店主夫妻に見送られ、薄氷と透子は呉服店を出た。まだ昼前だというのに、最初の店でこれほど買い込んでどうするのだろう。まさかもう帰るのか。

 だが透子の懸念は杞憂に終わった。頃合いを見計らったように一台の馬車が店の前で停まり、薄氷が当たり前の顔で乗り込んだからだ。

「……これも仙術?」
「よく判るな」

 隣に座らせた透子の指摘に薄氷が感心するが、仙術でなければ都合がよすぎるだろう。屋形船と違って御者はいるものの、能面のように表情がない。

 透子が馬車に乗ったのは、帝都から山里へ向かったときの馬車鉄道以来だった。その記憶に比べて振動や雑音は格段に少なく、なめらかな走り心地で馬車は通りを進む。

「少し早いが、昼飯にするか。ゆっくり店を探せば丁度いい時間になりそうだ。何が食いたい?」

 薄氷にとっては、反物選びよりこちらのほうがよほど楽しみに違いない。店選びを任され、透子の脳裏にいろいろな料理が浮かんで消える。特別好き嫌いはないし、和食の店も数多いだろうが、やはりここは、久しぶりに洋食を食べたい。ただ問題は、それを薄氷が聞き入れてくれるかどうかだ。

「そうですねえ……。せっかくだし、洋食のお店がいいんですけど。カレーライスとかコロッケとか。……駄目、ですか?」

 和服で和食を食べている姿しか見たことがない薄氷の様子を伺うと、また予想外甚だしいことに、喜びでも怒りでもなく驚きの表情が浮かんでいた。

「……いいのか?」

 逆に茫然と訊き返されて、透子は反応に困る。

「わたしは構いませんけど、何かまずいことでもあるんですか?」
「まずいというか……、俺は鱗族の長で、龍神として祀られる社もいくつもある。だからその身分に相応しい振る舞いや装いを求められてきたし心がけてきたから、洋食は、正直ずっと気になっていたが、殆ど食べたことがない」

 神仙への供物は、昔も今も変わらず米や酒などが中心だ。パンをお供えした神棚など見たことがない。

 多分薄氷としては真剣な煩悶なのだろうが、文明開化の申し子である透子は頓着なく一蹴した。

「公私を弁えていれば、別に好きなもの食べてもいいんじゃないですか? 今の人界で、帝都を歩く薄氷様を仙人として見る人はまずいないでしょう。少なくともわたしは、句芒君ではなくて薄氷様が、帝都でシチューやステーキ食べても気にしませんよ」
「……そうか?」
「まあさすがに、一升瓶片手にスルメくちゃくちゃやってる薄氷様とかは見たくありませんが」
「誰がそんなことするか」

 これは単純に美意識に反するらしい薄氷は、鼻に皺を寄せて全否定した。その皺を解くと、自嘲混じりの苦笑を浮かべる。そんな負の表情すら文句なしに麗しい。

「……そうだな。ではトーコの希望に応じるとしようか」

 そして馬車の窓から選んだ洋食店に入り、透子はコロッケ、薄氷はオムライスを注文した。洋食に馴染みがないと言う割には薄氷の所作は完璧で、透子のナイフとフォークの手捌きを観察しているのも、今後のための予習のつもりかもしれない。

「初めて食べたが、これは美味いな。飯の甘酸っぱさがいい。入っているのは鶏肉か?」
「そうですよ」
「鶏肉と鶏卵では、宝燈たちは食うことができないんだな。可哀そうに」

 そう憫笑する薄氷も、鯵のフライや鮭のソテーは食べられないのだから、あまり下手なことは言わないほうがいいだろう。しかし鶏卵が駄目だと、カステラやプリン、ケーキなど、洋菓子の大半が無理なのではないか。宍肉が駄目な毛王も牛乳は問題ないのだろうか。細かい疑問は尽きない。

 そしてふと、透子は妙案を思いつく。

「薄氷様。このあと行きたいところがあるんですが」
「どこだ?」
「百貨店です。女学生と言えば袴にブーツですから」
「なるほど」

 行きたい理由のすべては明かさなかったが、薄氷の了承は得た。食べ終えて退店し、先程馬車で通りがかった百貨店に徒歩で向かう。当然のように手を繋がれたが、透子もごく自然にそれを握り返す。緑陰の多い龍宮洞の暮らしに慣れていると、晩夏でも照りつける日差しは容赦ない。

 すれ違う人々からちらちらと向けられる視線を、透子は薄氷に対するものだと思っていた。再三言っているように、長髪の美丈夫である薄氷は、ただ歩いているだけで人目を惹く。間近で覗き込まない限りは双眸の蒼には気づかれないだろうが、気づかれても忌避ではなくいっそうの陶酔を招くだけだろう。

 だが、薄氷の見解はまったく違った。

「皆トーコを見ている。おそろしいほどの芳しさだな、完熟間近の仙果は」

 連れ立って歩く透子にしか聞こえない程度の囁きに、透子は弾かれたように声を上げる。

「わたしですか? まさか!」
「だからはぐれるなと言っているんだ。人は野生の本能が薄い分、加護の霊力にも鈍い」

 よくよく注意してみると、男性からの目線も多い。だが女性、特に若い女性の秋波は間違いなく薄氷を追っている。つまり、二人並んでいることで二倍注目されてしまっているわけだ。

 劣情と嫉視に透子がいたたまれなくなってきたあたりで、丁度百貨店の入口に到着した。三階建ての洋館には、所狭しとガラスケースが並んでいて、様々な品々が展示されている。まさに流行の最先端であった。

「それで、あの棚からこの棚まで全部ほしいのか?」
「それはもういいです、忘れてください。そうじゃなくて、こっち」

 適当な範囲を指差した薄氷の袖を赤面しながら引き、やや緊張しつつ店員に尋ねて透子は先程明かさなかった目的地……紳士服売り場へ向かう。

「こんなところに何の用だ?」

 予想を裏切らず怪訝な顔になった薄氷に、透子はフフンと胸を張った。

「洋食食べたなら、次は洋服でしょう。薄氷様、目鼻立ちがはっきりしてるし手足が長いから、絶対洋装似合うと思うんですよね」
「いつ着るんだ、そんなもの」
「じゃあ、今度は洋装で帝都に遊びに来ましょうよ。わたしも洋服買いますから」
「買いますからって、おまえ、誰が金を出すと思っている」
「試着だけでもしてみてくださいよ。見てみたいです、薄氷様の洋装」

 その後も何往復か続いた遣り取りの末、根負けしたのは薄氷だった。だが簡単な採寸後、仏頂面で袖を通した褐色のアルスターコートとスリーピースのスーツは透子の想像以上に誂えたようにぴったりで、目の肥えている店員も掛け値なしの賛辞を送る。

「よくお似合いです、お客様」
「薄氷様、次これ、こっちも。あっちのも素敵っ」

 俄然楽しくなってきた透子は目を輝かせて次々と試着をねだる。これはもしかしたら、自分の着物選びよりわくわくするかもしれない。薄氷や瑠璃茉莉が自分を着飾らせたい理由が少し理解できた。

 苦虫を噛み潰したような顔ながら薄氷は透子の着せ替え遊びに付き合い、結局、最初のコートとスーツとシャツと革靴のひと揃いを選んだ。多少の仕立て直しを頼んで婦人服売り場へ移ると、今度は透子が薄氷と店員に褒め殺しされる番で、胸元と袖口が白いフリルの孔雀緑のワンピースを購入する。袴にも合わせられる焦茶のブーツも併せて決めた。

 その後、百貨店内の食事処で氷菓のアイスクリームを食べたところで、薄氷の機嫌は完全に回復した。「削り氷の甘葛がけとは違う、なめらかで濃密な甘さだな」と、いたく気に入ったようだ。結局今日は透子も、普通に買い物や食事を楽しんでしまった。

(まあ、どさくさに紛れてまた帝都に連れて来てもらう約束はしたし……)

 十八歳になったら食べられるということは、十八歳になるまでは食べられないということだ。楽観が過ぎるかもしれないが、人界に逃げ込んだあと完全に行方をくらませる算段もまだついていないし、鱗王を油断させるためにも、たまにはこういう日もいいだろう。