それから秋分までのおよそ一ヶ月の間に二度ほど、尤もらしい理由をつけての来訪者の予告があったが、その度に薄氷は桃姑を伴って洞府を留守にした。

 うち一度は以前購入した洋装で帝都に再び赴き、桃姑の希望で活動写真とやらを観た。これほど乖離が進むと、今は偶然や強引に人界と仙界を結ぶ道も、いずれ完全に断ち切られてしまうかもしれない。珈琲とかいう黒い飲料も、桃姑は一口啜って苦味に顔をしかめたが、馥郁たる香気が薄氷は気に入った。

 だが、寒露も近づきいよいよ秋めいてきた頃、ついに懼れていた日がやって来た。

「久しぶりです、薄氷」
「……母上もお変わりなく」

 南郭の正殿、月洞門状の窓から渓谷の青葉を望む応接の間で、母子はどことなく他人行儀な挨拶を交わす。母子ではあるが、傍目にはせいぜい姉弟としか見えないだろう。

「随分と急なお越しですね。前もってご連絡いただければ、きちんとおもてなしできたのですが」
「前もって連絡を入れて訪れても、あなたはいつも所用とやらで不在でしたからね。今日はご在宅で何よりです」
「偶然ですよ。ですが、何度もご足労いただき、申し訳ございません」

 皮肉を方便で受け流し、薄氷は改めて不可避の来訪者と対峙した。

 流れるような秋草の絵羽模様を奥ゆかしく着こなす年増盛りの美女。梅林が見事な玉骨洞(ぎょっこつどう)の女洞主であり、鱗王の母でもある龍女・紫華仙姑(しかせんこ)壺菫(つぼすみれ)は、回りくどい物言いを選ばず率直に切り出した。

「仙果を養っていると聞きました。それ、譲っていただけません?」
「……!」

 危惧したとおりの母の要求に、薄氷は膝上に置いた拳を強く握り締める。平素は時候の挨拶さえ稀なくせに、梅酒だなんだと理由をつけて幾度も龍宮洞を訪ねて来た真の目的は、やはり桃姑の存在だったのだ。だからこそ薄氷は、多少の危険を承知で彼女を外に連れ出さざるを得なかった。

「……念のためお尋ねしますが、何故仙果がほしいのです?」
「だって極上の甘味と名高い娘でしょう。浅葱(あさつき)にも食べさせてあげたくて」
「ご冗談を」

 これもまた、薄氷の憂慮が的中した。一笑に付しながらも、弟を盲愛する母もそう簡単には引き下がらないだろうことは予感していた。

「浅葱は既に仙として独立し、天祐峰(てんゆうほう)に洞府を構え弟子を抱えているではありませんか。今更仙果など必要ないでしょう」
「ええ。あなたと違って、地道で正当な修行の末にね」

 壺菫の言葉にはあからさまな毒が含まれていた。薄氷とて、登仙こそ仙果の力を借りたものの、その後の修行の成果が実力として認められたからこその王位だということを、彼女は頑なに認めようとしない。

「でもそれを言うのなら、あなたにだって不要ではなくて? 類い稀な御馳走をあなたは一度味わったのだから、次は弟に譲ってやってもいいしょう」
「確かに仙果は稀代の美味ですが、別に俺が見つけた娘が唯一というわけではありません。人界にはまだほかの桃児桃姑がいるでしょう。本当に浅葱が仙果を食べたいと言うのなら、自分で探せばいい」

 何より薄氷が腹立たしいのはその点だった。麟のために仙果を欲する遷移菊でさえ、薄氷の桃姑に手を出そうとしなかったのに、どうして弟は図々しく兄のものを、しかも母を介して強請ろうとするのか。

(……いや、違うな)

 これは浅葱を偏愛する壺菫の独断だ。薄氷が仙果を食べて早々に巣立ったあと、壺菫は宙に浮いた母性の遣り場を求め、手許に残った浅葱を偏愛した。それは次第に薄氷への憎悪に育ち、浅葱が登仙するや、先代の鱗王、薄氷と同じ師に弟子入りさせた。己から離れた長男よりも、自ら育てた次男のほうが優秀だと証明したかったのだろう。やがて薄氷が王位を継いだとき、その人選に最も異議を唱えたのが実の母だということは周囲を少なからずざわつかせた。

 今回も、美味で珍しい娘を、可愛い次男ではなく可愛げのない長男が手に入れたことが面白くないのだ。だから難癖つけて薄氷から取り上げ、浅葱に与えようとしている。

 すげない薄氷の回答に、壺菫は甲高く喚く。

「なんて冷たい言い草なの! あなたは兄でしょう、弟に対する思いやりはないの!?」
「なんと言われようとお断りします。あの娘は俺のものだ。せめて浅葱本人が出向いてこなければ話にならない。来たところで気を変えるつもりはありませんが」
「……親不孝者! 冷血漢!」

 心底憎々しげな藍紫の眼差しで息子の額を突き刺し、壺菫は荒々しく座敷を出て行った。さすがに、勝手に洞内を探し回るほど愚かな母ではないと思いたいが、薄氷の胸中は穏やかではいられなかった。

 もしかしたら、母は本当に弟を唆すかもしれない。弟とは特別親密な間柄でもなければ犬猿の仲でもないが、母の欲目を抜きにしても、浅葱が薄氷に匹敵する実力者であることは事実だった。桃姑を巡って争えば、双方無事では済むまい。特に王は五行の理の影響を受けやすいため、木気の応龍である薄氷は金気の秋に弱い。以前帝都の人波で桃姑を束の間見失ったのもそれが原因だった。

(……奪われるくらいなら、いっそもう、喰ってしまうか)

 満年齢は未だ十七だが、数え年なら既に十八。仙果としてほぼ完熟に近いことは、過日の帝都の人々の反応で判った。そもそも、逃げ出したときは喰ってしまえばいいだけのことと思って、ある程度彼女を自由にさせていたのだ。草薙が滋養を、瑠璃茉莉が外見を薄氷好みに整え上げた。もう充分ではないか。

 ……そう思うのに、惜しむ気持ちが湧いて来るのは何故なのか。

 日々綺麗だ可愛いだと愛で続けた上に、名を呼ばせ、食事や行動を共にしたことで情が湧いたのだろうか。最初の桃児は一目見た瞬間、衝動的に喰らい尽くしてしまったが、仙としての理性を備えた今、すぐに食べてしまうのは勿体なく思う。けれどせっかくの、三百年ぶりの仙果だ。いちばん美味なときに食べてこそだろう。ならばやはり今少し、「ほぼ」ではなく完熟を待つべきなのか。思考が思うようにまとまらない。

 ただ、とにかく今は、無性に彼女に会いたかった。会って、柔肌に触れて匂いを嗅いで、無事を確認したかった。

 薄氷は立ち上がり、渓谷の透橋へと足早に向かう。

 だがそこで、階段を上がってきた桃姑と瑠璃茉莉に思いがけず遭遇した。

「……っ」
「薄氷様?」

 思わず立ち止まった薄氷に、透き通った声を漏らした桃姑が軽く首を傾げる。薄氷が唯一本名を呼ぶことを許した彼女は、腕に何冊かの本を抱えていた。図書殿に向かうつもりだったらしい。

 三つ編みを外巻きにまとめているせいで、露わな首筋から、どんな香油や薫物も遠く及ばない極上の甘い香気が立ち上っている。これに間近で耐えている瑠璃茉莉は弟子ながらたいしたものだ。

 会って、無事を確かめれば、今はひとまずそれで安心できるはずだった。なのに、自分と似ていないようで似ている弟の、本心の知れない笑みが脳裏に浮かんだ途端、芳香と相俟って理性が飛ぶ。

 奪われるくらいなら、いっそ。

 薄氷は桃姑の薄い肩を鷲掴み、本能のまま、剥き出しの首に齧りついた。

「……ッ!」

 耳許で小さな悲鳴が聞こえた気がしたが、溢れる血がいよいよ芳しさを増して頭の芯を痺れさせ、それを貪り尽くすこと以外何も考えられなくなる。

 その横面を、激しい怒号が容赦なく殴りつけた。

「────真君!!」
「!」

 弟子の声で我に返った薄氷は、瞬時に傷口を舐めて身を離す。傷は癒えたものの、乱れた白花色の衿はべったりと血に塗れてしまい、本を取り落とした桃姑は唇をわななかせ、得体の知れない怪物を見る目で薄氷を凝視していた。

 今にも泣き崩れそうな彼女を庇うように立ち塞がった瑠璃茉莉が、敢えて事務的な口調できびきびと宣告する。

「今夜から、真君の食事は下に運ばないようナギに伝えます。またトーコが望まない限り、場合によっては望んでも、真君との面会は全力で阻止させていただきます。以上、よろしいですか」
「ああ。…………すまない」

 それは誰に向けた謝罪だったのか。

「では失礼いたします」

 恭しく一礼し、瑠璃茉莉は桃姑の腕を支えて階段を下っていく。桃姑は魂が抜けたような表情で、されるがままに連れて行かれた。

「…………」

 残された薄氷は、普段の隙のない物腰からは程遠い緩慢な動きで、落ちた本を拾い上げる。唇に付着した血は酔い痴れるほどに甘美で、自己嫌悪、という言葉の意味をこれほど痛感した日はなかった。