従妹が新米下女と共に部屋を離れてようやく、透子は立ち上がった。透子のほうが背が高いので、たとえ段上と段下でも、下手に絢乃の前で立つと「頭が高い」と罵られるのだ。
間断的な細雨とは言え、朝から夕まで庭で跪いていれば、背中はしっとりと湿り、裾や前掛けは泥に汚れている。蟲祓いの呪符を後生大事に抱いて、透子は従妹たちとは逆の方向へ爪先を向けた。
濡縁には上がらず、庭伝いに裏手の自室へ戻る途中、後方から声をかけられた。それは労わりを帯びたものだったから、透子は足を止めて振り返り、僅かに頬を緩める。
「大丈夫? 透子さん」
「……伊織様」
室内から袴姿を覗かせたのは、絢乃の兄、透子の従兄の伊織だった。ぺこりと頭を下げた透子に、ひょろりと背の高い彼は濡縁に出て苦笑する。育ちのよさの滲み出る穏和な顔立ちは、絢乃への信仰ほどではないが、里娘たちの憧憬の的であった。
「いつも言ってるけど、いいんだよ、頭なんて下げなくても。ぼくたちは従兄妹なんだから」
「そう言ってくださるのは伊織様だけですよ」
透子は諦観を漂わせた微笑を浮かべる。この屋敷、山里に於いて透子は「桃瀬家のご令嬢」ではなく「下女の娘」、当主の姪ではなく奉公人なのだ。
「でも本当なら、この家の後継ぎは父さんじゃなくて伯父さんだったんだろう。そうなっていたら、透子さんこそが当主の娘だったんだから」
「駄目ですよ、ご主人様の若君がそんな冗談を仰っては」
当然、伯父を伯父と呼ぶことは許されず、透子は伊織を軽く諫めた。
透子は十六年前に帝都で生まれ、帝都で育った。小学校の卒業直前に父が亡くなり、困窮した母は透子を連れて遠い遠い故郷へと戻った。そこで初めて透子は、高野は母方の姓であり両親が正式には入籍していなかったこと、父が幾人もの仙人を輩出した旧家の跡取りであったこと、同様の来歴を持つ名家の令嬢との結婚直前に、密かな恋仲であった下女の母と駆け落ちしたことを知ったのだ。
母の実家は村八分の末に離散しており、伯父が当主となった桃瀬家に再び下女として身を寄せるほかなかった。その母も心身の衰弱の末、帰郷後一年足らずで他界し、透子一人が侮蔑の眼に晒されて続けている。
確かに、屋敷に来たばかりの頃は、悪意と孤立の中、伊織の言うように考えて己を奮い立たせていたこともあった。だが唯一の味方であった母を亡くし、透子は自分の心がそれほど強くはないと知った。
「だけど僕は、絢乃と違って方士の素質には恵まれなかったからね。だから父さんも母さんも絢乃には甘いし、……僕も口を挟みづらくて」
伊織も、生まれたときには方士としての片鱗を窺わせたが、人並みに、十を数える前には通力を失ったという。言外に、透子に対する絢乃の仕打ちの数々を止められない罪悪感が滲んでいた。
母を貶める絢乃の発言に対し、反感を覚える程度には、まだ萎縮しきってはいない。けれど反論を返せるほど、もう強靭ではいられなかった。
結果、透子は建前と本音半々の言葉を口にする。
「いいんです。絢乃様は素晴らしい仙女、蟲祓いの呪符のおかげて、わたしは人並みの生活を送れてるんですから」
東海の只中に浮かぶこの洲が蓬莱と呼ばれ鎖されていた頃、人々は生まれながらに方術を駆使する道士であり、才ある者は修行の末に仙人へと至った。争乱や貧困とは無縁の理想郷とは言えなかったが、国の根幹を揺るがすほどの大禍もなく、京の帝の治世が続いていた。
だが、漂着した外国の船に太平の眠りを覚まされ国を開いた結果、様々な近代文明の奔流が押し寄せ、神仙思想は闇の帳の向こうに押し流されてしまった。霊獣霊鳥は消え、霊木は倒れ、霊泉は涸れた。仙人たちもいずこかへと去った。道士たちの通力は徐々に衰え、只人として文明開化の世を謳歌するようになった。
それでも大多数はその変容を受け入れたが、認められない者たちも少なからずいた。道士として権勢を誇った者ほど後者の傾向が強く、桃瀬家はまさにその典型と言えた。
波及する近代化の時流に乗れず、過去の栄光に縋る山里。その閉塞感を嫌い、透子の父は恋人と共に出奔したのかもしれないが、同時にその執念は、絢乃という形で結実した。
俗に「神の内」と呼ばれる七歳を越えてなお並外れた霊力を維持し続ける絢乃を、里人たちは道士を飛び越え仙女と崇めた。御一新の言葉どおり世の中は激変し、そこから更に数十年を経た今も、帝都を離れた僻地には信仰が息づき、迷信と切り捨てられない一面が確かにあるのだった。
「『蟲喰い』……」
「四六時中、羽虫に耳許や顔の前を飛び回られては、神経が参ってしまいます」
声を沈ませた伊織に対し、透子は困り眉になりながらも努めて明るい口調で返す。帰郷に前後して発現した厄介な特異体質。蝶や蜻蛉であればまだ微笑ましいが、虻蜂や百足、蛇に蜥蜴まで引き寄せるのでは、当人は勿論、周囲も堪ったものではない。斯くして透子は、「泥棒猫の娘」に続き「蟲喰い」という不名誉な綽名を冠されるに至ったのである。
「せめて、蟲を使役する仙術だったらよかったのにね」
残念ながら、蟲たちは群がるだけで、透子の意のままには動いてくれない。
「でも、この里が仙人だ方術だって言い続けてる間に、世の中は外国を……世界を追いかけて、いずれは追いついて追い抜こうとしてる。伝統や風習の継承も大切だとは思うけど、そこに固執してるだけでいいのかな……」
そんな慰めと愚痴を口にしたところで、ようやく伊織は、透子が糸雨の中に立っていることに思い至ったようだった。
「ああ、ごめんね、呼び止めて」
「いえ……」
「ちょっと待って。……これ、よかったら食べて」
そう言って、伊織は小さな落雁の包みを透子に持たせた。従妹ではなく下女として、透子は反射的に辞退しようとする。
「そんな、申し訳ないです」
「気にしないで。みんなには内緒だよ」
「……いつもすみません」
元々食膳が倹しいところへ、更にたびたび食事抜きを言い渡される透子に、伊織だけはこうしてささやかな施しをくれる。……だから、その手に思い遣りよりも独善を感じてしまう透子は恩知らずなのだろう。
絢乃の呪符と伊織の落雁を胸に抱き、透子は自室へと戻った。部屋と言っても元は納戸、狭さはもとより窓もない。しかも四年前はここに母も暮らしていた。行灯に火を点し、襷と髪を解いて、これまた粗末な浴衣に着替え人心地ついたところで、透子は空腹を自覚した。
呪符の代償として、絢乃はいつも、できなくはないけどやりたくはない難題を吹っかけてくる。炎天下の庭の草毟りや、かつて仙人の暮らした山の断崖に生えたり氷の下に沈んでいたりする霊薬の原料の採取。厩番の代役を申し付けられたときは、そのまま厩に寝泊りすることまで強要された。音を上げずにどうにかこなしたところで、労いの言葉を手向けられたことなどない。
そして今日は、羽虫を供に、雨が降りそうで降らない空の下で濡れた落ち葉をかき集めていたら、若い下女に「これお願い!」と朝餉の膳を押し付けられた。少し前に姉と入れ替わりで奉公に来た新米だろう、自分は「蟲喰い」ゆえに食事周りの仕事を禁じられている、と説明する間もなかった。仕方なく座敷に運べば、案の定絢乃に「どうして透子さんが運んでくるのよ」と詰られ、手を払われたた拍子に汁物がこぼれたことで更に責められた。弁明の余地は与えられなかった。
そこで、そろそろ呪符を取り替える頃合いだと気づいたのだろう。「あたくしがいいと言うまで庭で頭を下げてなさい」と仙女に命じられ、透子は朝から何も食べず雨の降り始めた庭に額づいていたのである。
(……でも、もしかしたら)
絢乃は決して愚鈍ではない。透子が朝餉を運んできた理由を少なからず察したからこそ、理由をつけてナツを呼んだのではないか。そして察してなお、透子だけを厳しく罰することを選んだ。ナツには寛容且つ遠回しに注意を促した上で霊験を見せて崇敬を抱かせ、透子を罵って鬱憤を晴らす一石二鳥だ。
ナツにすべて責任転嫁しようとは思わない。だが、膳を押し付けたのが別の同僚であれば、ナツの口は沈黙ではなく擁護の言葉を選ぶ気がした。
下女として扱われることも、まだいい。透子の母が桃瀬家の下女であったことは事実だし、下働きもれっきとした仕事だ。けれど、人としての尊厳さえ否定されるような屈辱は耐え難く、しかし同時に、無数の虫に埋もれて生きることはもっと耐えられそうになかった。どれほど冷遇され搾取されても、透子は下女として「蟲喰い」として、二重に従妹に頭が上がらない。絢乃の通力を吹聴するためだけに、透子は存在を許されている。
この四年で、父方の祖父母は鬼籍の身となった。蓬莱と呼ばれた鎖国の時代を知る、かつて方士と名乗った者たちは、果たしてどれだけ存命なのだろう。帝都に生まれ育った透子のみならず、開国後産まれの大多数の人々にとって、神仙は敬愛する隣人ではなく御伽話の住人だった。それが今や、罵声を浴びながら迷信と紙一重の信仰に縋らなければ、ただ生きることさえ儘ならない。
最初は、悲しいよりも悔しかった。心が磨り減った今は、ただただ辛い。
首から提げた守り袋の中身を新しい符に入れ替えたあと、まやかしの慰めを求めて、透子は落雁の包みを開き、口に放り入れる。千鳥や菊花などの吉祥紋を象った愛らしい乾菓子は、ほんのりと甘いけれども、口内を干上がらせるばかりで、空腹を満たすことはなかった。
────開国から五十余年、この洲は、仙界から人界への過渡期の只中にあった。
間断的な細雨とは言え、朝から夕まで庭で跪いていれば、背中はしっとりと湿り、裾や前掛けは泥に汚れている。蟲祓いの呪符を後生大事に抱いて、透子は従妹たちとは逆の方向へ爪先を向けた。
濡縁には上がらず、庭伝いに裏手の自室へ戻る途中、後方から声をかけられた。それは労わりを帯びたものだったから、透子は足を止めて振り返り、僅かに頬を緩める。
「大丈夫? 透子さん」
「……伊織様」
室内から袴姿を覗かせたのは、絢乃の兄、透子の従兄の伊織だった。ぺこりと頭を下げた透子に、ひょろりと背の高い彼は濡縁に出て苦笑する。育ちのよさの滲み出る穏和な顔立ちは、絢乃への信仰ほどではないが、里娘たちの憧憬の的であった。
「いつも言ってるけど、いいんだよ、頭なんて下げなくても。ぼくたちは従兄妹なんだから」
「そう言ってくださるのは伊織様だけですよ」
透子は諦観を漂わせた微笑を浮かべる。この屋敷、山里に於いて透子は「桃瀬家のご令嬢」ではなく「下女の娘」、当主の姪ではなく奉公人なのだ。
「でも本当なら、この家の後継ぎは父さんじゃなくて伯父さんだったんだろう。そうなっていたら、透子さんこそが当主の娘だったんだから」
「駄目ですよ、ご主人様の若君がそんな冗談を仰っては」
当然、伯父を伯父と呼ぶことは許されず、透子は伊織を軽く諫めた。
透子は十六年前に帝都で生まれ、帝都で育った。小学校の卒業直前に父が亡くなり、困窮した母は透子を連れて遠い遠い故郷へと戻った。そこで初めて透子は、高野は母方の姓であり両親が正式には入籍していなかったこと、父が幾人もの仙人を輩出した旧家の跡取りであったこと、同様の来歴を持つ名家の令嬢との結婚直前に、密かな恋仲であった下女の母と駆け落ちしたことを知ったのだ。
母の実家は村八分の末に離散しており、伯父が当主となった桃瀬家に再び下女として身を寄せるほかなかった。その母も心身の衰弱の末、帰郷後一年足らずで他界し、透子一人が侮蔑の眼に晒されて続けている。
確かに、屋敷に来たばかりの頃は、悪意と孤立の中、伊織の言うように考えて己を奮い立たせていたこともあった。だが唯一の味方であった母を亡くし、透子は自分の心がそれほど強くはないと知った。
「だけど僕は、絢乃と違って方士の素質には恵まれなかったからね。だから父さんも母さんも絢乃には甘いし、……僕も口を挟みづらくて」
伊織も、生まれたときには方士としての片鱗を窺わせたが、人並みに、十を数える前には通力を失ったという。言外に、透子に対する絢乃の仕打ちの数々を止められない罪悪感が滲んでいた。
母を貶める絢乃の発言に対し、反感を覚える程度には、まだ萎縮しきってはいない。けれど反論を返せるほど、もう強靭ではいられなかった。
結果、透子は建前と本音半々の言葉を口にする。
「いいんです。絢乃様は素晴らしい仙女、蟲祓いの呪符のおかげて、わたしは人並みの生活を送れてるんですから」
東海の只中に浮かぶこの洲が蓬莱と呼ばれ鎖されていた頃、人々は生まれながらに方術を駆使する道士であり、才ある者は修行の末に仙人へと至った。争乱や貧困とは無縁の理想郷とは言えなかったが、国の根幹を揺るがすほどの大禍もなく、京の帝の治世が続いていた。
だが、漂着した外国の船に太平の眠りを覚まされ国を開いた結果、様々な近代文明の奔流が押し寄せ、神仙思想は闇の帳の向こうに押し流されてしまった。霊獣霊鳥は消え、霊木は倒れ、霊泉は涸れた。仙人たちもいずこかへと去った。道士たちの通力は徐々に衰え、只人として文明開化の世を謳歌するようになった。
それでも大多数はその変容を受け入れたが、認められない者たちも少なからずいた。道士として権勢を誇った者ほど後者の傾向が強く、桃瀬家はまさにその典型と言えた。
波及する近代化の時流に乗れず、過去の栄光に縋る山里。その閉塞感を嫌い、透子の父は恋人と共に出奔したのかもしれないが、同時にその執念は、絢乃という形で結実した。
俗に「神の内」と呼ばれる七歳を越えてなお並外れた霊力を維持し続ける絢乃を、里人たちは道士を飛び越え仙女と崇めた。御一新の言葉どおり世の中は激変し、そこから更に数十年を経た今も、帝都を離れた僻地には信仰が息づき、迷信と切り捨てられない一面が確かにあるのだった。
「『蟲喰い』……」
「四六時中、羽虫に耳許や顔の前を飛び回られては、神経が参ってしまいます」
声を沈ませた伊織に対し、透子は困り眉になりながらも努めて明るい口調で返す。帰郷に前後して発現した厄介な特異体質。蝶や蜻蛉であればまだ微笑ましいが、虻蜂や百足、蛇に蜥蜴まで引き寄せるのでは、当人は勿論、周囲も堪ったものではない。斯くして透子は、「泥棒猫の娘」に続き「蟲喰い」という不名誉な綽名を冠されるに至ったのである。
「せめて、蟲を使役する仙術だったらよかったのにね」
残念ながら、蟲たちは群がるだけで、透子の意のままには動いてくれない。
「でも、この里が仙人だ方術だって言い続けてる間に、世の中は外国を……世界を追いかけて、いずれは追いついて追い抜こうとしてる。伝統や風習の継承も大切だとは思うけど、そこに固執してるだけでいいのかな……」
そんな慰めと愚痴を口にしたところで、ようやく伊織は、透子が糸雨の中に立っていることに思い至ったようだった。
「ああ、ごめんね、呼び止めて」
「いえ……」
「ちょっと待って。……これ、よかったら食べて」
そう言って、伊織は小さな落雁の包みを透子に持たせた。従妹ではなく下女として、透子は反射的に辞退しようとする。
「そんな、申し訳ないです」
「気にしないで。みんなには内緒だよ」
「……いつもすみません」
元々食膳が倹しいところへ、更にたびたび食事抜きを言い渡される透子に、伊織だけはこうしてささやかな施しをくれる。……だから、その手に思い遣りよりも独善を感じてしまう透子は恩知らずなのだろう。
絢乃の呪符と伊織の落雁を胸に抱き、透子は自室へと戻った。部屋と言っても元は納戸、狭さはもとより窓もない。しかも四年前はここに母も暮らしていた。行灯に火を点し、襷と髪を解いて、これまた粗末な浴衣に着替え人心地ついたところで、透子は空腹を自覚した。
呪符の代償として、絢乃はいつも、できなくはないけどやりたくはない難題を吹っかけてくる。炎天下の庭の草毟りや、かつて仙人の暮らした山の断崖に生えたり氷の下に沈んでいたりする霊薬の原料の採取。厩番の代役を申し付けられたときは、そのまま厩に寝泊りすることまで強要された。音を上げずにどうにかこなしたところで、労いの言葉を手向けられたことなどない。
そして今日は、羽虫を供に、雨が降りそうで降らない空の下で濡れた落ち葉をかき集めていたら、若い下女に「これお願い!」と朝餉の膳を押し付けられた。少し前に姉と入れ替わりで奉公に来た新米だろう、自分は「蟲喰い」ゆえに食事周りの仕事を禁じられている、と説明する間もなかった。仕方なく座敷に運べば、案の定絢乃に「どうして透子さんが運んでくるのよ」と詰られ、手を払われたた拍子に汁物がこぼれたことで更に責められた。弁明の余地は与えられなかった。
そこで、そろそろ呪符を取り替える頃合いだと気づいたのだろう。「あたくしがいいと言うまで庭で頭を下げてなさい」と仙女に命じられ、透子は朝から何も食べず雨の降り始めた庭に額づいていたのである。
(……でも、もしかしたら)
絢乃は決して愚鈍ではない。透子が朝餉を運んできた理由を少なからず察したからこそ、理由をつけてナツを呼んだのではないか。そして察してなお、透子だけを厳しく罰することを選んだ。ナツには寛容且つ遠回しに注意を促した上で霊験を見せて崇敬を抱かせ、透子を罵って鬱憤を晴らす一石二鳥だ。
ナツにすべて責任転嫁しようとは思わない。だが、膳を押し付けたのが別の同僚であれば、ナツの口は沈黙ではなく擁護の言葉を選ぶ気がした。
下女として扱われることも、まだいい。透子の母が桃瀬家の下女であったことは事実だし、下働きもれっきとした仕事だ。けれど、人としての尊厳さえ否定されるような屈辱は耐え難く、しかし同時に、無数の虫に埋もれて生きることはもっと耐えられそうになかった。どれほど冷遇され搾取されても、透子は下女として「蟲喰い」として、二重に従妹に頭が上がらない。絢乃の通力を吹聴するためだけに、透子は存在を許されている。
この四年で、父方の祖父母は鬼籍の身となった。蓬莱と呼ばれた鎖国の時代を知る、かつて方士と名乗った者たちは、果たしてどれだけ存命なのだろう。帝都に生まれ育った透子のみならず、開国後産まれの大多数の人々にとって、神仙は敬愛する隣人ではなく御伽話の住人だった。それが今や、罵声を浴びながら迷信と紙一重の信仰に縋らなければ、ただ生きることさえ儘ならない。
最初は、悲しいよりも悔しかった。心が磨り減った今は、ただただ辛い。
首から提げた守り袋の中身を新しい符に入れ替えたあと、まやかしの慰めを求めて、透子は落雁の包みを開き、口に放り入れる。千鳥や菊花などの吉祥紋を象った愛らしい乾菓子は、ほんのりと甘いけれども、口内を干上がらせるばかりで、空腹を満たすことはなかった。
────開国から五十余年、この洲は、仙界から人界への過渡期の只中にあった。



