仕立て直しの終わったスーツを受け取って百貨店を出ると、まだ空は明るいが、時刻は既に夕方だった。どこで待機していたものか、また折りよく馬車が現れ、二人を車内へ招き入れる。
「それで、次はどこに行きたい?」
「……そう言えば思ったんですけど、あの夜の式鬼の環を使えば、一瞬で龍宮洞から帝都に来れたんじゃないですか?」
唐突に透子が質問を返しても、隣の薄氷は気分を害することなく応じてくれた。
「あれは先に出口を仕掛けておかなければならないからな。むしろ外出より帰宅用だ。それと、常人が五体満足で通り抜けられる保証はない。それよりどうする。さすがに夕飯にはまだ早いだろう」
「……そうしたら、郊外のほうへ向かってもらってもいいですか。道は案内しますから」
「わかった」
少し抑揚の欠けた声に、理由は聞かず薄氷は頷き、馬車は繁華街を離れる。窓からの眺めが高層ビルや街灯から民家、田畑へと移り変わり、記憶を頼りに辿った道の果て、目的地付近で馬車を降りる頃には、ようやく空の色が変わりつつあった。
日暮れを運んでくる風の中、透子の目の前には大きな紡績工場が建っていた。周囲一帯は開発が進み、前時代の雰囲気を残していた長屋群は影も形もない。
「…………」
透子は胸元できゅっと両手を握る。
(……別に、わかっていたことじゃない)
たとえ長屋が健在であったとしても、かつて親子で暮らした部屋にはとっくに別の住人が入っていたはずだ。家だけあっても家族はもういない。懐かしい日々の喪失はとっくに理解していたつもりなのに、どうしてこれほど胸が痛むのだろう。
後方に立つ薄氷は何も言わなかった。透子もしばし無言で立ち尽くし、やがて郷愁を断ち切って踵を返す。
「────ありがとうございます。行きましょう」
「そうか」
薄氷も短く相槌を打ち、馬車は出立した。薄氷は肩に腕を回してくることもなく、透子から話しかけるまでは沈黙を保っていた。だが一度口を開けばいつもの態度で、透子も笑顔で応じることができた。
彼方へ沈みつつある斜陽に染め上げられた街中へ戻り、昼とは違う店での夕食を終えた頃、空からは残照さえ去ろうとしていた。薄氷の「そろそろ帰るか」の言葉に透子も首肯する。
だが今日一日歩き回り、最後に空腹を満たしたところで馬車に心地よく揺られ、必然的に透子の瞼は重くなる。うつらうつらし出した透子の頭がことんと薄氷の肩に倒れると、彼はそのまま頭を抱き寄せ、健やかな眠りへ誘うように髪を撫でた。
「疲れたか。眠っていてもいいぞ」
「うん……」
深く耳朶を打つ声に辛うじて応じたあたりから記憶は曖昧で、「そろそろ着くぞ」と軽く肩を揺すられ目覚めたとき、透子は船上の人だった。屋形船の舳先の向こうで、釣殿に下がる灯籠が丸く夜の川面を照らしている。
畏れ多くも鱗王の肩を枕に熟睡していた透子は、様々な驚きから一瞬で覚醒したが、肩を抱く手が離れず、結局、薄氷に寄りかかった姿勢のまま、釣殿で瑠璃茉莉の出迎えを受けることになった。
「お帰りなさい。いっぱい買ってきたわね」
手分けして荷物を小閣に運び入れながら、透子は己の緊張感のなさを嘆く。
(捕食者の腕の中で安眠する被食者っていったい……)
十八歳の誕生日までまだ一年近くあるとは言え、もう少し気を引き締めないと、と透子は自戒したが、どこまでその意志を貫けるかは、正直自信がない。
そのくらい、今日という日は、透子にとって心踊る一日だった。
「それで、次はどこに行きたい?」
「……そう言えば思ったんですけど、あの夜の式鬼の環を使えば、一瞬で龍宮洞から帝都に来れたんじゃないですか?」
唐突に透子が質問を返しても、隣の薄氷は気分を害することなく応じてくれた。
「あれは先に出口を仕掛けておかなければならないからな。むしろ外出より帰宅用だ。それと、常人が五体満足で通り抜けられる保証はない。それよりどうする。さすがに夕飯にはまだ早いだろう」
「……そうしたら、郊外のほうへ向かってもらってもいいですか。道は案内しますから」
「わかった」
少し抑揚の欠けた声に、理由は聞かず薄氷は頷き、馬車は繁華街を離れる。窓からの眺めが高層ビルや街灯から民家、田畑へと移り変わり、記憶を頼りに辿った道の果て、目的地付近で馬車を降りる頃には、ようやく空の色が変わりつつあった。
日暮れを運んでくる風の中、透子の目の前には大きな紡績工場が建っていた。周囲一帯は開発が進み、前時代の雰囲気を残していた長屋群は影も形もない。
「…………」
透子は胸元できゅっと両手を握る。
(……別に、わかっていたことじゃない)
たとえ長屋が健在であったとしても、かつて親子で暮らした部屋にはとっくに別の住人が入っていたはずだ。家だけあっても家族はもういない。懐かしい日々の喪失はとっくに理解していたつもりなのに、どうしてこれほど胸が痛むのだろう。
後方に立つ薄氷は何も言わなかった。透子もしばし無言で立ち尽くし、やがて郷愁を断ち切って踵を返す。
「────ありがとうございます。行きましょう」
「そうか」
薄氷も短く相槌を打ち、馬車は出立した。薄氷は肩に腕を回してくることもなく、透子から話しかけるまでは沈黙を保っていた。だが一度口を開けばいつもの態度で、透子も笑顔で応じることができた。
彼方へ沈みつつある斜陽に染め上げられた街中へ戻り、昼とは違う店での夕食を終えた頃、空からは残照さえ去ろうとしていた。薄氷の「そろそろ帰るか」の言葉に透子も首肯する。
だが今日一日歩き回り、最後に空腹を満たしたところで馬車に心地よく揺られ、必然的に透子の瞼は重くなる。うつらうつらし出した透子の頭がことんと薄氷の肩に倒れると、彼はそのまま頭を抱き寄せ、健やかな眠りへ誘うように髪を撫でた。
「疲れたか。眠っていてもいいぞ」
「うん……」
深く耳朶を打つ声に辛うじて応じたあたりから記憶は曖昧で、「そろそろ着くぞ」と軽く肩を揺すられ目覚めたとき、透子は船上の人だった。屋形船の舳先の向こうで、釣殿に下がる灯籠が丸く夜の川面を照らしている。
畏れ多くも鱗王の肩を枕に熟睡していた透子は、様々な驚きから一瞬で覚醒したが、肩を抱く手が離れず、結局、薄氷に寄りかかった姿勢のまま、釣殿で瑠璃茉莉の出迎えを受けることになった。
「お帰りなさい。いっぱい買ってきたわね」
手分けして荷物を小閣に運び入れながら、透子は己の緊張感のなさを嘆く。
(捕食者の腕の中で安眠する被食者っていったい……)
十八歳の誕生日までまだ一年近くあるとは言え、もう少し気を引き締めないと、と透子は自戒したが、どこまでその意志を貫けるかは、正直自信がない。
そのくらい、今日という日は、透子にとって心踊る一日だった。



