混乱した空気が収まると、寝殿の南廂には土足の人影がふたつ増えていた。
龍の尾のように揺れる青い黒髪と、うねる蛇身を思わせる青みがかった蘇芳の髪。
「薄氷様……マツリさん!?」
自分を抱きかかえた仙龍と、その半歩前に立つ弟子の姿に、透子は驚きの声をあげる。
「……間一髪」
式鬼を手首に巻きつけ、瑠璃茉莉が短く呟いた。絢乃を信用していなかった彼女は、透子にこっそり式鬼を憑けていたのだ。そして案の定諍いを起こし翠蓮洞に連れ去られた透子を奪い返すべく、龍宮洞に残した式鬼を通じて呼び戻した薄氷と共に鱗環を通って来た。
その一連を、浅葱も推して知ったらしい。左腕に絢乃を抱えて右手の火傷を検分し、苦く笑う。
「……なるほど。仙果の香と兄上の鱗の気配に紛れて気づかなかった」
「おまえは昔から肝心なときほど慢心しやすいな」
弟の自嘲を兄が冷静に断じた。それぞれ片腕に少女たちを抱いたまま、応龍の兄弟は蒼い視線を束の間切り結ぶ。張り詰めた空気を透子も肌で感じた。薄氷の後ろに下がった瑠璃茉莉も、息を潜めて状況を見守っている。
不思議に思う。こうして並んでいても、二人はそれほど似ていない。人の姿の年頃は同じくらいで、体格や美貌は甲乙つけがたいものの、顔も声もまるで違う。それなのに、一人を見ると、自然ともう一人の面影が思い浮かぶのだ。
口火を切ったのは兄のほうだった。
「どうしてトーコを狙った。母上に唆されたのか?」
「しつこく嗾けてきたのは確かですが、母上は関係ありません。突き詰めて言えば、兄上のことが嫌いだからですよ」
浅葱が明け透けに白状すると、薄氷は絶句した。その反応の意味を正確に汲み取り、浅葱も呆気にとられた表情を見せる。
「……なんでそんなに驚いてるんですか。まさか好かれてるとでも思ってたんですか?」
「いや……、別に好かれてるとまでは思わないが、嫌われているとも思っていなかった」
薄氷もまた、正直に打ち明ける。透子は与り知らないことだが、二人が兄弟として過ごした時間は短く、兄弟弟子となってからも、好悪を論じるほど密接な関係を築くことはなかった。浅葱が薄く笑う。
「それは兄上が私のことをそう思っているからでしょう。でも確かに、私も昔は好きでも嫌いでもなかったと思いますよ。兄上が先代から龍宮洞を譲り受けるまでは」
ぴり、と薄氷が警戒を強めたことが、透子にも伝わってきた。
「……つまり、本当の狙いは句芒洞の洞主の座か。だがなんのために、その女を使う回りくどいことをしてまでトーコを攫った?」
薄氷に「その女」と呼ばれた絢乃は、浅葱の腕の中で身じろぎひとつしない。気絶こそしていないが、度重なる衝撃に放心しきっていて、壊れても構わない駒として己を利用した男に身を委ねている。
その顎の線をひと撫でし、浅葱は臆する様子もなく、むしろ開き直ったように言い放つ。
「弱肉強食の世とは言え、私たちは登仙して知性と理性を備えた身、簒奪にはそれなりの大義名分が必要ですからね。仙果に逃げられた兄上が、それを私のせいだと思い込んで攻めて来たところを返り討ちにする……。そんな筋書きで、このあとも印象操作や状況証拠の小細工を仕掛けるつもりだったんですが、これほど瞬時に露見してはどうしようもない」
では、絢乃は孟章林に迷い込んだわけではなく、浅葱が連れて来たのだ。仙人に保護され龍宮洞を訪ねることも計算ずくで、透子が人界で消息を絶つように仕向けた。当然、薄氷の外出の予定も把握した上で事に及んだのである。敢えて翠蓮洞で仙果の血を流すことで薄氷だけが遠からず真相に辿り着くよう誘導しつつ、周囲には鱗王が仙果を失い気が狂れたと触れ回れば、傍目には浅葱が言いがかりをつけられたように錯覚させられただろう。
だかその算段も、視野にも入っていなかった瑠璃茉莉の式鬼一匹のせいで水泡に帰した。
「簡単に返り討ちと言うが、俺とおまえが本気で衝突して、無傷で済むと思っているのか?」
「そのくらいでなければ説得力がないでしょう。私は、相手の首を取れるなら自分の腕も惜しくない」
二人とも、相手を過小評価しなければ自身を過大評価もしていなかった。冷静に、彼我の力量を推し量っている。向こう見ずとも言える弟の発言に、薄氷は浅い溜め息を吐いた。
「……そこまでして句芒洞がほしいのか。先代が俺を後継に指名したとき、母上はともかく、おまえがそれほど王位を切望しているようには思えなかったが」
「仕方がないんですよ。兄上が鱗族の頂点に立った以上、その座を奪う以外の方法はないのですから」
その台詞に透子に引っ掛かりを覚える。単に鱗王に成り上がりたいのではなく、それを薄氷から奪い獲ることにこそ意味があると言うように聞こえたのだ。嫌がらせなどと軽い言葉では括りきれない、根が深い確執が潜んでいる気がした。
当の薄氷も同じように感じたのだろう、胡乱に眉をひそめる。
「よく解らん理屈だな」
対する浅葱は静かに笑った。凪いだ水面下に激しい渦を隠した笑みだった。
「かつて師父の下、私たちは弟子として対等だった。それが兄上が王になった瞬間、私は王の弟と呼ばれるようになったんですよ」
肩書きひとつで、浅葱は薄氷の付属物でしかなくなった。薄氷の名が鱗王として輝かしく仙界の歴史に刻まれる一方で、浅葱は翠蓮洞の洞主としてよりも、薄氷の弟として記録に名を残すことになるだろう。
だが、仙界人界問わず、似た立場の者たちは数多くいるはずだ。たとえば伊織は桃瀬の若君である以上に仙女の兄君として山里では認識されていたし、瑠璃茉莉や草薙たちも、仙人してそれなりの功績を立てなければ、句芒洞の直弟子という枕詞が永久について回ることになる。透子だって泥棒猫の娘だ。
なのに浅葱がそれを受け容れられないのは、かつては力量も立場も同等であった相手と主従に分かたれたせいなのか。
薄氷が淡々と口を開く。
「つまり、おまえが俺の弟ではなく、俺がおまえの兄であると呼ばせたいのか。どうでもいいことにこだわるやつだな」
「そういうことです。……そうですね、赤の他人からどう見られているかなど、些細なことかもしれない」
穏やかな表情で兄の言葉を受けた浅葱は、ふと空虚を抱えた笑みを浮かべる。
「私は兄上のことは好きではありませんが、母上のことははっきりと嫌いですよ」
その告白は、自分を嫌いだと言われた以上の衝撃を薄氷にもたらしたようだった。珍しく動揺した声に心の底からの疑問が滲んでいる。
「……何故だ? 母上はあれほど、おまえだけを猫可愛がりしていたのに」
「確かに、鬱陶しいほど溺愛されましたよ。あなたは薄氷よりも遥かに立派な弟だ、薄氷のような親不孝者にはなってくれるな、と」
笑った双眸に皮肉の光が灯る。
「私が可愛い分、兄上が憎いと言うのならまだいい。けれど兄上が憎くて私を可愛いがっていたのであれば、母上にとって私とはいったいなんなのでしょうね」
「…………」
返事に窮した薄氷に目を向けたまま、浅葱は改めて口端を吊り上げる。
「能書きはここまでにしておきましょうか。あれこれ並べ立てましたが、私は兄上を叩きのめしたくて仕方がないのですよ。兄上もそうでしょう?」
「……そうだな。弟と言えども叛意を露わにした者を不問に処すれば、句芒洞の権威が損なわれる」
「懸命な判断です。ここで私を見逃せば、つけ入る隙を見つけるたびに兄上の足下を掬いにかかりますよ」
一呼吸の間を置いて、薄氷は弟の言葉を認めた。迂闊に触れれば切れそうな緊張が走る。
「ああ、ですがその前に」
そこに放り込まれた声があまりにも軽い調子だったものだから、続く浅葱の行動に、透子も瑠璃茉莉も、薄氷すらも咄嗟に対応できなかった。
言葉を区切った次の瞬間、浅葱は左腕に拘束したままだった絢乃の襟首に背後から噛み付いた。
「────ァッ!」
絢乃の目が驚愕に見開かれ、口から押し潰された悲鳴が漏れる。その光景が目に焼きついてなお、透子の喉から愕然の声が迸るまでには数拍の間を要した。
「……絢乃様!」
透子がそう叫んだときには、浅葱は絢乃を放り捨てていた。左手の甲で口許を拭いながら、爛れた右掌をつまらなそうに見遣る。
「所詮仙果の従妹ではこの程度か。傷を癒す効果もなければ味も香りも段違いだ」
「…………道、君……?」
鮮血を噴き出しながら倒れ伏した絢乃が、自らの血溜まりに頬を沈めたまま茫然と呟いた。その間にも肉を抉られた首許から血は溢れ続け、答えを求めて僅かに視線を彷徨わせたあと、力尽きたように瞼が落ちる。
「では始めましょうか。勝っても満身創痍でしょうが、仙果があれば問題ない」
使い捨ての駒を一瞥することなく、笑顔で戦闘開始を宣言した浅葱は疾風を纏い床板を蹴って宙に身を躍らせた。疾風が勢いを増し続けた末に霧消すると、壺中天の空に、五本の爪を備えた巨大な龍が姿を現す。
「薄氷様っ、絢乃様が、絢乃様が」
「────瑠璃茉莉!」
「はいっ」
蒼白になった透子の狼狽と、それを受けた薄氷の最低限の声で、瑠璃茉莉は己に求められていることを理解した。失神した絢乃へ駆け寄り、二又の舌先で傷口に触れ、ひとまず血は止まった。だが格上の相手が刻みつけた傷、完全に消すことはできない。
龍と化した浅葱の喉から雷鳴のような低い唸りが漏れる。人の目には区別がつかないだけかもしれないが、その姿ばかりは、兄龍と酷似していた。
「薄氷様……勝てる?」
空から視線を引き剥がし、透子は祈るような思いで薄氷を見つめる。だが薄氷は弟の龍身を凝視したまま、正直に返した。
「負けるつもりはないが、浅葱も言ったとおり、無傷とはいかないだろうな」
「傷だらけでもいいです。勝って、戻ってきてさえくれれば。────わたしを食べれば、どんな傷でも治るんでしょう?」
「────」
息を呑んだ薄氷の腕が透子の肩から落ちた。今度は透子がその手を取り、細い首を掴ませる。龍の五指が少し力を込めれば、たやすく息の根を止められるだろう。己の命を薄氷に預け、透子はまっすぐに告げる。
「わたしは、天辺から爪先まで、まるごと薄氷様のもの。弟君なんかに奪わせないで」
浅葱にも絢乃にも、誰にも────薄氷以外の誰にも、搾取されたくない。
────どうせ死ぬのなら、薄氷に食べられたい。
心を決めた濡羽の瞳に搦め取られ、薄氷は堪えきれないように笑う。
「ああ。おまえを食べるために、俺は勝つ」
そう嘯いて、未だに血の滲んでいた透子の額に口づけた。
桃姑の血を啜った鱗王もまた、旋風と共に応龍本来の姿となり、天に昇って弟と対峙する。天地を揺るがす咆哮が交錯した。
縺れ合いながら更なる上昇を続ける双龍の周囲に、雲霞が湧き立つように新たな龍影が増えていく。あっという間に一対一ではなく軍対軍の様相を呈した戦場に、瑠璃茉莉の隣に膝をついた透子は目を疑った。
「……何あれ、弟子? 眷属? どこから湧いて出てきたの」
「違うわ、式鬼よ。鱗の一枚一枚、鬣の一本一本から生み出されたお二人の分身」
絢乃に応急処置を施した瑠璃茉莉も、固唾を呑んで蒼穹の戦況を見つめる。
無数の龍が激突し、混戦を極めた空を黒雲と雷鳴が支配した。雷雲は瞬く間に雨を招き、槍のような水滴が庭先や屋根に叩きつけられる。縦横無尽に吹き荒ぶ風が低く唸って大気を震撼させた。両軍は雨と雲に呑まれ、地上からは、時折走る稲光にその陰影が躍動する姿を垣間見ることしか叶わなくなる。
寝殿の軒下で髪を乱しながら見上げる透子の視線の先で、空が割れた。────比喩ではなく、本当に、そうとしか言いようがなかった。窓硝子にヒビが入るように蜘蛛の巣模様が広がり、剥がれ落ちた破片が雨と共に降り注ぐ。
瑠璃茉莉の顔色が変わった。
「────まずいわ!」
「どうなってるの、あれ……」
唖然とするしかない透子とは対照的に、事の深刻さを察した瑠璃茉莉は鋭く叫ぶ。
「お二人の霊力に耐え切れなかったのよ。翠蓮洞が……壺中天が崩壊するわ!」
龍の尾のように揺れる青い黒髪と、うねる蛇身を思わせる青みがかった蘇芳の髪。
「薄氷様……マツリさん!?」
自分を抱きかかえた仙龍と、その半歩前に立つ弟子の姿に、透子は驚きの声をあげる。
「……間一髪」
式鬼を手首に巻きつけ、瑠璃茉莉が短く呟いた。絢乃を信用していなかった彼女は、透子にこっそり式鬼を憑けていたのだ。そして案の定諍いを起こし翠蓮洞に連れ去られた透子を奪い返すべく、龍宮洞に残した式鬼を通じて呼び戻した薄氷と共に鱗環を通って来た。
その一連を、浅葱も推して知ったらしい。左腕に絢乃を抱えて右手の火傷を検分し、苦く笑う。
「……なるほど。仙果の香と兄上の鱗の気配に紛れて気づかなかった」
「おまえは昔から肝心なときほど慢心しやすいな」
弟の自嘲を兄が冷静に断じた。それぞれ片腕に少女たちを抱いたまま、応龍の兄弟は蒼い視線を束の間切り結ぶ。張り詰めた空気を透子も肌で感じた。薄氷の後ろに下がった瑠璃茉莉も、息を潜めて状況を見守っている。
不思議に思う。こうして並んでいても、二人はそれほど似ていない。人の姿の年頃は同じくらいで、体格や美貌は甲乙つけがたいものの、顔も声もまるで違う。それなのに、一人を見ると、自然ともう一人の面影が思い浮かぶのだ。
口火を切ったのは兄のほうだった。
「どうしてトーコを狙った。母上に唆されたのか?」
「しつこく嗾けてきたのは確かですが、母上は関係ありません。突き詰めて言えば、兄上のことが嫌いだからですよ」
浅葱が明け透けに白状すると、薄氷は絶句した。その反応の意味を正確に汲み取り、浅葱も呆気にとられた表情を見せる。
「……なんでそんなに驚いてるんですか。まさか好かれてるとでも思ってたんですか?」
「いや……、別に好かれてるとまでは思わないが、嫌われているとも思っていなかった」
薄氷もまた、正直に打ち明ける。透子は与り知らないことだが、二人が兄弟として過ごした時間は短く、兄弟弟子となってからも、好悪を論じるほど密接な関係を築くことはなかった。浅葱が薄く笑う。
「それは兄上が私のことをそう思っているからでしょう。でも確かに、私も昔は好きでも嫌いでもなかったと思いますよ。兄上が先代から龍宮洞を譲り受けるまでは」
ぴり、と薄氷が警戒を強めたことが、透子にも伝わってきた。
「……つまり、本当の狙いは句芒洞の洞主の座か。だがなんのために、その女を使う回りくどいことをしてまでトーコを攫った?」
薄氷に「その女」と呼ばれた絢乃は、浅葱の腕の中で身じろぎひとつしない。気絶こそしていないが、度重なる衝撃に放心しきっていて、壊れても構わない駒として己を利用した男に身を委ねている。
その顎の線をひと撫でし、浅葱は臆する様子もなく、むしろ開き直ったように言い放つ。
「弱肉強食の世とは言え、私たちは登仙して知性と理性を備えた身、簒奪にはそれなりの大義名分が必要ですからね。仙果に逃げられた兄上が、それを私のせいだと思い込んで攻めて来たところを返り討ちにする……。そんな筋書きで、このあとも印象操作や状況証拠の小細工を仕掛けるつもりだったんですが、これほど瞬時に露見してはどうしようもない」
では、絢乃は孟章林に迷い込んだわけではなく、浅葱が連れて来たのだ。仙人に保護され龍宮洞を訪ねることも計算ずくで、透子が人界で消息を絶つように仕向けた。当然、薄氷の外出の予定も把握した上で事に及んだのである。敢えて翠蓮洞で仙果の血を流すことで薄氷だけが遠からず真相に辿り着くよう誘導しつつ、周囲には鱗王が仙果を失い気が狂れたと触れ回れば、傍目には浅葱が言いがかりをつけられたように錯覚させられただろう。
だかその算段も、視野にも入っていなかった瑠璃茉莉の式鬼一匹のせいで水泡に帰した。
「簡単に返り討ちと言うが、俺とおまえが本気で衝突して、無傷で済むと思っているのか?」
「そのくらいでなければ説得力がないでしょう。私は、相手の首を取れるなら自分の腕も惜しくない」
二人とも、相手を過小評価しなければ自身を過大評価もしていなかった。冷静に、彼我の力量を推し量っている。向こう見ずとも言える弟の発言に、薄氷は浅い溜め息を吐いた。
「……そこまでして句芒洞がほしいのか。先代が俺を後継に指名したとき、母上はともかく、おまえがそれほど王位を切望しているようには思えなかったが」
「仕方がないんですよ。兄上が鱗族の頂点に立った以上、その座を奪う以外の方法はないのですから」
その台詞に透子に引っ掛かりを覚える。単に鱗王に成り上がりたいのではなく、それを薄氷から奪い獲ることにこそ意味があると言うように聞こえたのだ。嫌がらせなどと軽い言葉では括りきれない、根が深い確執が潜んでいる気がした。
当の薄氷も同じように感じたのだろう、胡乱に眉をひそめる。
「よく解らん理屈だな」
対する浅葱は静かに笑った。凪いだ水面下に激しい渦を隠した笑みだった。
「かつて師父の下、私たちは弟子として対等だった。それが兄上が王になった瞬間、私は王の弟と呼ばれるようになったんですよ」
肩書きひとつで、浅葱は薄氷の付属物でしかなくなった。薄氷の名が鱗王として輝かしく仙界の歴史に刻まれる一方で、浅葱は翠蓮洞の洞主としてよりも、薄氷の弟として記録に名を残すことになるだろう。
だが、仙界人界問わず、似た立場の者たちは数多くいるはずだ。たとえば伊織は桃瀬の若君である以上に仙女の兄君として山里では認識されていたし、瑠璃茉莉や草薙たちも、仙人してそれなりの功績を立てなければ、句芒洞の直弟子という枕詞が永久について回ることになる。透子だって泥棒猫の娘だ。
なのに浅葱がそれを受け容れられないのは、かつては力量も立場も同等であった相手と主従に分かたれたせいなのか。
薄氷が淡々と口を開く。
「つまり、おまえが俺の弟ではなく、俺がおまえの兄であると呼ばせたいのか。どうでもいいことにこだわるやつだな」
「そういうことです。……そうですね、赤の他人からどう見られているかなど、些細なことかもしれない」
穏やかな表情で兄の言葉を受けた浅葱は、ふと空虚を抱えた笑みを浮かべる。
「私は兄上のことは好きではありませんが、母上のことははっきりと嫌いですよ」
その告白は、自分を嫌いだと言われた以上の衝撃を薄氷にもたらしたようだった。珍しく動揺した声に心の底からの疑問が滲んでいる。
「……何故だ? 母上はあれほど、おまえだけを猫可愛がりしていたのに」
「確かに、鬱陶しいほど溺愛されましたよ。あなたは薄氷よりも遥かに立派な弟だ、薄氷のような親不孝者にはなってくれるな、と」
笑った双眸に皮肉の光が灯る。
「私が可愛い分、兄上が憎いと言うのならまだいい。けれど兄上が憎くて私を可愛いがっていたのであれば、母上にとって私とはいったいなんなのでしょうね」
「…………」
返事に窮した薄氷に目を向けたまま、浅葱は改めて口端を吊り上げる。
「能書きはここまでにしておきましょうか。あれこれ並べ立てましたが、私は兄上を叩きのめしたくて仕方がないのですよ。兄上もそうでしょう?」
「……そうだな。弟と言えども叛意を露わにした者を不問に処すれば、句芒洞の権威が損なわれる」
「懸命な判断です。ここで私を見逃せば、つけ入る隙を見つけるたびに兄上の足下を掬いにかかりますよ」
一呼吸の間を置いて、薄氷は弟の言葉を認めた。迂闊に触れれば切れそうな緊張が走る。
「ああ、ですがその前に」
そこに放り込まれた声があまりにも軽い調子だったものだから、続く浅葱の行動に、透子も瑠璃茉莉も、薄氷すらも咄嗟に対応できなかった。
言葉を区切った次の瞬間、浅葱は左腕に拘束したままだった絢乃の襟首に背後から噛み付いた。
「────ァッ!」
絢乃の目が驚愕に見開かれ、口から押し潰された悲鳴が漏れる。その光景が目に焼きついてなお、透子の喉から愕然の声が迸るまでには数拍の間を要した。
「……絢乃様!」
透子がそう叫んだときには、浅葱は絢乃を放り捨てていた。左手の甲で口許を拭いながら、爛れた右掌をつまらなそうに見遣る。
「所詮仙果の従妹ではこの程度か。傷を癒す効果もなければ味も香りも段違いだ」
「…………道、君……?」
鮮血を噴き出しながら倒れ伏した絢乃が、自らの血溜まりに頬を沈めたまま茫然と呟いた。その間にも肉を抉られた首許から血は溢れ続け、答えを求めて僅かに視線を彷徨わせたあと、力尽きたように瞼が落ちる。
「では始めましょうか。勝っても満身創痍でしょうが、仙果があれば問題ない」
使い捨ての駒を一瞥することなく、笑顔で戦闘開始を宣言した浅葱は疾風を纏い床板を蹴って宙に身を躍らせた。疾風が勢いを増し続けた末に霧消すると、壺中天の空に、五本の爪を備えた巨大な龍が姿を現す。
「薄氷様っ、絢乃様が、絢乃様が」
「────瑠璃茉莉!」
「はいっ」
蒼白になった透子の狼狽と、それを受けた薄氷の最低限の声で、瑠璃茉莉は己に求められていることを理解した。失神した絢乃へ駆け寄り、二又の舌先で傷口に触れ、ひとまず血は止まった。だが格上の相手が刻みつけた傷、完全に消すことはできない。
龍と化した浅葱の喉から雷鳴のような低い唸りが漏れる。人の目には区別がつかないだけかもしれないが、その姿ばかりは、兄龍と酷似していた。
「薄氷様……勝てる?」
空から視線を引き剥がし、透子は祈るような思いで薄氷を見つめる。だが薄氷は弟の龍身を凝視したまま、正直に返した。
「負けるつもりはないが、浅葱も言ったとおり、無傷とはいかないだろうな」
「傷だらけでもいいです。勝って、戻ってきてさえくれれば。────わたしを食べれば、どんな傷でも治るんでしょう?」
「────」
息を呑んだ薄氷の腕が透子の肩から落ちた。今度は透子がその手を取り、細い首を掴ませる。龍の五指が少し力を込めれば、たやすく息の根を止められるだろう。己の命を薄氷に預け、透子はまっすぐに告げる。
「わたしは、天辺から爪先まで、まるごと薄氷様のもの。弟君なんかに奪わせないで」
浅葱にも絢乃にも、誰にも────薄氷以外の誰にも、搾取されたくない。
────どうせ死ぬのなら、薄氷に食べられたい。
心を決めた濡羽の瞳に搦め取られ、薄氷は堪えきれないように笑う。
「ああ。おまえを食べるために、俺は勝つ」
そう嘯いて、未だに血の滲んでいた透子の額に口づけた。
桃姑の血を啜った鱗王もまた、旋風と共に応龍本来の姿となり、天に昇って弟と対峙する。天地を揺るがす咆哮が交錯した。
縺れ合いながら更なる上昇を続ける双龍の周囲に、雲霞が湧き立つように新たな龍影が増えていく。あっという間に一対一ではなく軍対軍の様相を呈した戦場に、瑠璃茉莉の隣に膝をついた透子は目を疑った。
「……何あれ、弟子? 眷属? どこから湧いて出てきたの」
「違うわ、式鬼よ。鱗の一枚一枚、鬣の一本一本から生み出されたお二人の分身」
絢乃に応急処置を施した瑠璃茉莉も、固唾を呑んで蒼穹の戦況を見つめる。
無数の龍が激突し、混戦を極めた空を黒雲と雷鳴が支配した。雷雲は瞬く間に雨を招き、槍のような水滴が庭先や屋根に叩きつけられる。縦横無尽に吹き荒ぶ風が低く唸って大気を震撼させた。両軍は雨と雲に呑まれ、地上からは、時折走る稲光にその陰影が躍動する姿を垣間見ることしか叶わなくなる。
寝殿の軒下で髪を乱しながら見上げる透子の視線の先で、空が割れた。────比喩ではなく、本当に、そうとしか言いようがなかった。窓硝子にヒビが入るように蜘蛛の巣模様が広がり、剥がれ落ちた破片が雨と共に降り注ぐ。
瑠璃茉莉の顔色が変わった。
「────まずいわ!」
「どうなってるの、あれ……」
唖然とするしかない透子とは対照的に、事の深刻さを察した瑠璃茉莉は鋭く叫ぶ。
「お二人の霊力に耐え切れなかったのよ。翠蓮洞が……壺中天が崩壊するわ!」



