「それって」
「早く逃げるわよ! 巻き込まれたら未来永劫抜け出せなくなるわ!!」

 透子に皆まで言わせず、瑠璃茉莉は透子の手を掴んで立ち上がった。このまま手をこまねいていれば、正規の門を通らずに壺中天を抜け出したときと同じ状況に陥るということだ。階から雨の中に飛び出そうとする彼女を、透子は思わず引き止める。

「待って、だってそしたら、薄氷様は」
「お二人なら大丈夫よ、今は自分のことだけ考えなさい!」

 険しい表情で叱りつける瑠璃茉莉に、それでも透子は抗った。

「駄目、絢乃様を置いていけない! 一緒に連れて行かなきゃ」

 血の気を失い昏睡した従妹をこのまま見捨てれば、彼女は生きながらに死ぬことになってしまう。瑠璃茉莉が目を剥いた。

「コイツはアンタを騙して殺そうとした女よ!? 助ける必要ある!?」

 浅葱に唆されたとは言え、絢乃は明確な殺意を持って透子に太刀を振りかざした。桃瀬家での四年間も、虐げられ続けた記憶しかない。それでも。

「わたしは聖人君子じゃないけど、人でなしにはなりたくない!」

 置き去りにすれば死ぬと判っていて、見捨てることはできない。それが、透子が絢乃に向けられるぎりぎりの良心だ。

 雨を切り裂いて潔癖に放たれた言葉に、瑠璃茉莉は問答の間を惜しむように同調した。

「……そうね、アンタがコイツごときに心を痛めることはないわ。真君のためにも、アンタは清く健やかに生きるのよ」

 この間にも、空一面に走った亀裂は無限に増殖し、巨大な欠片は地に落ちる前に砕け散る。暗雲に支配された上空は闇に閉ざされ、広がり続ける裂け目の向こうがどうなっているのか窺いようもない。

 瑠璃茉莉の身体が雨霧に霞み、一陣の風と共に翼を持つ巨大な蛇が姿を現す。

「早くソイツを連れて乗りなさい!」

 蛇神は瑠璃茉莉の声で透子を促し、透子は血まみれの絢乃を抱えて鱗に覆われた背に跨った。自分のことだけ考えろと言いながらも透子を諦めなかった瑠璃茉莉は、二人を乗せて一目散に門を目指し、雷と風と雨が吹き荒れる翠蓮洞を翔ける。

 嵐の中で辿り着いた楼門には、同じく洞府の終焉を悟った弟子たちが詰め掛けていた。混乱を極めたその頭上を飛び越え、瑠璃茉莉は晴天の下への脱出に成功する。

 だが、気を緩めるのは早急に過ぎた。息つく間もなく、峰を覆う森の四方八方から物の怪たちが飛び掛ってきて、瑠璃茉莉は慌てて昼下がりの上空に躍り上がる。

 透子も一拍遅れて、浅葱の脅しを思い出した。今、透子の額に鱗王の加護はない。無防備な仙果を狙い、数多の霊獣や物の怪が襲ってくるだろう。瑠璃茉莉を八つ裂きにし、絢乃を血祭りにあげて、透子を骨の髄まで貪り尽くすのだ。

 瑠璃茉莉は炎と風を巧みに使い分けて、迫り来る物の怪たちを撃退する。だが、仙果の芳香に酔って分別がつかなくなっているとは言え、鱗王の直弟子たる仙蛇にも物怖じしない相手、更に背中の二人を庇いながらではどうしても分が悪い。

「っ早く龍宮洞に帰るわよ!」

 第一波を辛くも追い払った末、瑠璃茉莉はきりのない迎撃よりも逃走の一手を即断即決した。瀕死でこそないものの、全身が斑な血に染まっている。

 逆に掠り傷ひとつない透子が声を揺らした。

「マツリさん……!」

 自分が彼女の足枷になっていることを透子は自覚していた。自由に闘えれば、瑠璃茉莉がここまで手負いになることはなかったはずだ。

 涙声の透子に首を向けた瑠璃茉莉が牙を剥いて叱咤し、波山(ばさん)を撓った尾で叩き落とす。

「泣くんじゃないの! アンタ自分でも言ってたじゃない、自分は真君のものだって。その血も涙も、真君のため以外に流すんじゃないわよ!」
「だって……!」

 洟を啜りながら透子は反論する。自分のために傷を負った相手を前に涙を流さずにいられるほど、透子は人の心を失っていない。

 ふと、宝玉の双眸が笑う気配がした。

「────だから、アンタに血も涙も流させないために、アタシも無事に龍宮洞に帰るのよ!」

 剛毅に宣言し、瑠璃茉莉は速度を上げた。透子は意識のない絢乃を守りながら必死にその背にしがみつく。見えない膜に護られているように風の抵抗も少なく、振り落とされる心配はないが、さすがに王龍の宝珠ほどに気を抜くことはできなかった。

 鵺、窮奇、天馬……途切れることのない追っ手を蹴散らしながら逃げる仙蛇を追い抜く勢いで、春を待ち侘びる空に灰色の雲が棚引く。応龍は雨師にして風伯でもある雷公、その兄弟の激突の余波が、仙界全域に影響を及ぼしつつあるのだ。

 穏やかな陽光を遮られ影を落とした地表を見下ろし、透子は瑠璃茉莉に向かって叫ぶ。

「……マツリさん! 一度人界に渡ることはできる!?」
「……! 確かに、天祐峰と孟章林は相当離れてるけど」

 人界を経由することで移動距離を短縮する方法は、以前瑠璃茉莉から聞いたことでもある。だが透子の狙いはそれだけではなかった。

「人界に、絢乃様を帰さないと」

 最低限、死なないだけの処置は施した。人としての義理は果たした、と言い換えてもいい。絢乃には人界に帰るべき家がある。龍宮洞に運び入れて手厚い看護と療養の機会を与えるほど、これ以上親切にする理由はなかった。

「……それでいいの?」

 瑠璃茉莉が念のためと言うように問いかけてくる。絢乃の髪が生え揃うには時間がかかるだろうし、龍の牙に喰いちぎられた傷も痕が残るかもしれない。だが透子は譲らなかった。

「言ったでしょ。わたしは人でなしにはなりたくないけど、聖人君子でもないの」

 自分を邪険に扱い続けた相手に慈悲を振る舞えるほど、透子は完璧な人間ではなかった。

「了解……!」
  
 黄昏時までには今少し間があるが、瑠璃茉莉は敏捷な身を翻し、眼下の山林に向かって急降下した。狒々や大百足などの追撃を躱しながら木々の合間をすり抜け、見つけた滝壺に迷わず飛び込む。

「……!」

 身構える間もない突入だったが、透子はどうにか耐えた。仄暗い水底を目指して突き進んでいるはずの視界に光のたゆたう水面が近づき、息切れの寸前に透子は水上に顔を出して大きく咳き込む。

「っはあっ、はあ……ッ」

 肺いっぱいに空気を吸い込み呼吸を整える透子の隣に、少女姿の瑠璃茉莉の頭が浮上した。その背にぐったりとした絢乃の身体が圧し掛かっている。

 二人の無事にひとまず安堵し、透子は周囲を見渡す。滝壺に飛び込み、通り抜けた先もまた滝壺だった。岩壁に囲まれ、頭上から清流が降り注ぎ、目の前には石造りの古い鳥居が長い影を落としている。日の入り前、人の気配はなかったが、うらぶれた印象もなかった。忘れ去られた場所ではない証拠に、小さな祠にはささやかな献花が奉納されている。

「……さて、ここはどこかしらね」

 どこか余裕を感じる口調で瑠璃茉莉が呟いた。水底から迫り来る異形の姿はない。彼らは熟れたような西日の眩しい人界へ渡れなかったのだ。気づけば、足がつくほどに水深は浅い。

 絢乃を降ろして岸に上がり、探るように鼻を動かしていた瑠璃茉莉は、やがて明るい声をあげた。

「あの一帯は大天狗の山だったんだわ。ここからなら、京を挟んで龍神の森は目と鼻の先よ」
「京……!?」

 思いがけず知った地名が出てきて、鳥居前で裾を絞っていた透子は短く驚いた。向こう三年分くらいの運をここで使い果たしたかもしれない。

「そうと判ったら早く帰りましょ。今度は山の獣が襲ってくるわ」
「絢乃様どうしよう」
「ここに置いてってもいいけど、修験地だから、多分近くに寺院があるんじゃないかしら」

 捌けた物言いをしながら、瑠璃茉莉は手許に霊火を熾して自身と透子、ついでに絢乃の着物と髪を乾かす。

 そして再び蛇身に転じた瑠璃茉莉に跨った透子は、上空から発見した山寺の屋根下に、瞼を伏せたままの絢乃を寝かせた。顔色はまだよくないが、呼吸は規則正しい。病院なり実家なりで療養すれば充分に快復が見込めるだろう。

 頭巾を巻いて眠る従妹を見下ろす透子の胸に、四年間の辛い記憶が去来する。けれどもう、これで最後だと、万感の思いを籠めて別離の言葉を手向けた。

「……お元気で」
 
 程なく寺の住職が絢乃を発見したことを木陰から見届けると、透子は蘇芳の蛇の背に乗って、宵の訪れを待つ京の空を西から東に横断する。三角洲に広がる森は、懐深く桃姑と騰蛇を迎え入れた。

 孟章林に聳える巨木の洞から龍宮洞に辿り着いたとき、透子は心の底から、帰って来たと思えたのだった。