そう言うや否や、翠蓮洞の道君は透子の額に爪を立てた。瘡蓋を剥ぐように強引に応龍の鱗を毟り取り、顔を向けずに庭の池へと放り捨てる。
「これで、兄に気づかれることはない。血眼になって人界を捜すだろう」
「……!」
多少の痛みは伴ったが、透子には剥がすことができなかった鱗を、彼は難なく抉り取ってしまった。思いがけない解放に、透子は人界に通じているらしき睡蓮の池を見遣る。蒼い双眸が冷たく笑った。
「下手なことは考えないほうがいい。丸腰で洞府を出れば、這う蟲が皮膚を喰い破り、鳥の嘴が眼球を啄み、獣の牙が五臓六腑を貪り尽くす」
具体的且つ凄惨な脅しに、一気に透子の胆が冷えた。額からたらりと垂れた血を拭うことすら思い至らない。
同じく道君も額の血を無視し、透子の左手首を掴んだ。苦痛に顔を歪める透子の許可を得ることなく、爪を失った指先を鮮血ごと口に含む。
「っ、やだ!」
幼子のように透子が喚くと、拍子抜けするほどあっさりと手首は解放された。やはり覚えた既視感に、舐られた指先を確認すれば、流血が止まるだけでなく、中指と薬指には真新しい爪が再生している。甘味を堪能するような沈黙ののち、唇の隙間から僅かに舌先を覗かせた道君が感嘆の声を漏らした。
「……なるほど。これは確かに、兄が執着するだけのことはある」
「薄氷様の……弟?」
仙果とは言え一介の小娘が鱗王の本名を口にしたことにごく微かな驚きを見せた道君は、その問いかけを肯定した。
「ああ。翠蓮洞の耀栄、浅葱だ。以後お見知り置きを……願う必要はないな。どうせすぐ死ぬ」
予言とも宣言ともつかない不吉な一言に対する透子の反応を待たず、耀栄道君こと浅葱は立ち上がって袴の裾を捌き、狂乱ののち一転して自失に陥った絢乃の前で再び膝を折る。熱を測るように額と額を重ねたあと、慈悲を込めてこめかみのあたりを撫でた。その感触に、生気を失った眼差しを向けた絢乃が虚ろな声で訴える。
「……道君、あたくしの髪、髪が」
「大丈夫だ、髪はまた元通り生えてくる。だが病や老化ではないからこそ、私が治してやることはできない」
再び立ち上がった浅葱は塗籠から二藍の首巻を持ち出し、鱗環を通る代償に髪を失った絢乃の頭に御高祖頭巾のように巻きつけた。
「しばらくは頭巾か鬘で凌ぐしかないな。……もしくは」
次いで、首巻と共に手にしていた太刀を鞘ごと絢乃の鼻先に突きつける。
「仙果の血肉であれば、君の憂慮はすべて解決するだろう」
「……!」
選択を迫る浅葱の一言に、絢乃と透子はそれぞれ息を呑んだ。
「…………」
絢乃はしばし硬直していたが、やがて弛緩した動作で浅葱から太刀を受け取った。ふらつきながら立ち上がると、危なっかしい手つきで刀身を引き抜き鞘を投げ捨てる。耳障りな音が軒先に響いた。
「絢乃様……」
その間、透子は微動だにできずにいた。恐怖は勿論あるが、信じられないという思いのほうが未だに強い。仙女としての誇りで燦然と輝いていた絢乃が、まさか本当に、人の道を踏み外してしまうつもりなのか。
「……ッ」
だが、無意識の呼びかけが呼び水となってしまったのか、絢乃は両手で柄を握り、渾身の力で太刀を振り下ろす。絢乃が腕を振り上げた時点で透子は飛び退って逃げたが、絢乃は狙いを変えられず、刃先は数秒前まで透子が座り込んでいた場所に叩き込まれた。太刀はそれなりに長く、それなりに重い。まともに山岳修行をしたこともない生粋の御令嬢が振り回すには少々骨が折れるだろう。
「おやめください、絢乃様」
その懇願は死の恐怖に起因するだけのものではなかった。従妹を人殺し、人喰いにはしたくないと、透子は必死に絢乃を思いとどまらせようとする。だが、絢乃にとっては逆効果でしかなかった。
「……うるさい!」
既に精神の均衡を欠いた声で、絢乃は従姉の懇願を叩き潰す。血走った双眸からは理知の光が失われており、誇り高い仙女の面影は微塵もない。
「完璧な仙女になれば、あたくしは龍神の花嫁になれるのよ!」
正気の沙汰とは思えない言葉を撒き散らし、絢乃は射殺すような視線を透子に突き刺す。甘言を弄し、五体満足では済まないことを伝えずに鱗環を絢乃に使用させた浅葱は、一歩退いて成り行きを見物していた。
絢乃への警戒を怠らないまま、中腰の姿勢で透子は素早く視線を滑らせる。浅葱が薄氷の鱗を投げ捨てた池はまだ人界と繋がっているだろうか。飛び込んで鱗と同じ場所に辿り着ければ、少なくとも翠蓮洞内を逃げ続けているよりは薄氷が異変に気づいてくれる可能性は高かった。
「そもそもあんたさえいなければ、あたくしは子爵家の花嫁だったのに……! 全部あんたのせいよ! 屋敷も、縁談も、この髪も! 何もかも、あんたのせいで!!」
口角泡を飛ばし、すべての鬱憤を透子への殺意に変え、狂気に蝕まれた絢乃はもう一度、大きく太刀を振り上げる。
だが振り下ろす寸前、思いもよらない方向から飛んできた火球がその刀身を弾き飛ばした。宙に舞った太刀が重い音を立てて床板に突き刺さる。
「!」
続けざま、今度は絢乃自身を目掛けて放たれた炎の軌道上から絢乃を引き寄せた浅葱は、残る右手で火球を受け止め霧消させる。
その一瞬の隙に、庭目掛けて踏み込もうとしていた透子もまた、何者かの腕に抱き起こされた。
「……!」
「これで、兄に気づかれることはない。血眼になって人界を捜すだろう」
「……!」
多少の痛みは伴ったが、透子には剥がすことができなかった鱗を、彼は難なく抉り取ってしまった。思いがけない解放に、透子は人界に通じているらしき睡蓮の池を見遣る。蒼い双眸が冷たく笑った。
「下手なことは考えないほうがいい。丸腰で洞府を出れば、這う蟲が皮膚を喰い破り、鳥の嘴が眼球を啄み、獣の牙が五臓六腑を貪り尽くす」
具体的且つ凄惨な脅しに、一気に透子の胆が冷えた。額からたらりと垂れた血を拭うことすら思い至らない。
同じく道君も額の血を無視し、透子の左手首を掴んだ。苦痛に顔を歪める透子の許可を得ることなく、爪を失った指先を鮮血ごと口に含む。
「っ、やだ!」
幼子のように透子が喚くと、拍子抜けするほどあっさりと手首は解放された。やはり覚えた既視感に、舐られた指先を確認すれば、流血が止まるだけでなく、中指と薬指には真新しい爪が再生している。甘味を堪能するような沈黙ののち、唇の隙間から僅かに舌先を覗かせた道君が感嘆の声を漏らした。
「……なるほど。これは確かに、兄が執着するだけのことはある」
「薄氷様の……弟?」
仙果とは言え一介の小娘が鱗王の本名を口にしたことにごく微かな驚きを見せた道君は、その問いかけを肯定した。
「ああ。翠蓮洞の耀栄、浅葱だ。以後お見知り置きを……願う必要はないな。どうせすぐ死ぬ」
予言とも宣言ともつかない不吉な一言に対する透子の反応を待たず、耀栄道君こと浅葱は立ち上がって袴の裾を捌き、狂乱ののち一転して自失に陥った絢乃の前で再び膝を折る。熱を測るように額と額を重ねたあと、慈悲を込めてこめかみのあたりを撫でた。その感触に、生気を失った眼差しを向けた絢乃が虚ろな声で訴える。
「……道君、あたくしの髪、髪が」
「大丈夫だ、髪はまた元通り生えてくる。だが病や老化ではないからこそ、私が治してやることはできない」
再び立ち上がった浅葱は塗籠から二藍の首巻を持ち出し、鱗環を通る代償に髪を失った絢乃の頭に御高祖頭巾のように巻きつけた。
「しばらくは頭巾か鬘で凌ぐしかないな。……もしくは」
次いで、首巻と共に手にしていた太刀を鞘ごと絢乃の鼻先に突きつける。
「仙果の血肉であれば、君の憂慮はすべて解決するだろう」
「……!」
選択を迫る浅葱の一言に、絢乃と透子はそれぞれ息を呑んだ。
「…………」
絢乃はしばし硬直していたが、やがて弛緩した動作で浅葱から太刀を受け取った。ふらつきながら立ち上がると、危なっかしい手つきで刀身を引き抜き鞘を投げ捨てる。耳障りな音が軒先に響いた。
「絢乃様……」
その間、透子は微動だにできずにいた。恐怖は勿論あるが、信じられないという思いのほうが未だに強い。仙女としての誇りで燦然と輝いていた絢乃が、まさか本当に、人の道を踏み外してしまうつもりなのか。
「……ッ」
だが、無意識の呼びかけが呼び水となってしまったのか、絢乃は両手で柄を握り、渾身の力で太刀を振り下ろす。絢乃が腕を振り上げた時点で透子は飛び退って逃げたが、絢乃は狙いを変えられず、刃先は数秒前まで透子が座り込んでいた場所に叩き込まれた。太刀はそれなりに長く、それなりに重い。まともに山岳修行をしたこともない生粋の御令嬢が振り回すには少々骨が折れるだろう。
「おやめください、絢乃様」
その懇願は死の恐怖に起因するだけのものではなかった。従妹を人殺し、人喰いにはしたくないと、透子は必死に絢乃を思いとどまらせようとする。だが、絢乃にとっては逆効果でしかなかった。
「……うるさい!」
既に精神の均衡を欠いた声で、絢乃は従姉の懇願を叩き潰す。血走った双眸からは理知の光が失われており、誇り高い仙女の面影は微塵もない。
「完璧な仙女になれば、あたくしは龍神の花嫁になれるのよ!」
正気の沙汰とは思えない言葉を撒き散らし、絢乃は射殺すような視線を透子に突き刺す。甘言を弄し、五体満足では済まないことを伝えずに鱗環を絢乃に使用させた浅葱は、一歩退いて成り行きを見物していた。
絢乃への警戒を怠らないまま、中腰の姿勢で透子は素早く視線を滑らせる。浅葱が薄氷の鱗を投げ捨てた池はまだ人界と繋がっているだろうか。飛び込んで鱗と同じ場所に辿り着ければ、少なくとも翠蓮洞内を逃げ続けているよりは薄氷が異変に気づいてくれる可能性は高かった。
「そもそもあんたさえいなければ、あたくしは子爵家の花嫁だったのに……! 全部あんたのせいよ! 屋敷も、縁談も、この髪も! 何もかも、あんたのせいで!!」
口角泡を飛ばし、すべての鬱憤を透子への殺意に変え、狂気に蝕まれた絢乃はもう一度、大きく太刀を振り上げる。
だが振り下ろす寸前、思いもよらない方向から飛んできた火球がその刀身を弾き飛ばした。宙に舞った太刀が重い音を立てて床板に突き刺さる。
「!」
続けざま、今度は絢乃自身を目掛けて放たれた炎の軌道上から絢乃を引き寄せた浅葱は、残る右手で火球を受け止め霧消させる。
その一瞬の隙に、庭目掛けて踏み込もうとしていた透子もまた、何者かの腕に抱き起こされた。
「……!」



