明日には再建の終わった屋敷に戻れるというのに、絢乃の苛立ちは収まらなかった。

 それは昨日今日の話ではない。もう半年以上────屋敷が炎上したあの夜以降ずっと、絢乃の機嫌は最悪に近かった。

 先祖伝来の屋敷は焼失し、気に入りの着物や簪はおろか、既に桃瀬家にしか現存しなかったであろう貴重な書物宝物も、悉く灰燼に帰した。焼け出された一家は里人の家のひとつを仮住まいとして借り上げ、もとの住人たちはその間、親戚の家に身を寄せることになった。当然、桃瀬家ほど広い家ではないので、奉公人たちは自宅から通いで一家の世話に来ている。

 そして、女中が土間で夕餉の支度に取り掛かり、父と兄が新しい屋敷の見分に行って母は寝室で臥せている黄昏、隙間風の忍び込む居間には絢乃一人だった。

 里人たちの寄進や五十嵐子爵家からの援助もあって、屋敷の再建は滞りなく進んだ。だが七月をとうに過ぎてなお、絢乃の身は旧都の子爵邸ではなく山里の借家にある。延期された祝言の日取りの目処は立たず、婚約者が見舞いに来てくれたこともない。

 ……祝言どころか、このまま婚約破棄となるのではないか。支援金は結納金ではなく手切れ金、そんな被害妄想さえ浮かんでくるほど、桃瀬家の惨状は目を覆うものがあった。

 屋敷が建て直されても、すべてが元通りになるわけではない。失われた古書や宝具は戻らず、懐具合も淋しくなった。父は老け込み母は病みつき、兄も窶れた。往時の威厳を保っているのは絢乃だけという体たらくだ。

(お兄様も案外、不甲斐ない)

 物好きにも、兄だけは「蟲喰い」の従姉に何くれと心を砕いていたが、同時に、周囲の悪意から従姉を守ろうとはしなかった。その半端な親切が、孤立を深めさせ自分に依存させる計略だとしたら大した策士だが、どうやら買い被りだったらしい。その従姉を眼前で攫われた今は完全に意気消沈していて、あれで名門桃瀬家の次期当主が務まるのか甚だ不安になる。

 そして何より、従姉を攫った者こそがすべての元凶。

 たびたび龍神と縁を結んだ桃瀬家の上空に突如現れた五本爪の龍を、奉公人たち以外にも、雷震によって目を覚ました幾人かが目撃していた。それだけなら吉兆とも見做せたが、王龍は雷槌(いかづち)を落とし屋敷を焼き尽くした。龍の逆鱗に触れたのだ、という噂は密やかに、だが速やかに里じゅうに蔓延した。

 怒りを買った理由を、「蟲喰い」などという忌まわしい娘を置いていたため、と触れ回ることで事態の沈静化を図ってはいるものの、それが欺瞞であることを、絢乃が誰より知っている。

(何故仙龍様は、あたくしではなく「蟲喰い」なんかを……)

 由緒ある桃瀬家を軽蔑し、仙女たる絢乃を軽視した蒼の眼差しは、生まれからして祝福されない従姉にだけ慈愛を注いでいた。殺めるためではなく愛でるため、仙龍は従姉を攫っていったのだ。今頃は金の宮殿に起居して銀の食器で飽食するような、贅の限りを尽くした日々を送っているに違いない。……絢乃はこんな、侘しい仮住まいを強いられていると言うのに。

 噂は恐らく、名代として遣わされた使者を通じて子爵家にも伝わっている。龍神に選ばれなかった娘。絢乃が仙女の肩書きを失ってしまえば、京人にとっては多少見映えがいいだけの鄙女、嫁に迎える価値などない。

(あたくしたちの生活を奪っておいて、自分だけいい暮らしをしているなんて許せない)

 この憎しみは、再建した屋敷に戻ったところで消えることはないだろう。

 障子の向こうに気配を感じ、父たちの帰宅だろうかと、庭とも呼べない庭に戸を開け放つ。絢乃の勘は、半分当たっていて、半分外れていた。

「……どなた?」

 宵のとば口と共に訪れたのは、羽織姿の見知らぬ青年だった。近隣の里の者では絶対にない。これほど洗練された佇まいの者は、京ですらお目にかかったことはなかった。

 だがその双眸の色に既視感を覚え、未だ仙女としての霊眼を失ってはいない絢乃は半ば無意識に呟く。

「仙龍様……?」

 散切りよりもやや毛足の長い青年は絢乃の問いかけには答えず、ただ少し、端整な口許を緩めた。

「入っても?」
「……ええ、どうぞ」

 この僅かな遣り取りで、気圧されながらも絢乃は確信した。人ならぬ存在は本来、住人の招きがなければ境界を踏み越えられない。ただそれは物理と言うより心理や倫理の結界であるため、無理に押し入ることもできなくはないが、高位の者ほどきちんと礼節を遵守した。

 明日までの間借り人とは言え住人の許可を得て、青年の身形をした龍は貧相な庭を通り縁側に腰を下ろした。土間の女中が来訪者に気づいた様子はない。絢乃も隣に正座すると、彼はにこりと破顔して話しかけてくる。

「君はあの娘の縁者だろう?」

 あの娘、が誰を示すのか、問い返すまでもなかった。生半可な華族よりも高貴な容姿に見惚れていた絢乃の声に棘が混じる。

「……あなたも透子さんを知っているんですか」

 険のある響きに、彼はほんの僅か意外そうに瞬いたあと、もう一度微笑を浮かべた。柔らかそうに揺れる髪は、枝垂れる柳の葉を思わせる。

「知っているさ。多分、君よりも」
「…………どういうことです?」

 勿体つけた言い回しに、絢乃は自分が彼の話術に陥りつつあることを自覚しながらも、尋ねずにはいられなかった。不義の娘、それゆえ「蟲喰い」の業を背負った従姉。彼女に、それ以上の肩書きがあると言うのか。

 彼は聞き惚れるような声で明かした。

「彼女は桃姑。不老長寿や治癒延命をもたらす仙果の化身だ。その比類なき美味を求めて、兄は彼女を連れ去った」
「な……」

 絢乃は二の句を継げなかった。仙桃の逸話は当然知っていたが、それが人の形をしていることは初耳だった。彼以外の者が口にした言葉であれば、到底信じられなかっただろうし、彼の口から語られてなお、あの従姉がそれほど貴重な存在であるということは認めがたかった。

 だが、従姉を攫った仙龍を「兄」と呼び、その仙龍と同じ瞳を持つ者の言葉は疑いようがなかった。

 それに、明かされた事実は突拍子もないことながら、絢乃の嗜虐心を幾らか満足させた。

「…………では、透子さんはあの龍神に食べられてしまったのですね。可哀そうな透子さん……」

 絢乃は沈痛な面持ちで口許を抑えたが、掌の下の唇は下向きの弧を描いていた。仙龍は珍味として従姉を求めたに過ぎなかったのだ。その結末を絢乃は密かに歓迎したものの、話はまだ終わりではなかった。

「それが、そうでもない」
「え?」

 嘘泣きを止めて顔を上げた絢乃の眼前に、弟龍は一枚の青葉を差し出した。正月も見え始めた時期だと言うのに、瑞々しい色を保っている。

「目を伏せて、これを額に翳してみるといい」

 狐狸の幻術のようだが、絢乃は半信半疑ながらその言葉に従った。

 途端に、瞼の裏の闇が払われ、鮮やかな景色が浮かぶ。

「……!」

 そこは、見知らぬ森の中だった。目の前に川が流れ、対岸のほとりに和風の建物がある。川に面した座敷は全開で、室内にはふたつの人影。そのどちらにも、絢乃は見覚えがあった。

(透子さん……!?)

 人影は男と女で、女は「蟲喰い」の従姉、男はその従姉を欲した仙龍の化身だった。

 音や匂いは感じられないものの、葉の色や陽射しの明るさを鑑みるに、これは今現在の光景ではない。おそらく、この青葉を繁らせていた樹の記憶のひとつだ。

 その記憶の中で、二人は共に食事をしていた。ただ食膳を並べているだけではない、どちらも和やかな表情で、とても仲睦まじげに。会話が弾み、また沈黙さえ苦にならない様子が、声が聞こえずとも手に取るように窺えた。

 一人前では物足りなかったのか、仙龍が従姉の膳に箸を伸ばし、一口大の芋餅を失敬する。だが、身の程知らずにも従姉がそれに抗議の意を示した。仙龍は箸の動きを止めたが、ニヤリと笑うと、従姉の膳ではなく従姉の口許に芋餅を差し出した。意図を悟って従姉が顔を赤らめたが、笑みを浮かべた仙龍はその反応すら愉しんでいる。

 十数秒で観念した従姉は、また畏れ多いことに、仙龍の箸から直接芋餅をいただいた。平常心を装って咀嚼し嚥下する従姉を、仙龍は蒼い眼差しで満足そうに見つめる。幼児の世話か犬猫の餌付けのようだと言われればそうなのだが、二人の間には、そんな微笑ましさよりも艶めかしさを感じた。

 山里では蟲まみれで息を殺して生きていた従姉が、一瞬見違えるほどの華やぎと朗らかさを身に備えていたことも一因だろう。食べられるどころか、めいっぱい大切にされている証だ。

「……ッ!」

 瞼の裏に突きつけられた現実を否定するように、絢乃は青葉を握り潰して双眸を見開いた。乾いた音と共に、青葉は朽葉と化してぱらぱらと崩れる。

 絢乃の憤懣を見遣り、弟龍は言う。

「見てのとおり彼女は健在だ。もう充分に食べ頃だと言うのに、勿体ないとは思わないか?」
「勿体ない?」
「仙果は食べられるために生み出された存在だ。旬のうちに美味しく食べてこそだろう」
「……つまり、あなた様も透子さん、いえ仙果を召し上がりたいのですね」

 従姉は呪われた「蟲喰い」でも、最低限、人ではあると思っていた。だから最初はピンと来なかったものの、仙桃と見做せば彼の言わんとすることは絢乃にも飲み込めた。二人の龍神に求められる立場も、「女」であれば凄まじい嫉妬に駆られただろうが、「果実」ならば笑って高みの見物を決め込める。兄弟どちらでもいいから、さっさと喰われてしまえばいい。

 理解の早い絢乃に弟龍は典麗な笑みを浮かべる。深く蒼い双眸は、絢乃の泣き真似などたやすく見透かしているのだろう。絢乃も今更、取り繕おうとは思わない。

「そこで君に頼みがある。彼女を兄の洞府から連れ出してほしい」
「でも、どうやって……?」
「段取りはこちらで整える。君は言葉巧みに、彼女を人界に連れ帰ってくれればいい」

 そして彼は、絢乃に助力を乞う理由を語った。兄の仙龍は鱗族の頂点に君臨していて、弟の自分は既に警戒されていること。洞府の様子を探ることさえ、兄の鼻が鈍る季節、兄の不在の隙を衝き、分身の式鬼ではなく眷属を潜り込ませて木の葉を持ち帰るのが精一杯だったこと。誘拐ではなく自らの意思で去ったのであれば、こちらに疑惑は向きにくいであろうこと。

 話を聞きながら、絢乃は既に心を決めていた。「頼みがある」と見目麗しい龍神に必要とされることは、数百人の泥臭い里人たちに崇拝されるよりも遥かに自尊心を満たした。

「────それに、これは君にも益のある話だと思う」
「え? ……っ」

 弟龍は、結びの意外な一言に呆気にとられた絢乃の耳許に鼻を寄せ、絢乃が恥じらいを覚えたところで身を離して告げる。

「君の通力は二十歳になる頃には尽きるだろう。……このままではな」
「! そんなっ……」

 目を逸らし続けてきた危惧を冷徹に明言され、絢乃は従姉のことも忘れて取り乱した。仙女であることが絢乃の誇り、絢乃のすべてであった。それを失って、どうやって生きていけばいい。

 絶望に叩き落された絢乃を、叩き落した張本人がこともなげに救い上げる。

「だか仙果を食せば登仙できる。さすがに食むことに抵抗があるのなら、血や涙を呑むだけでも通力の維持は可能だ」
「────……っ」

 見物人から当事者に引きずり下ろされ、絢乃は猛烈な吐き気を覚えた。仙果である従姉が龍神に喰われる姿は笑って眺められても、自分がとなれば話は別だ。本能的な拒否感と嫌悪感が胃の腑から込み上げる。

 目眩さえ感じ始めた絢乃の決断を促すように、弟龍は優雅な動作で立ち上がる。見限られる、と焦った絢乃は、嘔気を堪えて腰を浮かせた。

「っ、お待ちください……っ」

 弟龍は立ち去ろうとはせず、絢乃を振り返って優しげでさえある微笑を浮かべる。

「じっくり検討してくれ。私も、すぐに事を構えるつもりはない。立春の頃、返事を聞きに来よう」
「……何故、その時期に?」
「私たちは冬が苦手なんだ。だが兄だけは例外でな。それに、年始の挨拶で例年どおりの振る舞いを見せれば、兄も私への警戒を緩めるだろう」

 冬は山眠る冬眠の季節である一方、五行は水気、次なる山笑う春の木気とは相生の関係になる。そして同じ気の重なる比和は力を強めもするが、逆に悪いことが重なる結果にもなりかねない諸刃の剣であった。

 仙界の年明けが人界の旧正月であれば、人界の年明けとは一月ほどのタイムラグがある。……既に仙界と人界は、異なる時間を刻み始めているのだ。

「色よい返事を期待している」 

 そう話を締め括ろうとした弟龍に、絢乃は思いきって尋ねた。

「……あのっ。もし、あたくしが正真正銘の仙女になれれば、あたくしをあなた様の花嫁にしていただけますか?」

 それは余程意外な願いだったのか、弟龍は涼やかな印象の目許を丸くした。女人の美徳とされる奥ゆかしさとは正反対の積極性に、彼は実に面白そうに笑う。

「検討する価値はあるな」
「……!」

 この瞬間、自分が一線を踏み越える寸前に爪先を置いたことを絢乃は自覚した。幼い頃に夢見た龍神の花嫁になれるのであれば、子爵夫人の座など惜しくはない。あとは、仙女であり続けるために、人として戻れない道に踏み込む覚悟を決めるだけだ。

「ではまた、年明けに」
「お待ちしておりますわ」

 恭しくその背中を見送ってから、絢乃は彼の名を聞いていないこと、彼に名を訊かれなかったことに気がついた。


 これが、冬立つ日から半月余りを過ぎた逢魔が刻の出来事であった。

 その後、春立つ日を迎えて間もなく、桃瀬の仙女は里から姿を消した。