念を完全に消し去ることができない。今更祈ったところで既に雌雄は決していると言うのに、無事の帰還を祈ってしまう自分がいる。この度し難い矛盾を解決できるのは一人しかいなかった。
(……薄氷様がお帰りになったら、これがわたしの最後のごはんになるのね)
気を紛らわせようと、透子はちらりと朝餉の膳を振り返る。白飯と焼き海苔、蛤の潮仕立て、小鉢に水菜の湯葉和えと蓮根の金平、香の物は蕪の浅漬けと梅干。
概ね不満はないが、逆に、家畜を解体する前は何日か絶食させると聞いたことを思い出し、自分も食事は抜いたほうがいいのだろうかと思い悩む。
薄れゆく雲の只中に黒点が現れたのはそのときだった。瑠璃茉莉と草薙がはっと息を呑む。
黒点は瞬く間に大きくなり……否、地表に近づき、すぐに地上の者の目にも詳細な形が明らかになる。
一対の翼と五本の爪を持ち、宝珠を咥え、鱗に覆われた雄大なその姿。────見間違えようはずもない。
「────薄氷様!」
七日七晩待ち続けた瞬間の到来に、歓喜で声が打ち震える。
龍は空を泳ぐというよりも沈むような頼りなさで降りてくる。その姿が風と化し、木々を揺らして濡縁に吹き込むと、座敷に後退った透子の眼前で長身の青年に転じた。
髪は解け、白地に藍の狩衣は右袖を失い自身の血とも返り血ともつかない色に黒ずんでいる。至るところに傷を負い、疲労の色は隠しきれなかったが、双眸の蒼だけは変わらない精彩を放っていた。
ふてぶてしいほどに力強い笑みがその秀麗な顔に浮かぶ。
「────帰ったぞ」
「お帰りなさい……!」
感極まった透子の声を耳にして、なけなしの虚勢の糸が切れたようだった。薄氷は崩れるように前のめりに膝をつく。慌てて透子が駆け寄りその肩を支えた。頽れた拍子に、狩衣の袖から何か丸いものが転がり出たが、透子は薄氷本人を優先した。
「お疲れさまでした。ナギくん(のごはん)にする? わたしにする?」
提示した選択肢に瑠璃茉莉が低い声で「語弊」と呟いたが、透子の耳には殆ど届いていなかった。草薙は件の「丸いもの」を拾い上げ、顔を強張らせる。
「真君、これは……」
「……ああ、龍宮洞の川に、放してやれ。母上が、迎えに来るかもしれないし……滝を登って、また龍に戻れるかも、しれない」
薄氷は項垂れた首を僅かに起こし、切れ切れの呼吸の合間に適切に命じる。
鞠ほどの大きさになった宝珠の中には透明な水が満ちており、一匹の鯉が閉じ込められていた。……兄に敗れた弟の成れの果てだ。
だが、龍としての姿を保てないほど消耗しても、まだ息絶えてはいない。鯉は滝の急流を登って龍に転じると言う。何十年かののちには、過去を捨て去り、また堂々たる応龍の姿で天に遊ぶかもしれなかった。
「…………とりあえず、寝ませてくれ……」
最後に一言絞り出して、瞼を伏せた薄氷は透子の肩に頭を凭れた。意識を失った者の重みに、透子は思わず後ろ手をつく。最悪の想像に一瞬心臓が跳ねたが、健やかと言っていい寝息に胸を撫で下ろした。七日七晩、死力を尽くして激闘すれば、まあこうなるだろう。
だが、草薙や瑠璃茉莉、洞主の帰還に渓谷へ下りてきたほかの弟子たちは、雷に打たれたような衝撃に見舞われたようだった。
「…………真君が、据え膳前にして寝る、だと……?」
「これは、見た目以上に重傷なんじゃないの……?」
「天変地異の前触れか……?」
「ようやく嵐の七日間が終わったのに!?」
「ていうか、本当に龍宮洞の洞主なんだろうな……?」
食事より睡眠を優先しただけでこの言われようである。慄く弟子一同に、透子はむしろ笑ってしまった。薄氷が目を覚ませばいつもの日常が戻ってくると、そう信じられる気がした。
「……とにかく、寝殿にお連れするか」
「そうね。トーコ、もう準備済んでるし、朝ごはん食べててちょうだい」
「わかった」
落ち着きを取り戻した弟子たちが洞主を担いで小閣を出て行ったあと、透子は瑠璃茉莉に言われたとおり、久しぶりに一人で朝食の席についた。ひとまず、これが最後の朝餐にはならなさそうだと思いながら風呂吹き大根に箸を入れる。ほんの少し箸先に力を入れるだけで切れるほど柔らかく、味噌の味が優しい。
雨上がりの滝を眺めながらのんびりと味わって完食し、歯も磨き終えても、草薙が膳を片付けに来ることはなく、瑠璃茉莉も戻ってこなかった。彼女の分の朝餉の膳は手付かずだが、師父の看病が優先なのだだろう。たまには自分で厨まで下げにいこうか、と思った丁度そのときに、足音が沓脱石から上がってきた。
「食べ終わった?」
「うん。ついさっき」
「じゃあ丁度いいわね」
何かを納得した瑠璃茉莉に続き、浴衣に召し変えた薄氷を抱きかかえて草薙が座敷に入ってくる。なんで自分より背が高くて意識のない相手を横抱きにしているんだろう、背負ったほうが楽なんじゃないのか、などということに気をとられた透子は、そのせいで、もっと基本的な疑問に気づくのが遅れた。瑠璃茉莉が寝所の扉を開け、そこに薄氷を運び入れようとする草薙の背中に慌てて声をかける。
「ってなんでまた薄氷様連れてきたの? なんでここに寝かそうとしてるの!?」
泡を食った透子に構わず、草薙は小上がりの褥に薄氷の長身を横たえた。草薙と入れ替わりに寝所に連れ込まれた透子は、扉を閉めた瑠璃茉莉に声を硬くする。
「なんなのマツリさん」
「満場一致で決まったのよ、トーコに膝枕か添い寝してもらおうって」
「はあぁ!?」
素っ頓狂、という表現にこれ以上相応しい声もないであろう叫びを放ち、透子は慌てて己の口を塞いだ。褥を占拠した鱗王は微動だにせず、疲れ果てて昏々と眠りの夢路を辿っている。
「だってどんな薫物焚くよりアンタの香りがいちばん豊潤なんだもの。傷より疲労のほうが深いみたいだし、心安らぐ香りで安眠効果ばっちりじゃない」
「薄氷様は甘くて食欲を唆る美味しそうな匂いとしか言わないんだけど」
「それはそれ、これはこれ。仙果は万能薬なんだから、万能香でもあるってことよ」
「何それ……ってやだ何、待って!」
詭弁で言いくるめた瑠璃茉莉が、先程着付けた透子の小紋とリボンを今度は脱がしにかかる。透子の制止の声が顧みられることはなかった。素っ気ない長襦袢姿に剥かれたところで、瑠璃茉莉にぐいぐいと背中を押されて小上がりに押し込まれる。
「そういうわけだから、あとはよろしく。アタシも朝食食べたら退散するから」
とてもいい笑顔を残し、瑠璃茉莉は寝所の扉を外から閉ざした。眠る薄氷と共に帳の内側に残され、透子は途方に暮れる。
「よろしくって……」
思わず漏らした呟きは、誰の耳にも届かず虚しく霧散する。
長くはない逡巡の末に、透子は観念して薄氷に膝を貸すことにした。弟子一同から鱗王の安眠の守護を託された以上、信頼には背けない。それに、食べられる以外で彼の役に立てることは少し誇らしくもあった。
青い黒髪を膝に乗せ、無防備に晒された寝顔を改めてまじまじと観察する。すっと通った鼻梁から続く鼻先は形よく尖り、伏せられた睫毛は思いのほか長い。唇は気持ち薄めだが、冷冽ではあっても酷薄な印象はなかった。
普段自分がされているように、秀でた額にかかる髪をそっと撫でる。肌は陶器のようになめらかで、少し冷たい。人界の基準で分類すると、鱗族は魚類や爬虫類、冷血動物に相当する。薄氷や瑠璃茉莉が頻繁に透子に触れてくるのも、恒温動物の体温が心地よいためかもしれなかった。
しばらくはそんな風につらつらと物思いに耽っていたが、冴えた美貌を見飽きるより先に、もっと切実な事情が透子に決断を迫った。
(足が……)
柔らかい褥の上とは言え、正座をして更に人の頭を乗せているものだから、当然、足が痺れてきた。透子は龍の眠りを妨げないよう慎重に、薄氷の頭の下から膝を抜いて足を崩す。
解放された足を摩りながら、透子は小さな欠伸をこぼした。
薄氷の勝利を信じて泰然と構え、毎晩熟睡していたつもりでも、無意識の緊張で眠りは浅かったらしい。更に帰還に気が緩んだことと朝食後の満腹感も加わり、透子はもう一度、今度は大きく欠伸した。
「…………」
短くはない葛藤の果てに、透子は薄氷の隣でもうひと眠りすることにした。幸い、薄氷は透子が膝を抜いた拍子に寝返りを打ち、外向きに横臥している。褥と布団は二人寝しても余裕があり、透子が薄氷に背を向け壁際に横になれば、充分な間隔が確保できた。
先程起きたばかりなのだし、三十分ほど仮眠すれば自然に目が覚めるだろう。そう考えながら、透子は遠く近く打ち寄せるまどろみの波に身を委ねた。
……昼頃に様子を見に来た瑠璃茉莉が、互いに身を寄せ合って眠る二人の様子に「あらあら」と含み笑いを浮かべることは勿論、その数十分後にようやく目を覚まし、いつの間にか薄氷の胸に顔を埋めて眠っていた事実に羞恥と混乱の極みに陥ることも、このときの透子はまだ知らない。
いつもと同じ時間に目を覚ました透子は、円窓の外の明るさに気づいて跳ね起きた。浴衣姿で寝所から座敷に飛び出すと蔀戸が上がり、すっかり葉を落とした枝越しに、言葉もなく空を見上げる。
まだ雲が穹昊の大半を占めてはいたが、その色は限りなく白く、また紗を重ねたように薄かった。その雲間から八日ぶりの朝陽が差し込み、川面に反射して透子の目を眩しく射る。
「……!」
壮大な兄弟喧嘩に決着がついた。透子の、龍宮洞の弟子一同の待ち人が帰ってくる。帰ってくるはずだ。
同じく息せき切って屋根裏部屋から降りてきた瑠璃茉莉と共に着物を選ぶ。白や薄紅、線描などの様々な桜の花を幾重にも重ねて一面に散らした小紋の袷に、よく見ると七宝紋の織られた帯は帯揚げや帯締めを使わない半幅帯。髪は結い上げて簪を挿すことはせず、丁寧に梳ってリボンを飾るに留める。
風呂吹き大根の味噌が少々盛りすぎだったり蜜柑の飾り切りがやや荒かったりしたのは、やはり草薙にも緊張があったということだろう。準備の間、透子も膳の前に大人しく座っていられず、濡縁に出て、次第に雲が晴れつつある空を見上げていた。
不思議なことに、遠雷が鳴り響いている間のほうが心は平静だった。空模様とは裏腹に、一片の曇りもなく王の帰還を信じて待っていられた。
もし帰らなかったら、などと考えるのは、薄氷に対して失礼になる。そう解っているのに、鱗王の凱旋を信じて疑わないのに、万が一、億が一の懸念を完全に消し去ることができない。今更祈ったところで既に雌雄は決していると言うのに、無事の帰還を祈ってしまう自分がいる。この度し難い矛盾を解決できるのは一人しかいなかった。
(……薄氷様がお帰りになったら、これがわたしの最後のごはんになるのね)
気を紛らわせようと、透子はちらりと朝餉の膳を振り返る。白飯と焼き海苔、蛤の潮仕立て、小鉢に水菜の湯葉和えと蓮根の金平、香の物は蕪の浅漬けと梅干。
概ね不満はないが、逆に、家畜を解体する前は何日か絶食させると聞いたことを思い出し、自分も食事は抜いたほうがいいのだろうかと思い悩む。
薄れゆく雲の只中に黒点が現れたのはそのときだった。瑠璃茉莉と草薙がはっと息を呑む。
黒点は瞬く間に大きくなり……否、地表に近づき、すぐに地上の者の目にも詳細な形が明らかになる。
一対の翼と五本の爪を持ち、宝珠を咥え、鱗に覆われた雄大なその姿。────見間違えようはずもない。
「────薄氷様!」
七日七晩待ち続けた瞬間の到来に、歓喜で声が打ち震える。
龍は空を泳ぐというよりも沈むような頼りなさで降りてくる。その姿が風と化し、木々を揺らして濡縁に吹き込むと、座敷に後退った透子の眼前で長身の青年に転じた。
髪は解け、白地に藍の狩衣は右袖を失い自身の血とも返り血ともつかない色に黒ずんでいる。至るところに傷を負い、疲労の色は隠しきれなかったが、双眸の蒼だけは変わらない精彩を放っていた。
ふてぶてしいほどに力強い笑みがその秀麗な顔に浮かぶ。
「────帰ったぞ」
「お帰りなさい……!」
感極まった透子の声を耳にして、なけなしの虚勢の糸が切れたようだった。薄氷は崩れるように前のめりに膝をつく。慌てて透子が駆け寄りその肩を支えた。頽れた拍子に、狩衣の袖から何か丸いものが転がり出たが、透子は薄氷本人を優先した。
「お疲れさまでした。ナギくん(のごはん)にする? わたしにする?」
提示した選択肢に瑠璃茉莉が低い声で「語弊」と呟いたが、透子の耳には殆ど届いていなかった。草薙は件の「丸いもの」を拾い上げ、顔を強張らせる。
「真君、これは……」
「……ああ、龍宮洞の川に、放してやれ。母上が、迎えに来るかもしれないし……滝を登って、また龍に戻れるかも、しれない」
薄氷は項垂れた首を僅かに起こし、切れ切れの呼吸の合間に適切に命じる。
鞠ほどの大きさになった宝珠の中には透明な水が満ちており、一匹の鯉が閉じ込められていた。……兄に敗れた弟の成れの果てだ。
だが、龍としての姿を保てないほど消耗しても、まだ息絶えてはいない。鯉は滝の急流を登って龍に転じると言う。何十年かののちには、過去を捨て去り、また堂々たる応龍の姿で天に遊ぶかもしれなかった。
「…………とりあえず、寝ませてくれ……」
最後に一言絞り出して、瞼を伏せた薄氷は透子の肩に頭を凭れた。意識を失った者の重みに、透子は思わず後ろ手をつく。最悪の想像に一瞬心臓が跳ねたが、健やかと言っていい寝息に胸を撫で下ろした。七日七晩、死力を尽くして激闘すれば、まあこうなるだろう。
だが、草薙や瑠璃茉莉、洞主の帰還に渓谷へ下りてきたほかの弟子たちは、雷に打たれたような衝撃に見舞われたようだった。
「…………真君が、据え膳前にして寝る、だと……?」
「これは、見た目以上に重傷なんじゃないの……?」
「天変地異の前触れか……?」
「ようやく嵐の七日間が終わったのに!?」
「ていうか、本当に龍宮洞の洞主なんだろうな……?」
食事より睡眠を優先しただけでこの言われようである。慄く弟子一同に、透子はむしろ笑ってしまった。薄氷が目を覚ませばいつもの日常が戻ってくると、そう信じられる気がした。
「……とにかく、寝殿にお連れするか」
「そうね。トーコ、もう準備済んでるし、朝ごはん食べててちょうだい」
「わかった」
落ち着きを取り戻した弟子たちが洞主を担いで小閣を出て行ったあと、透子は瑠璃茉莉に言われたとおり、久しぶりに一人で朝食の席についた。ひとまず、これが最後の朝餐にはならなさそうだと思いながら風呂吹き大根に箸を入れる。ほんの少し箸先に力を入れるだけで切れるほど柔らかく、味噌の味が優しい。
雨上がりの滝を眺めながらのんびりと味わって完食し、歯も磨き終えても、草薙が膳を片付けに来ることはなく、瑠璃茉莉も戻ってこなかった。彼女の分の朝餉の膳は手付かずだが、師父の看病が優先なのだだろう。たまには自分で厨まで下げにいこうか、と思った丁度そのときに、足音が沓脱石から上がってきた。
「食べ終わった?」
「うん。ついさっき」
「じゃあ丁度いいわね」
何かを納得した瑠璃茉莉に続き、浴衣に召し変えた薄氷を抱きかかえて草薙が座敷に入ってくる。なんで自分より背が高くて意識のない相手を横抱きにしているんだろう、背負ったほうが楽なんじゃないのか、などということに気をとられた透子は、そのせいで、もっと基本的な疑問に気づくのが遅れた。瑠璃茉莉が寝所の扉を開け、そこに薄氷を運び入れようとする草薙の背中に慌てて声をかける。
「ってなんでまた薄氷様連れてきたの? なんでここに寝かそうとしてるの!?」
泡を食った透子に構わず、草薙は小上がりの褥に薄氷の長身を横たえた。草薙と入れ替わりに寝所に連れ込まれた透子は、扉を閉めた瑠璃茉莉に声を硬くする。
「なんなのマツリさん」
「満場一致で決まったのよ、トーコに膝枕か添い寝してもらおうって」
「はあぁ!?」
素っ頓狂、という表現にこれ以上相応しい声もないであろう叫びを放ち、透子は慌てて己の口を塞いだ。褥を占拠した鱗王は微動だにせず、疲れ果てて昏々と眠りの夢路を辿っている。
「だってどんな薫物焚くよりアンタの香りがいちばん豊潤なんだもの。傷より疲労のほうが深いみたいだし、心安らぐ香りで安眠効果ばっちりじゃない」
「薄氷様は甘くて食欲を唆る美味しそうな匂いとしか言わないんだけど」
「それはそれ、これはこれ。仙果は万能薬なんだから、万能香でもあるってことよ」
「何それ……ってやだ何、待って!」
詭弁で言いくるめた瑠璃茉莉が、先程着付けた透子の小紋とリボンを今度は脱がしにかかる。透子の制止の声が顧みられることはなかった。素っ気ない長襦袢姿に剥かれたところで、瑠璃茉莉にぐいぐいと背中を押されて小上がりに押し込まれる。
「そういうわけだから、あとはよろしく。アタシも朝食食べたら退散するから」
とてもいい笑顔を残し、瑠璃茉莉は寝所の扉を外から閉ざした。眠る薄氷と共に帳の内側に残され、透子は途方に暮れる。
「よろしくって……」
思わず漏らした呟きは、誰の耳にも届かず虚しく霧散する。
長くはない逡巡の末に、透子は観念して薄氷に膝を貸すことにした。弟子一同から鱗王の安眠の守護を託された以上、信頼には背けない。それに、食べられる以外で彼の役に立てることは少し誇らしくもあった。
青い黒髪を膝に乗せ、無防備に晒された寝顔を改めてまじまじと観察する。すっと通った鼻梁から続く鼻先は形よく尖り、伏せられた睫毛は思いのほか長い。唇は気持ち薄めだが、冷冽ではあっても酷薄な印象はなかった。
普段自分がされているように、秀でた額にかかる髪をそっと撫でる。肌は陶器のようになめらかで、少し冷たい。人界の基準で分類すると、鱗族は魚類や爬虫類、冷血動物に相当する。薄氷や瑠璃茉莉が頻繁に透子に触れてくるのも、恒温動物の体温が心地よいためかもしれなかった。
しばらくはそんな風につらつらと物思いに耽っていたが、冴えた美貌を見飽きるより先に、もっと切実な事情が透子に決断を迫った。
(足が……)
柔らかい褥の上とは言え、正座をして更に人の頭を乗せているものだから、当然、足が痺れてきた。透子は龍の眠りを妨げないよう慎重に、薄氷の頭の下から膝を抜いて足を崩す。
解放された足を摩りながら、透子は小さな欠伸をこぼした。
薄氷の勝利を信じて泰然と構え、毎晩熟睡していたつもりでも、無意識の緊張で眠りは浅かったらしい。更に帰還に気が緩んだことと朝食後の満腹感も加わり、透子はもう一度、今度は大きく欠伸した。
「…………」
短くはない葛藤の果てに、透子は薄氷の隣でもうひと眠りすることにした。幸い、薄氷は透子が膝を抜いた拍子に寝返りを打ち、外向きに横臥している。褥と布団は二人寝しても余裕があり、透子が薄氷に背を向け壁際に横になれば、充分な間隔が確保できた。
先程起きたばかりなのだし、三十分ほど仮眠すれば自然に目が覚めるだろう。そう考えながら、透子は遠く近く打ち寄せるまどろみの波に身を委ねた。
……昼頃に様子を見に来た瑠璃茉莉が、互いに身を寄せ合って眠る二人の様子に「あらあら」と含み笑いを浮かべることは勿論、その数十分後にようやく目を覚まし、いつの間にか薄氷の胸に顔を埋めて眠っていた事実に羞恥と混乱の極みに陥ることも、このときの透子はまだ知らない。



