そしてどれほど経った頃か。気づけば雨音は止んでいて、薄氷の合図で簾が一斉に巻き上がると、そこには渓谷の緑ではなく帝都の街並みが広がっていた。

「……!?」

 透子の驚愕を余所に、屋形船は高瀬舟や平田舟に混じって船着場に着岸する。薄氷の手を借りて透子も船から降りると、無人となった屋形船は風呂敷包みを載せたまま離岸し、下流へと流れていった。

「……あれいいの?」
「いい。放っておけば龍宮洞に流れ着く」

 屋形船の行き先を案じた透子の頭を、薄氷が軽く撫でる。心配よりも好奇心が強い質問だったため、透子は少々ばつの悪さを覚えたが、ひとつ、これだけは言っておかなければならない。

「……街中(まちなか)で肩を抱いたり腕を組んだりするのはやめてくださいね」
「何故だ?」
「悪目立ちするからですよ。郷に入れば郷に従ってください」

 本気で怪訝そうな薄氷に透子は念入りに釘を刺す。こればかりは、逃亡のための詭弁ではなく本心からの危惧だった。長身美形、おまけに長髪の薄氷は黙っていても目立つというのに、余計な注目を集めたくはない。薄氷も渋々、「ならはぐれるんじゃないぞ」の一言で透子の主張を認めた。

 透子にとって四ヶ月ぶりの人界、四年ぶりの帝都は、よく晴れ渡った空の下、賑わいに満ち溢れていた。大通りには辻馬車や人力車と並行して路面電車が走り、帽子を被った羽織の紳士や自転車に跨る袴姿の女学生、厳しい軍服の将校など、老若男女様々な人々が流れるように行き交う。通りの両側には洒落た煉瓦造りの建造物が軒を連ね、人目を引くように看板を掲げていた。遷都以前より東国一、いや蓬莱一の街であったこの地は百万人都市などと呼ばれていたと言うが、現在の人口は既に三倍近い。

 帝都産まれ帝都育ちと言っても、透子が暮らしていたのは昔ながらの長屋が建ち並ぶ郊外で、繁華街は数えるほどしか訪れたことがなかった。更に、透子が時が止まったような山里に囚われている間にも、帝都は目まぐるしい成長を続けていて、活気に圧倒されてしまう。だが同時にその喧騒は、龍宮洞や孟章林の清浄な景観とは異なる理由で、透子の目を惹きつけて止まないのだった。

 あちこち目移りしながらも薄氷の傍を離れず歩いていた透子だったが、とうとうひとつの店先で足を止めてしまった。そこは傘屋で、ショーウィンドウに花開いたいくつもの洋傘や和傘につい目が釘づけになる。そして気づけば、隣に薄氷の姿はなかった。別の店に入ったか道を逸れたか、抜きん出た長身はどこにも見当たらない。

(やだ、どうしよう、……っ)

 その瞬間、透子が感じたのは、逃走の好機よりもはぐれた心細さだった。おろおろと周囲を見渡し、人波の中で交錯した視線のひとつに悪寒を覚える。それは、あの夜の従兄の目に酷似していた。

 思わず立ち竦んだ透子の腕を、思いがけない方向から伸びてきた手が掴む。

「トーコ! はぐれるなと言っただろう」
「……真君」

 一瞬凍りついた透子だったが、手の主を認めて安堵の声が漏れる。鱗王は桃姑に引き寄せられかけていた男を蒼のひと睨みで追い払い、店先の傘に目を向けた。

「日傘がほしいのか? 監兵公たちも愛用しているが、もう夏も終わるぞ」
「大丈夫です、色が派手で目に留まっただけだから」

 薄氷の懸念と透子の遠慮は似て非なるものだった。今年の夏は終わり、来年の夏には、食べられるのであれ逃げ切るのであれ、透子は薄氷の隣にはいない。

「なら行くぞ」

 薄氷は透子の手首を掴んでいた手で掌を握り直す。振り払えない力ではなかったが、透子はそうしなかった。この人混みの中、少し低めの体温は心強かった。

 一方で、これはよくない傾向だとも思う。憎むべき相手と頼れる相手が同一人物の場合、その者に向ける複雑な愛憎、を一言で言い表せる言葉を透子は知らない。似たような関係性だった従妹には、恐怖と、それに比べればささやかな嫌悪しか抱かなかったのに、彼には畏怖だけでなく親密さを感じるのは、飴を全面に押し出してくるせいだろうか。巧みに隠された鞭は、あからさまだった従妹のそれよりずっと無慈悲だと言うのに。

 薄氷は案の定角を曲がり、別の通りへと向かう。長い足は颯爽と動き、それでいて透子の足取りに歩調を合わせてくれている。単なる街歩きではなく明確な目的地があるのだと悟り、透子は尋ねた。

「どこへ行くんですか、真君」
「……その呼びかたはやめろ」
「え?」

 質問とまったく関係ない台詞が返ってきて、透子は面食らった。透子に首を向けた薄氷は心持ち不機嫌そうに続ける。

「郷に入れば郷に従えと言ったのはおまえだろう」
「まあそうですね。じゃあ、……玉條様?」

 確かに、神仙の去った世でその敬称は不自然だろう。透子は無礼でない程度の沈黙で、一度だけ聞いた薄氷の号を記憶から捻り出す。珍しい苗字に聞こえなくもないかと思ったのだが、薄氷はまだ納得がいかない様子だった。

「瑠璃茉莉や草薙のことは『マツリさん』『ナギくん』と呼ぶくせに、どうして俺だけそんなに他人行儀なんだ」
「いやだって、失礼かと」
「構わん。許す」

 態度は尊大だが、不敬を承知で言わせてもらえば、拗ねているとしか思えない。透子はなんとなく昔の友人一家のことを思い出した。

(聞いたことあるなあ。自分が貰ってきた子犬なのに、家族にばっかり懐いて面白くないお父さん……)
「……わかりました、薄氷様」
「うむ」

 薄氷は鷹揚に頷いたが、思えば奇妙な話である。自分たちは互いに一度も自らの口で名を明かしてはいないのだ。

 釈然としないものを抱えたまま、薄氷に連れられて辿り着いたのは、古風な店構えの呉服店だった。暖簾をくぐると、一組の先客に中老の女性が反物をあれこれ広げていて、帳場で台帳を捲っていた更に年嵩の店主に薄氷が声をかける。

「この娘の秋冬の袷用の反物をいくつか見立ててもらいたい。宝燈の紹介、と言えば解るだろうか」
「……これはこれは。祝融君のお知り合いでいらっしゃいますか」
「句芒洞を預かる者だ」
「なんと」

 眼鏡の奥の瞼を持ち上げ、還暦前後の店主は帳場を出た。畳に手を付いて深々と頭を下げ、接客業として申し分ない、人好きのする笑みを浮かべる。

「お得意様の知人、それも同輩の御方とあれば、出し惜しみはいたしませんよ。そちらのお嬢様に似合う品ですね、しばしお待ちを」

 透子にも一礼し、店主は奥の倉へと反物を見繕いに向かった。待つ間、薄氷に促されて透子も座敷にちょこりと腰掛け、衣桁に架けられた振袖や吊るされた反物、平台に並ぶ小物などを興味深く眺める。若女将と思しき女性が呈茶を振る舞ってくれたのも、この店の歴史を感じさせた。

「そう言えばトーコ、おまえ、最期はどんな着物で迎えたい?」
「え? 脱がしやすいのがいいんでしょう?」

 何を今更、と言わんばかりの口調で透子が返すと、薄氷は「それは大前提として」と否定はせずに続ける。

「どうせなら好きな恰好に着飾らせてやりたいからな。反物を仕立てるのではなく生地を織るところからこだわるのなら急ぎ取り掛からないと、いやまず糸を縒るのであればもう間に合わないのではないか」
「そこまで贅沢言いませんよ。マツリさんの感性(センス)を全面的に信頼します」

 まだ死に装束を纏う気などさらさらない透子は投げ遣りに言いくるめ、話を切り上げるように別の話題を振る。そこで今更、「脱がしやすい」などと自ら言ったことに対する羞恥が襲ってきた。

「っ、ここは薄氷様のお知り合いが贔屓にされている店なんですか?」
「ああ。昔の仙人たちは大抵それぞれ人里に馴染みの店をいくつか持っていたんだ。逆に仙境からも、霊獣の毛皮とか薬や染料の原料になる霊草なんかを売っていてな。かつては社殿や祠廟の扉と洞府の門を往来できたものだが、開国以降それも難しくなったな」

 隣り合い、或いは重なり合っていた仙界と人界は、開国を機に分断された。これからも互いの距離は遠ざかる一方だろう。透子たちの世代も、小学校入学時は、透子含め多少の通力を有する同級生は珍しくなかった。だが学年が上がるごとにその数は減り、最終学年になっても主張し続けた女生徒は奇異の目を向けられ遠巻きにされていた。代が下るほど、方士の素質を持って産まれる赤子自体が稀有な存在になっていくはずだ。

「時代の変遷で勃興した者がいれば没落する店も多い。先代からの馴染みだった京の呉服屋も店主の隠居でついに店を畳んだ。宝燈の馴染みはまだ現役で、しかも帝都に店を構えていると聞いていたから来てみたのだが」
「古馴染みの店や紹介された店でないと、仙人たちは人界で何も買えないんですか?」
「別にそんなことはない。今も昔も、金さえあれば大概のものは買える」
「っていうか、仙界でどうやって人界のお金を? ここだってお安い店じゃないでしょう」
「そこはまあ、それなりにだな」

 そこで店主が「お待たせいたしました」と戻ってきたため、最後の質問ははぐらかされた形になってしまった。口上が世辞ではない証拠に、用意された反物はどれも一級品だった。

「秋冬であれば、やはり紅葉や菊、雪持松などが定番の柄でしょうか。こちらの菊尽くしなどは花弁の白から紫への裾濃が見事で」
「わっ、綺麗。こんな菊、本当にあるんですか?」
「ええ、遷移菊と言いまして」
「それだけはやめろ。というか、菊はやめろ」

 最初は気兼ねのあった透子も年頃の乙女、広げた反物を肩にかけられるとつい浮かれてしまう。うっとりと漏らした感想に、だが薄氷が低い声で待ったをかけた。店主は出資者の意向に従い、すぐさま別の反物を薦めてくる。

「でしたらこちらの銀杏紋はいかがでしょう? 濃淡重ねた優美な色合いがよくお似合いだと思いますよ」
「あらあら、お嬢様の着物でしたら、私も混ぜてくださいな」

 先客の対応を終えた中老の女性、店主の細君も商談に顔を出し、夫君と真っ向から意見を対立させた。

「確かに今の淡い色のお召し物も素敵ですけど、すべて同じ趣向では物足りないでしょう。せっかく流行りの髪型をなさっているのですもの、大胆な色や柄の着物もお嬢様なら着こなせますわ」

 有言実行とばかりに立ち上がった細君の背に、薄氷が追加の依頼を投げる。

「そしたら矢絣柄と、行灯袴用の海老茶の生地も持ってきてくれ」
「薄氷様?」

 具体的な注文に首を捻る透子に、薄氷も怪訝な視線を返す。

「おまえが『学校行きたい』と言ったんだろう。道中も、女学生らしい装いの者によく目を向けていたし。だから形だけでもどうかと思ったんだが」
「…………」

 よく覚えているし、よく見ている。確かに、透子が進学を望んだのは、向学心と同等の比重で女学校の制服に憧れたという側面も大きかった。ただ、帝都での両親との暮らしは食い詰めるほどではないが余裕があるとも言いがたく、父の病死がなくても進学は難しかっただろう。諦めた夢が形だけでも叶い、それを叶えてくれるのが自分を喰らうつもりの仙龍というのも皮肉な話であった。

 新たに持ち込まれた反物を囲み、四人であれやこれやと検討を重ねた上、夫妻それぞれの一押し、大きな花弁の中に小花を散らした桜鼠色の竜胆重ねの綸子と、黒白縞に紅白の花を乗せた椿紋の縮緬に決まった。それに紫の矢絣と海老茶、裏地に襦袢、帯や帯締め帯留めなどの小物もいくつか選び、なかなかの量になる。遠慮する気持ちとときめく気持ちは、意外と両立するものらしい。

「仕立てはいかがなさいますか?」
「それは問題ない。弟子に腕のいい織女がいるからな。急な注文にもかかわらず、助かった」
「なんの。こちらこそ、洞主様自ら遥々ご足労いただきありがとうございます。昔は私たちが仙洞へ屋敷売りにお伺いしていたものですが、もうそれも叶わなくなりましたな」

 小さく笑い、店主は過去を懐かしむ眼差しになる。

「まだ十にもならない頃でしたが、今も覚えておりますよ。海岸の洞窟奥に広がる陵光公の壺中天、水の只中に浮かぶ梧桐洞(ごとうどう)の見事な御殿のご様子を」

 透子も薄氷の隣で話を聞きながら、その光景を思い描いてみる。同じ四霊の王の洞府でも、龍宮洞とは随分立地や趣きが異なるようだ。

「今後とも末永くご贔屓に……と言いたいところですが、この五十年で同業者も異業種も随分と様変わりしましてな。仙境と取り引きし、仙人様をもてなせる店はもう少数派です。この店も、息子夫婦は跡を継いでくれましたが、孫の代にはどうなることか」
「時代の流れと言えばそうなのだろうな。だからこそ、伝統を守るに足る店には長く続いてもらいたいものだ」

 そう言えば、夫妻は透子のことを「お嬢様」と呼ぶだけで、その身の上を詮索してこなかった。職業柄、異界との距離感を心得ているということだろうが、透子にはありがたい気遣いだった。彼らに助けを求めるわけにもいかないし、まさか薄氷も人前で「いずれ喰う娘だ」などとは言わないと思いたいものの、ではどのように扱われたいかと問われれば、それはそれで返答に困るのだった。