問題を先送りにしたまま、人界に一ヶ月遅れて仙界の年は明けた。

 薄氷が鱗王として眷属たちの新年祝賀を受けたり、一族や王たちとの饗宴に出向いたりする一方で、透子は自分も手伝った草薙謹製の正月料理を堪能していた。普段に輪をかけて豪勢な御膳に、いったい彼はどんな仙人を目指しているのかと思わないでもないが、皇室の祖先を開祖とする仙洞の王母には、その食事を司る仙女が代々付き従っているというから、そういう道もありなのだろう。

 孟章林に住む仙人の一人が、洞主不在の龍宮洞を訪ねて来たのは、そんな日々が一段落し、雪見温泉の話を具体的に検討し始めた雨水の直前のことだった。

「マツリ、景雲君(けいうんくん)が妙な女を連れてきた」

 絡げた簾から残雪の渓流を臨む座敷で昼前のひとときを過ごしていた瑠璃茉莉と透子を、草薙が困惑の表情で訪ねて来た。普段の陽気さが曇ったその声に、襦袢を仕立てる手を休めた瑠璃茉莉も訝しげに眉をひそめる。

「アタシに言われても困るわよ。真君は不在なんだから、出直していただくしかないじゃない」

 現在、薄氷は一族間の会合のために龍宮洞を空けていた。身も蓋もない瑠璃茉莉の返答に草薙が食い下がる。

「いやそれがな、人界から迷い込んで、確かに美人なんだけど、景雲洞の弟子が保護したら、でもオレはどうも好きになれないな」
「あぁあもう、思いついた端から口にするんじゃなくて、ちゃんと順序だてて説明しなさい!」

 動揺のあまりか、支離滅裂な説明を並べる兄弟子を妹弟子が一喝する。草薙は呼吸を整え、混乱の中から、最も伝えるべき言葉を過たず選んだ。

「────そいつ、トーコの従妹を名乗ってる」
「!」

 手遊びに刺繍を刺していた透子の手から手巾が落ちた。

 瑠璃茉莉の軌道修正を受けながら草薙が語った顛末は次のようなものだった。前日の日没直後、景雲洞の弟子の一人が若い女を見つけた。仙界に迷い込んだ者は速やかに人界に送り返すのが孟章林の定めだが、女は勘が鋭く、ここが仙境だと見抜いた上に面妖なことを口走ったため、弟子は師父の判断を仰ぐことにした。洞府で対面した景雲に、龍神の森を参詣に訪れ道に迷ったと言う女は、ここが仙境で龍神に縁ある土地なら五本爪の龍を知らないか、その龍は去年の春に自分の従姉を攫っていった、と訴えたと言う。

 五本爪の龍……鱗族の長が、人の胎から産まれた仙果を龍宮洞で育てていることを、景雲は勿論知っていた。女は、少なくとも仙木の一族であることは間違いなく、真偽を確かめるため、鱗王と仙果に引き合わせるべく景雲は龍宮洞に参じた。そして今、外門と内門の間の前庭で、女と共に仙果を待っている。鱗王の不在を知って出直そうとしたのだが、女が頑として聞き入れなかったのだ。自分が用があるのは王龍ではなく従姉だ、せめて無事を確認させろ、と言い張ったらしい。

 三葉芹と共に応対したという草薙から女の年恰好を確認した透子は、それが絢乃だと確信した。

(どうして……?)

 人界から仙界に迷い込む偶然は、まだ解らないでもない。だが透子を「蟲喰い」と蔑んで憚らなかった絢乃が、何故自分の安否を心配するのだろう。

「……で、どうする」
「景雲君に他意はないとは思うけど……」

 草薙と瑠璃茉莉が難しい顔で思案する。代替わりからおよそ半世紀、不穏分子は既に淘汰され、孟章林で現在の鱗王に害意を抱く仙人や弟子はいないと聞く。景雲が額面どおりの動機で絢乃を連れてきたことは信用していいはずだ。

 だが、絢乃の言葉はどこまで信頼できるのか。

「……いいよ、会う」
「トーコ!」

 それでも意を決した透子に、瑠璃茉莉が気遣わしげな目を向ける。洞主不在時の独断に懸念を見せる彼女に、透子はぎこちなく笑い返した。

「大丈夫、会うだけ。人に会うな、とは薄氷様からも言われてないし、……会って無事を伝えて、帰ってもらおう。景雲君にもご迷惑かけたくないし」

 絢乃の言葉が嘘でも真でも、どちらでもいい。龍宮洞に、今の暮らしに踏み込んでもらいたくない。透子の望みはそれだけだった。

「……そうね。顔だけ見せて、速やかに人界へお帰り願いましょう」

 瑠璃茉莉の賛同を得て、透子は南郭の正門へと向かった。草薙もついて来る。張り詰めた二人の表情は、透子が従妹と共に脱走する危惧よりも、従妹と対面すること自体を憂いているようにも見えた。景雲と違い、二人は痩せ細った身体で龍宮洞に連れて来られた透子の当初の姿を知っている。身の回りの世話を続けてきた瑠璃茉莉も、案外勘の鋭い草薙も、察するものがあるのかもしれなかった。

 透子には開けられない門扉が開くと、前庭は左右を坪庭に区切られていて、西の橘の庭の四阿にふたつの人影がある。……鱗王の弟子たちに守られて庭を訪れた透子の姿に勢いよく立ち上がったのは、間違いなく同じ歳の従妹であった。

「……透子さん!」

 立ち上がったばかりか、絢乃は透子が近づくより先に駆けつけ、その手を両手で握る。実に十ヶ月ぶりの再会を、絢乃は喜色満面で祝した。

「ああ、よかった、無事だったのね」
「……絢乃様、どうして」

 握る手を振り払うこともできず、透子は茫然と呟く。どうしてここに、という以上に、どうして無事を喜ぶの、という透子の戸惑いを、絢乃は正確に見抜いて応じた。

「仙人様から伺ったのよ、透子さんが三千年に一人の仙桃の化身だって。だったら透子さんもれっきとした桃瀬家の仙女、大切な従姉だわ。心配するに決まってるじゃないの」
「…………」

 仙人の末裔と言う血筋を誇る桃瀬家の者としては当然の言い分かもしれない。だが見事なまでの掌返しには呆れるほかなかった。

 そんな透子の心境に構わず、絢乃は上機嫌で続ける。

「見つかって本当によかったわ。さ、一緒に帰りましょう。お父様もお母様も歓迎するわ。お兄様にも、元気な姿を見せてあげてちょうだい」
「それは……」
「ああ、嫁入りのことなら心配しないで。子爵家のご隠居程度に、桃瀬の仙女を妾に差し出すわけがないでしょう」
「今のは聞き捨てならないわね」

 透子の躊躇いをそう解釈した絢乃に、瑠璃茉莉が厳しい声で食ってかかる。

「隠居の妾? そんなところにやろうとした家に、トーコを帰せるわけないでしょ」
「だから、それは撤回するって言ってるでしょう。家の話に他人が口を挟まないでくださいな」

 一気に険悪な空気を漂わせた二人に、透子は慌てて割り込み、勇気を振り絞って告げる。

「二人とも落ち着いて。……絢乃様、お気持ちは勿体なく思いますが、どうぞお引き取りください」

 桃瀬家は透子の帰る場所ではない。今更どう取り繕われても、四年間の忌まわしい記憶は消えない。このまま龍宮洞にいても未来はないが、それでも桃瀬家へ戻る気にはなれなかった。

「透子さん!? どうしてそんな淋しいことを言うの」
「ほら、トーコ本人がこう言ってるんだから。無事なことは充分解ったでしょ、早く人界に戻りなさい」

 瑠璃茉莉が野良犬を追い払うように絢乃をあしらう。絢乃は顔色を変えたが、そう簡単には引き下がらなかった。透子の手を握ったまま頑迷に説得を重ねる。

「今までのことなら謝るわ。だから、ね? 透子さんには是非、桃瀬の次期当主になってもらいたいのよ。血筋から言っても霊力から言っても、お兄様より透子さんのほうが相応しいもの。透子さんと一緒じゃなきゃあたくしも帰らないわ」
「…………わかり、ました」

 鬼気迫る強情さに、透子のほうが押し負けた。「蟲喰い」と仙女という呪縛が解けてなお、絢乃の声には透子の意思を挫く響きがあった。今度は瑠璃茉莉が血相を変える。

「ちょっと、トーコ!」
「じゃあ早く帰りましょう。透子さんは帰り道を知っているのかしら、って何するの!」

 絢乃の手が透子から離れた隙に、瑠璃茉莉が透子の手を引いて絢乃から距離を置く。据わった目で透子に翻意を求めた。

「何考えてんのよアンタ、本当に人界に戻る気? 真君が黙っちゃいないわよ」
「大丈夫、絢乃様を橋まで送り届けたら引き返してくる。嘘でもああ言わないと、絢乃様本当に居座りかねないもの」

 それは透子が最も忌避する事態だった。期限付きだが心地よい生活を、土足で踏み荒らされたくない。かつて生殺与奪を握られていた従妹に対する怖気(おじけ)は完全には消えていないけれど、騙して追い返そうと思える程度には自分も図太くなれたようだ。

「……嘘じゃないでしょうね」
「確かにわたしは龍宮洞を逃げたいと常々思ってたけど、桃瀬家に戻りたいと思ったことは一度だってない」
「…………信じるわよ」

 互いに真剣な眼差しで小声の遣り取りの末に、瑠璃茉莉は透子を解放した。草薙が引き止めていた絢乃に歩み寄り、透子は短く詫びる。

「ごめんなさい、行きましょう。道なら、多分大丈夫」

 空模様は、雨や雪がいつ降り出してもおかしくない曇天。木々が無縫に生い茂る森の中はひときわ暗いだろう。仙界と人界が繋がりやすい条件は充分満たしている。一度だけ辿り着いた川岸への道を、透子は忘れていなかった。

「心配ならオレが送ろうか」
「結構よ、久々の従姉妹同士の語らいを邪魔なさらないでいただきたいわね」

 土壇場で透子だけ連れ帰るつもりだろう草薙の申し出を、それを先読みらしき絢乃がぴしゃりと跳ね除ける。瑠璃茉莉に透子の意図を耳打ちされ、草薙もそれ以上食い下がることをやめた。

「仙人様、従妹がお世話になりました」
「本当に助かりましたわ。ありがとうございます」

 四阿で様子を見守っていた景雲に、従姉妹揃って頭を下げる。草薙が外門を開け、透子は四ヶ月ぶりに龍宮洞を出た。

 精彩を欠いた枝の下の小道を並んで歩きながら、絢乃は透子の話を根掘り葉掘り聞きたがったが、瑠璃茉莉のように手を繋ごうとはしてこず、透子には好都合だった。先に絢乃だけ境の橋を渡らせてしまえば、透子はそのまま引き返せる。

「それにしても、随分と上等な着物ね。いい暮らしをさせてもらってたみたいじゃない」
「ええ……」
「それを捨てて帰る気になってくれて嬉しいわ」

 周囲の耳目がなくなった途端、絢乃の声は微かな棘を含むようになった。やはり従妹には一人で帰ってもらおう、と牡丹尽くしの袷の下で透子は決意を固める。

 失ってしまった家族を、別の形でも構わないからもう一度築きたいと期待したことはあった。そんな透子を先に拒んだのは桃瀬家のほうだ。だから透子も二度と、叔父や従妹にそれを望もうと思わない。

 微妙な剣呑さを孕んだまま、二人は橋のかかる川に辿り着いた。世界が切り替わる証のように、橋の向こうの木漏れ日は明るい。

「……この橋を渡れば人界です。お先にどうぞ」
「あら、別に充分二人一緒に渡れるじゃないの。……もしかして、あたくしだけ帰すつもりかしら?」

 先に絢乃を促す透子に、絢乃は冷ややかに目を細めた。やはり口先だけで仙女を欺くのは難しい。

「どうして? あたくし知っていてよ、あの龍は透子さんを食べるために連れ去ったってこと。それを助けてあげようって言うのに、どうしてそんな頑ななの」
「……人界に戻ったところで、これがある限りわたしの居所は筒抜けです。桃瀬家にもまた迷惑がかかるでしょう」

 前髪を上げて額の鱗を示した透子を絢乃は笑い飛ばす。

「そんなものどうとでもなるわ。あたくしを誰だと思っているの」
「いくら絢乃様でも敵う相手ではありません。……絢乃様こそ、どうしてそこまでわたしにこだわるんですか」
「つべこべ言わずに、透子さんはわたしの言うことに従えばいいのよ!」

 一歩も譲らない姿勢の透子に、ついに絢乃が高飛車に言い放つ。化けの皮が剥がれた従妹に、今も反射的に身が竦む思いを感じながらも、やはり兄妹だ、と透子は思った。伊織も絢乃も、偽装が粗く、詰めが甘い。

 絢乃が透子を求める理由が親族としての情ではないとしたら、と目まぐるしく考え、透子ははっと思い至る。仙女を自称する絢乃の通力は年々弱まりつつある。そして透子は、食べた者を登仙させる霊力を秘めた仙果の化身。

 透子は身が総毛立つのを感じた。

(絢乃様は、仙果(わたし)を食べて本物の仙女になろうと……?)

 人倫に悖る行為にまで及ばずとも、桃姑の血や涙の一滴で絢乃の通力は回復する。従妹ではなく仙女として、桃姑としての透子を求めていると考えれば、絢乃の必死さも腑に落ちた。

 考えに耽っていた透子の手首を、絢乃が荒々しく掴む。そこに漲っている力は、従姉を案じる心ではなく己の欲望だ。

「早く行くわよ、これ以上あたくしの手を煩わせないでちょうだい」
「っ、嫌です! 絶対にいや!」
「……!」

 多分、透子が明確に絢乃に逆らったのはこれが初めてだった。絢乃の目が憤怒に見開かれる。

「『蟲喰い』の分際で偉そうに……!」
「……っ」

 手首に爪が食い込んで透子は顔をしかめたが、前言撤回しようとは思わなかった。もう「蟲喰い」ではない自分が、従妹の言いなりになる理由は何ひとつない。あと十年持たない命でも、血も涙さえも、絢乃に捧げようとは思わない。

 絢乃だけではない。誰にも捧げたくない。奪われたくない。────唯だ一人を除いて。

(どうせ死ぬなら────)

 その言葉の先に、ようやく指が届きそうになる。

 膠着に痺れを切らした絢乃が甲高く叫んだ。

「仕方がないわ。────道君(どうくん)、お願いします!」
「!?」

 金切り声に応じるように、絢乃の捩梅の袂から蜥蜴が落ちた。瞬く間に胴が伸び、橋の麓で争う二人の足下を円く囲もうとする。

 勝ち誇った絢乃の笑みに、透子はかつての警告を思い出して戦慄する。

『────それと、常人が五体満足で通り抜けられる保証はない』
「絢乃様、だめ! この術は、っ」

 透子が言い終える前に、蜥蜴は己の尾を噛んで環を完成させた。瞬間、踏ん張る地面が消失し、二人は成す術なく墜落する。

 だが、落下は思ったほど長いものではなく、体感は数秒にも満たなかった。右半身を強かに打ちつけ、透子は墜落の終わりを認識する。

 透子と絢乃が落ちてきたのは、どこかの屋敷の板張りの間だった。睡蓮の浮かぶ広大な池を擁する庭は静閑で、どことなく龍宮洞の寝殿と似ているが、透子は昔習った「寝殿造」という言葉を思い出した。

「……ほう、さすがは仙果と仙木の一族、人の形をしたまま鱗環を通り抜けられたか」

 御簾の上がった母屋から、感心したような男の声が上がる。

 透子は落下の拍子に絢乃から解放された左手首の先に激痛を覚え、見下ろしてそれが錯覚ではないことを知る。

 左手の中指と薬指は、爪が剥がれて血に赤く染まっていた。

「────ッ!」

 咄嗟に右手で患部を押さえて絢乃の姿を探し、階の幅ほどの間を空けて隣に蹲るその様子に仰天する。

 透子に比べれば、絢乃は無傷と言えた。────但し、その頭は僅か数本を残して髪が抜け落ちている。

 絢乃もすぐに違和感に気づき、肌の色が露わになった頭に両手で触れて絶叫した。

「あ……あ、いやああああああッ!」

 喉も裂けんばかりの狂乱に耳を貸さず、ゆったりとした足取りで母屋を出た男は、透子の前に膝をついて視線を合わせる。白殺しの小袖に紺鼠の袴を纏う、目の覚めるような美形だ。初めて見る顔なのに、透子は既視感を覚えた。龍の棲まう清閑な淵を思わせる、その瞳の蒼。

 式鬼を双肩に従えた男は見覚えのある群青の双眸を細め、透子が脳裏に描いた者よりもやや甘さを帯びた声で告げた。

「天祐峰翠蓮洞(すいれんどう)へようこそ。歓迎しよう、仙果の娘」