一方、急き立てられるように渓谷へ逆戻りした透子は、瑠璃茉莉によって寝所の小上がりに座らされた。今更のように震えと涙が込み上げてくる。
「…………っ」
俯いて唇を噛み、嗚咽を堪えるその視界に、畳んだ手巾がすっと差し出される。透子が顔を上げて潤んだ目で「ありがとう」と言う前に、視線を合わせず瑠璃茉莉が早口で告げた。
「ごめん、本っ当ごめん! アタシ上にいるから、落ち着いたら呼んで。着替え手伝うから。でも今はごめん!」
手巾を手渡すというよりも膝に放り投げ、何度も謝りながら瑠璃茉莉は寝所を半ば駆け足で出て行った。いつもの彼女らしくない忙しない足音が、逃げるように階段を踏み鳴らして駆け上がっていく。
膝に落ちた手巾を握り締め、透子はぼろぼろと涙をこぼす。か細い泣き声が寝所の空気を頼りなく震わせた。
怖かった。とてつもなく怖かった。いつも一途で、時にからかい混じりの不敵な眼差しを向けてくる蒼は、あの瞬間、間違いなく被食者を狙う捕食者の目をしていた。
解っていたことだ。薄氷にとって透子は桃姑、些か過剰にも感じられる愛情は、獲物に対する執着でしかない。解っていたはずなのに、食事を共にして、言葉を交わし、隣を歩いて勘違いしそうになっていた。
ここは極楽の顔をしているから錯覚しそうになるけれど、結局のところ、透子は地獄の一丁目から三丁目に引っ越して来たに過ぎない。
目許を押さえた手巾がみるみる湿り気を帯びる。仙果はその身だけでなく、血や涙も絶世の甘露だと言う。普段自律している瑠璃茉莉も、同時に溢れた濃厚なその匂いに抗いきれる自信がないから、透子の心細さを知ってなお距離を置くほかなかったのだろう。龍宮洞でいちばん親しい彼女さえ、透子を桃姑としか見ていない。
それでも任務に忠実な彼女は、「十八歳になるまで桃姑を育て上げる」という師父の命令に従い、敢然と鱗王を怒鳴りつけて十七歳の桃姑を守った。感謝してもしきれない。彼女が身を挺してくれなければ、透子の命日は十八歳を待たずに今日となっていた。
涙を拭って洟を啜り、噛み付かれた首筋を指先でなぞる。血が止まり傷が癒えてなお、恐怖と痛みは消えない。だがそれこそが何よりの戒めなのだ。自分の立場を忘れるな、逃げなければ喰われるだけだ、と。
薄氷は仙龍で、捕食者。透子は仙果で、被食者。いくら笑顔や心を通わせても、互いの本性は微塵も揺らがない。
その非情な事実が何より悲しくて、透子は再び涙をこぼして咽び泣いた。
「…………っ」
俯いて唇を噛み、嗚咽を堪えるその視界に、畳んだ手巾がすっと差し出される。透子が顔を上げて潤んだ目で「ありがとう」と言う前に、視線を合わせず瑠璃茉莉が早口で告げた。
「ごめん、本っ当ごめん! アタシ上にいるから、落ち着いたら呼んで。着替え手伝うから。でも今はごめん!」
手巾を手渡すというよりも膝に放り投げ、何度も謝りながら瑠璃茉莉は寝所を半ば駆け足で出て行った。いつもの彼女らしくない忙しない足音が、逃げるように階段を踏み鳴らして駆け上がっていく。
膝に落ちた手巾を握り締め、透子はぼろぼろと涙をこぼす。か細い泣き声が寝所の空気を頼りなく震わせた。
怖かった。とてつもなく怖かった。いつも一途で、時にからかい混じりの不敵な眼差しを向けてくる蒼は、あの瞬間、間違いなく被食者を狙う捕食者の目をしていた。
解っていたことだ。薄氷にとって透子は桃姑、些か過剰にも感じられる愛情は、獲物に対する執着でしかない。解っていたはずなのに、食事を共にして、言葉を交わし、隣を歩いて勘違いしそうになっていた。
ここは極楽の顔をしているから錯覚しそうになるけれど、結局のところ、透子は地獄の一丁目から三丁目に引っ越して来たに過ぎない。
目許を押さえた手巾がみるみる湿り気を帯びる。仙果はその身だけでなく、血や涙も絶世の甘露だと言う。普段自律している瑠璃茉莉も、同時に溢れた濃厚なその匂いに抗いきれる自信がないから、透子の心細さを知ってなお距離を置くほかなかったのだろう。龍宮洞でいちばん親しい彼女さえ、透子を桃姑としか見ていない。
それでも任務に忠実な彼女は、「十八歳になるまで桃姑を育て上げる」という師父の命令に従い、敢然と鱗王を怒鳴りつけて十七歳の桃姑を守った。感謝してもしきれない。彼女が身を挺してくれなければ、透子の命日は十八歳を待たずに今日となっていた。
涙を拭って洟を啜り、噛み付かれた首筋を指先でなぞる。血が止まり傷が癒えてなお、恐怖と痛みは消えない。だがそれこそが何よりの戒めなのだ。自分の立場を忘れるな、逃げなければ喰われるだけだ、と。
薄氷は仙龍で、捕食者。透子は仙果で、被食者。いくら笑顔や心を通わせても、互いの本性は微塵も揺らがない。
その非情な事実が何より悲しくて、透子は再び涙をこぼして咽び泣いた。



