その翌朝も、払暁を待たずに透子は森を走っていた。普段黙認していた瑠璃茉莉も今朝ばかりは阻もうとしたが、「薄氷様が来る前に戻ってくるから!」と言い捨てて強引に出てきたのだ。
だが本来、それも奇妙な話で、透子は仙界から逃げ出すために走り続けているはずだった。今の仙界と人界は常人が望んで渡れる距離ではなく、祈るだけで何かが変わる時代でもないのに、朝が近づくたびに、今日こそはと願わずにはいられない。
そして今朝は、ひときわその思いが強かった。もう監視がどうとか悠長なことは言っていられない、とにかくこれ以上、鱗王の傍にはいたくなかった。
昨日はこの分岐を右に曲がった、だから今日は左に曲がってみる。そんな試行錯誤の繰り返しを幾度積み重ねれば、求める場所に辿り着けるのか。正しい道を見つけるよりも、十八歳になる日が来るほうが早いのではないか。そんな弱音が脳裏を掠めたことも数知れない。
けれど。
選んだ道の先に、暁闇の底を流れる川と架かる橋を見つけ、透子は足を止める。常にせせらぎが聞こえるにも関わらず、森の中で川を見たのはこれが初めてだった。
「…………」
神妙な足取りで橋に近づく。緩い弧を描く太鼓橋。水の流れはそれほど早くはなく、川幅も水深も、大河どころか小川と呼んでも差し支えない程度のものだ。
橋の向こう側にも森が延々と続いていて、終わりは見えない。
だが、瑠璃茉莉も言っていたし、図書殿の古書にも記載があった。川は境界であり結界、橋は此岸と彼岸……異界同士を繋ぐもの。
きっとこの橋こそが、四ヶ月間、透子が探し続けた場所。この橋を渡れば人界に逃げ込める。やっと、ようやく、戻れるのだ。
期待に胸を躍らせながら足を踏み出して、────あと一歩で橋板に足がかかるというところで動きが止まる。いざ逃げられるとなった途端、思いがけない囁きが胸の中心を貫いた。
人界へ逃げて────何処へ行けばいいのだろう。桃瀬家には絶対に戻りたくない。頼れる親族はなく、小学校時代の恩師や友人たちともとうに縁が切れている。学も伝手もない娘一人、身ひとつで人界に戻ったところで、その先にはまた別の地獄が待ち構えているとしか思えなかった。
その地獄に耐えたところで、残る寿命は長くて十年。そこまでして生にしがみつく価値を、透子はその十年に見出せるのか。
まだ死にたくない、と願い続けた心が、どうせ死ぬのなら、と反転しそうになって激しく動揺する。そんな厭世的な考えかたはするべきではない。
もう前にも後ろにも動けなくなってしまった透子を、不意に、裏柳色の袖が背後から包み込んだ。────今まで毎朝、透子を捕らえてきた力強い腕。
「────!」
舌まで凍りついた透子の耳に、夜明け前の風に攫われてしまいそうな声が落ちてくる。
「……行くな。頼む」
「…………っ」
常に精気に満ち溢れた薄氷の、これほど弱々しい声を、透子は初めて聞いた。項垂れるように頭に頬を寄せられると、龍の尾のようにしなやかなはずの髪が、千々に乱れて透子の肩にも流れ落ちる。裏柳の袖は夜着のままで、視線を落とすと草履さえ履いていない。いつもは、着の身着のまま逃げ出そうとする透子を、完全に身支度を整える余裕すら持って迎えに来るのに。そのなりふり構わない格好こそ、この橋の向こうが人界であることの何よりの証明だった。
従兄の懇請はたやすく振り払えたのに、昨日あれほど恐ろしい思いをしたばかりなのに、鱗王の言葉は、どうしてか透子の胸を切なく震わせた。
「逃げないでくれ。逃げたら俺は、おまえを喰わなければならなくなる」
残酷な言葉と裏腹に、透子を抱き締める腕は微かに震え、捕らえると言うより縋りつくような有様だった。掠れた哀願の声に、透子は己の勘違いを悟る。
薄氷が透子に森へ出ることを許したのは、どうせ逃げられないし、万一逃げたところで居場所は把握できると高を括っていたからではない。逃がすくらいなら捕らえたその場で喰ってしまえばいいと、そう思っていたからだ。十八歳まで一年を切った。もう既に、早生の仙果として食べ頃になっているのだろう。
だが今の薄氷は、それを望んでいないようだった。哀切な言葉は、まだ食べたくはない────失いたくはない、だから逃げないでほしい、と逆説的に懇願しているように聞こえた。……或いは、そうであってほしいと、愚かにも透子自身が願っているだけかもしれない。
「…………」
透子は無言で、回された精悍な腕に己の掌を添えた。その感触にぴくりと反応した薄氷に背を向けたまま、透子は薄く開いた唇から軽やかに言葉を紡ぐ。
「……どこへ逃げると言うのでしょう。わたしにはもう、帰る場所なんてありません」
自嘲の響きに、微かに笑う気配がした。
「だが帰りを待つ者はいるだろう」
裏柳の袖をほどき、薄氷は後ろを振り返るよう透子を促す。漂う朝靄の向こうから、焦燥を浮かべた瑠璃茉莉が駆けつけてきた。多分、薄氷が透子を追ったことを嗅ぎ取って迎えに来たのだろう。二人が橋の袂に佇んでいることを見て、更に血相を変える。
「トーコ! だから言ったじゃないの!」
失礼します、と律儀に師父に断りを入れた上で、瑠璃茉莉は薄氷から透子を引き剥がした。おそらく彼女も、桃姑が逃げた場合、鱗王が十八歳を待たないことを察していて、それを思いとどまらせることも自分の役目のひとつだと思っていたようだ。
「ごめんね」
透子が短く謝ると、瑠璃茉莉はやや尖った、しかし陰険さとは無縁の口調で言い返す。
「早く帰りましょ。ナギが朝ごはん用意してくれるから」
桃瀬家で、透子は「蟲喰い」として目障りだと罵られ続けてきた。けれど龍宮洞は仙果を、ここに居ていい、居てほしいと迎え入れてくれる。
するりと指に指を絡められ、透子は瑠璃茉莉に手を引かれて龍宮洞への道を戻り始めた。しばらくは見送る視線を背中に感じていたが、程なく気配が消える。蒼の視線の主は、別の道で帰途に着いたのだと思われた。
そしてこの朝を最後に、透子は黎明の森に出ることをやめた。
だが本来、それも奇妙な話で、透子は仙界から逃げ出すために走り続けているはずだった。今の仙界と人界は常人が望んで渡れる距離ではなく、祈るだけで何かが変わる時代でもないのに、朝が近づくたびに、今日こそはと願わずにはいられない。
そして今朝は、ひときわその思いが強かった。もう監視がどうとか悠長なことは言っていられない、とにかくこれ以上、鱗王の傍にはいたくなかった。
昨日はこの分岐を右に曲がった、だから今日は左に曲がってみる。そんな試行錯誤の繰り返しを幾度積み重ねれば、求める場所に辿り着けるのか。正しい道を見つけるよりも、十八歳になる日が来るほうが早いのではないか。そんな弱音が脳裏を掠めたことも数知れない。
けれど。
選んだ道の先に、暁闇の底を流れる川と架かる橋を見つけ、透子は足を止める。常にせせらぎが聞こえるにも関わらず、森の中で川を見たのはこれが初めてだった。
「…………」
神妙な足取りで橋に近づく。緩い弧を描く太鼓橋。水の流れはそれほど早くはなく、川幅も水深も、大河どころか小川と呼んでも差し支えない程度のものだ。
橋の向こう側にも森が延々と続いていて、終わりは見えない。
だが、瑠璃茉莉も言っていたし、図書殿の古書にも記載があった。川は境界であり結界、橋は此岸と彼岸……異界同士を繋ぐもの。
きっとこの橋こそが、四ヶ月間、透子が探し続けた場所。この橋を渡れば人界に逃げ込める。やっと、ようやく、戻れるのだ。
期待に胸を躍らせながら足を踏み出して、────あと一歩で橋板に足がかかるというところで動きが止まる。いざ逃げられるとなった途端、思いがけない囁きが胸の中心を貫いた。
人界へ逃げて────何処へ行けばいいのだろう。桃瀬家には絶対に戻りたくない。頼れる親族はなく、小学校時代の恩師や友人たちともとうに縁が切れている。学も伝手もない娘一人、身ひとつで人界に戻ったところで、その先にはまた別の地獄が待ち構えているとしか思えなかった。
その地獄に耐えたところで、残る寿命は長くて十年。そこまでして生にしがみつく価値を、透子はその十年に見出せるのか。
まだ死にたくない、と願い続けた心が、どうせ死ぬのなら、と反転しそうになって激しく動揺する。そんな厭世的な考えかたはするべきではない。
もう前にも後ろにも動けなくなってしまった透子を、不意に、裏柳色の袖が背後から包み込んだ。────今まで毎朝、透子を捕らえてきた力強い腕。
「────!」
舌まで凍りついた透子の耳に、夜明け前の風に攫われてしまいそうな声が落ちてくる。
「……行くな。頼む」
「…………っ」
常に精気に満ち溢れた薄氷の、これほど弱々しい声を、透子は初めて聞いた。項垂れるように頭に頬を寄せられると、龍の尾のようにしなやかなはずの髪が、千々に乱れて透子の肩にも流れ落ちる。裏柳の袖は夜着のままで、視線を落とすと草履さえ履いていない。いつもは、着の身着のまま逃げ出そうとする透子を、完全に身支度を整える余裕すら持って迎えに来るのに。そのなりふり構わない格好こそ、この橋の向こうが人界であることの何よりの証明だった。
従兄の懇請はたやすく振り払えたのに、昨日あれほど恐ろしい思いをしたばかりなのに、鱗王の言葉は、どうしてか透子の胸を切なく震わせた。
「逃げないでくれ。逃げたら俺は、おまえを喰わなければならなくなる」
残酷な言葉と裏腹に、透子を抱き締める腕は微かに震え、捕らえると言うより縋りつくような有様だった。掠れた哀願の声に、透子は己の勘違いを悟る。
薄氷が透子に森へ出ることを許したのは、どうせ逃げられないし、万一逃げたところで居場所は把握できると高を括っていたからではない。逃がすくらいなら捕らえたその場で喰ってしまえばいいと、そう思っていたからだ。十八歳まで一年を切った。もう既に、早生の仙果として食べ頃になっているのだろう。
だが今の薄氷は、それを望んでいないようだった。哀切な言葉は、まだ食べたくはない────失いたくはない、だから逃げないでほしい、と逆説的に懇願しているように聞こえた。……或いは、そうであってほしいと、愚かにも透子自身が願っているだけかもしれない。
「…………」
透子は無言で、回された精悍な腕に己の掌を添えた。その感触にぴくりと反応した薄氷に背を向けたまま、透子は薄く開いた唇から軽やかに言葉を紡ぐ。
「……どこへ逃げると言うのでしょう。わたしにはもう、帰る場所なんてありません」
自嘲の響きに、微かに笑う気配がした。
「だが帰りを待つ者はいるだろう」
裏柳の袖をほどき、薄氷は後ろを振り返るよう透子を促す。漂う朝靄の向こうから、焦燥を浮かべた瑠璃茉莉が駆けつけてきた。多分、薄氷が透子を追ったことを嗅ぎ取って迎えに来たのだろう。二人が橋の袂に佇んでいることを見て、更に血相を変える。
「トーコ! だから言ったじゃないの!」
失礼します、と律儀に師父に断りを入れた上で、瑠璃茉莉は薄氷から透子を引き剥がした。おそらく彼女も、桃姑が逃げた場合、鱗王が十八歳を待たないことを察していて、それを思いとどまらせることも自分の役目のひとつだと思っていたようだ。
「ごめんね」
透子が短く謝ると、瑠璃茉莉はやや尖った、しかし陰険さとは無縁の口調で言い返す。
「早く帰りましょ。ナギが朝ごはん用意してくれるから」
桃瀬家で、透子は「蟲喰い」として目障りだと罵られ続けてきた。けれど龍宮洞は仙果を、ここに居ていい、居てほしいと迎え入れてくれる。
するりと指に指を絡められ、透子は瑠璃茉莉に手を引かれて龍宮洞への道を戻り始めた。しばらくは見送る視線を背中に感じていたが、程なく気配が消える。蒼の視線の主は、別の道で帰途に着いたのだと思われた。
そしてこの朝を最後に、透子は黎明の森に出ることをやめた。



