そして翌朝、いつもより遅く、日の出の後に起きた透子は瑠璃茉莉の手を借りて身支度を始める。初の遠出ということで、瑠璃茉莉は腕の見せどころとばかりに、普段より張り切って着物を見立て化粧を施してくれた。
鴇鼠の絽に浮かび上がるような撫子柄の着物と、千鳥結びの藤紫の丸帯。下半分が籐籠の巾着は愛らしい手鞠柄で、髪型は三つ編みを輪にしてリボンで飾ったマガレイトだ。瑠璃茉莉もいろいろ流行り廃りを研究しているらしい。
準備を終えて濡縁で談笑しているところへ、風呂敷包みを提げた草薙を伴って羽織姿の薄氷が迎えに来た。着飾った桃姑を目にした鱗王は、昨夜の不承不承をひとまず水に流して嬉しそうに青い目を細める。
「うん、いいな。いつも可愛いが、今日はひときわ綺麗だ」
「ありがとうございます」
弟子たちの前でも平然と惚気る薄氷に、褒められた透子のほうが気恥ずかしくなる。それでも礼の言葉を瑠璃茉莉に任せず自分で返せるようになったのは、確かに日増しに艶めいていく髪や肌に多少なりと自信がついたおかげだろう。過度な謙遜は、自身の卑下だけでなく瑠璃茉莉の否定にもなると思えば、自然と背筋が伸びるというものだ。
「今すぐ喰ってしまいたいような勿体ないような、複雑な気持ちだな」
「…………」
その感想には、アルカイックスマイルでノーコメントを貫く透子だった。
薄氷と透子が沓脱石を降りると、当然のように兄妹弟子たちも後に続く。まだまだ日中の残暑は厳しいが、朝の風は肌に心地よい。
「マツリさんとナギくんも一緒に来るの?」
意外な同行者に透子が尋ねると、予想に反して否定の言葉が返って来た。
「そんな邪魔はしないわよ。アタシたちは単なるお見送りと釣殿までの荷物持ち」
その言葉どおり、幾らも歩かず、渓流に突き出た釣殿に辿り着く。散歩で通りかかったことがあるし、小舟が静かに揺れているのも同じだ。
だから、この渓流の先が暗渠になっていることも既に知っている。当惑する透子の機先を制し、瑠璃茉莉がこっそり耳打ちした。
「あとで真似しようとしても無駄よ。壺中天から直接人界へ、しかも任意の場所に渡れるのは洞主だけだからね」
「……それはどこも同じように川を下るの? それとも壺中天ごとに違う形なの?」
透子が耳打ちし返すと、瑠璃茉莉は短く絶句した。透子が落胆よりも関心を示したことに意表を衝かれたらしい。確かに意気を削がれた感はあるが、だからこそ好奇心が上回った。
たとえ「蟲喰い」「泥棒猫の娘」というレッテルを貼られなくても、今でも吉事も凶事も天の恵みや神の怒りで済ませてしまう山里には馴染めなかったと思う。だが人界とは異なる形であれ、仙界なりの道理や法則があるのならば、知りたいと思うのが透子の生来の性だった。
「何をしている、早く来い」
互いの耳許で囁き合う少女たちに、舟の上から薄氷がやや険のある声を投げる。透子が仕方なく問答を切り上げると、二人と風呂敷包みを乗せた舟は船頭もないまま釣殿を離れた。
「里心つかない程度に楽しんでこいよ、トーコ」
「仕立て甲斐のある反物、待ってるわよ」
釣殿から見送る二人に軽く手を振り返し、透子は川面をゆったりと進む舟の揺れに身を委ねる。小さめの屋形船で、畳に座布団、机も設えられており、御簾の上げられた今は流れる景色も楽しめる。敢えて対面ではなく横並びに座り直し肩を抱いてきた薄氷を問い質すことはもう放棄した。
「瑠璃茉莉と何を話していた?」
「壺中天から人界へ自在に渡れるのは洞主だけって聞きましたけど、本来は制約があるものなんですか?」
薄氷の柳眉の微かな曇りは多少気になるものの、やはりここでも興味が勝った。透子の問いに、眉間を緩めた薄氷は普段と変わりない口調で応じる。
「普通は仙界と縁ある場所との往来に限られるな」
瑠璃茉莉が「龍神を祀る社」と言っていたことを思い出し、透子は自分なりに薄氷の回答を咀嚼してみる。
「……つまり、森からは、真君も含めて森に洞府を構える仙人たちを祀る社のある森や辻にしか渡れないってことですか? 執明公の山や陵光公の島も同じような感じで。もしかして逆も然り?」
透子の解釈に薄氷は「そういうことだ」と短く首肯したが、いずれ森から人界に脱出するつもりの透子にとって、これは由々しき事態だった。鱗王やその眷属を鱗神として祀る社や祠は、何処に何個あるのだろう。
それより、と会話を区切った薄氷は風呂敷を机の上で広げる。草薙が運んでいたことと、何より薄氷の性格から透子もなんとなく予想はしていたが、中身は案の定折り詰めの弁当だった。俵型の菜飯に始まり複数の副菜、甘味、更に汁物まで抜かりなく、通常の朝餉になんら遜色ない。
「結局この国には、屋台で朝飯を食う慣習が根付かなかったな」
「外国にはあるんですか?」
「ある。俺も話に聞いただけだが」
透子と薄氷も普段どおり、おかずを取り交わしたり軽口を叩き合ったりしながら箸を進める。雪菜花の巾着煮には出汁がよく沁みているし、大葉と紫蘇と胡麻の三色の俵結びは味だけでなく彩りも豊かだ。竹筒でいただく蜆の潮汁もなかなか趣き深い。
だが食べ終える前……岸の眺めから見て間もなく暗渠に行き当たる頃、俄かな雨脚が屋根を打ち始めた。あっという間に景色は白く烟り、屋形内に降り込むのを防ぐように四方の簾が下りる。
普段より少し遅めの朝食を終えて机を片付けると、まだ腹が満ち足りないのか、薄氷は今度は両腕を透子の肩に回し、髪に顔を埋めて至福の吐息を漏らした。がっちり抱きかかえられた上に髪の匂いまで深く嗅がれて透子はうろたえる。その感情が嫌悪なのか羞恥なのかは、自分でもよく判らなかった。
「ちょっと! くっつかないでくださいよっ」
「俺だって孟章公として日々肩肘張っているんだ、たまには癒しを求めてもいいだろう」
(もしかして、これが話に聞く「猫吸い」ってやつ……? いや違うか、猫食べないし)
鱗王はしばし桃姑の甘い匂いを肺いっぱいに堪能し、瓶覗の袖を解いた。距離を置こうにも狭い船上では如何ともしがたく、辟易としながらも透子は薄氷の隣に留まる。
やはり、最初に二度も窮地を救われたのは大きい。優しい溺愛も激しい執心も、透子ではなく桃姑に向けられたものだと解っているのに、三度の飯が何より好きな鱗王を、恐ろしいとは思っても嫌いにはなれないのだ。
屋形船はまだまだ滑るような前進を止めず、色鮮やかな鈴なりの提灯の下で会話に花が咲く。食事の力を借りずとも薄氷と気軽に話せるようになったことは喜ぶべき進歩なのか、それだけ経っても逃げ道を見出せないことを悲しむべき停滞なのか。こちらもまた、判然としなかった。
鴇鼠の絽に浮かび上がるような撫子柄の着物と、千鳥結びの藤紫の丸帯。下半分が籐籠の巾着は愛らしい手鞠柄で、髪型は三つ編みを輪にしてリボンで飾ったマガレイトだ。瑠璃茉莉もいろいろ流行り廃りを研究しているらしい。
準備を終えて濡縁で談笑しているところへ、風呂敷包みを提げた草薙を伴って羽織姿の薄氷が迎えに来た。着飾った桃姑を目にした鱗王は、昨夜の不承不承をひとまず水に流して嬉しそうに青い目を細める。
「うん、いいな。いつも可愛いが、今日はひときわ綺麗だ」
「ありがとうございます」
弟子たちの前でも平然と惚気る薄氷に、褒められた透子のほうが気恥ずかしくなる。それでも礼の言葉を瑠璃茉莉に任せず自分で返せるようになったのは、確かに日増しに艶めいていく髪や肌に多少なりと自信がついたおかげだろう。過度な謙遜は、自身の卑下だけでなく瑠璃茉莉の否定にもなると思えば、自然と背筋が伸びるというものだ。
「今すぐ喰ってしまいたいような勿体ないような、複雑な気持ちだな」
「…………」
その感想には、アルカイックスマイルでノーコメントを貫く透子だった。
薄氷と透子が沓脱石を降りると、当然のように兄妹弟子たちも後に続く。まだまだ日中の残暑は厳しいが、朝の風は肌に心地よい。
「マツリさんとナギくんも一緒に来るの?」
意外な同行者に透子が尋ねると、予想に反して否定の言葉が返って来た。
「そんな邪魔はしないわよ。アタシたちは単なるお見送りと釣殿までの荷物持ち」
その言葉どおり、幾らも歩かず、渓流に突き出た釣殿に辿り着く。散歩で通りかかったことがあるし、小舟が静かに揺れているのも同じだ。
だから、この渓流の先が暗渠になっていることも既に知っている。当惑する透子の機先を制し、瑠璃茉莉がこっそり耳打ちした。
「あとで真似しようとしても無駄よ。壺中天から直接人界へ、しかも任意の場所に渡れるのは洞主だけだからね」
「……それはどこも同じように川を下るの? それとも壺中天ごとに違う形なの?」
透子が耳打ちし返すと、瑠璃茉莉は短く絶句した。透子が落胆よりも関心を示したことに意表を衝かれたらしい。確かに意気を削がれた感はあるが、だからこそ好奇心が上回った。
たとえ「蟲喰い」「泥棒猫の娘」というレッテルを貼られなくても、今でも吉事も凶事も天の恵みや神の怒りで済ませてしまう山里には馴染めなかったと思う。だが人界とは異なる形であれ、仙界なりの道理や法則があるのならば、知りたいと思うのが透子の生来の性だった。
「何をしている、早く来い」
互いの耳許で囁き合う少女たちに、舟の上から薄氷がやや険のある声を投げる。透子が仕方なく問答を切り上げると、二人と風呂敷包みを乗せた舟は船頭もないまま釣殿を離れた。
「里心つかない程度に楽しんでこいよ、トーコ」
「仕立て甲斐のある反物、待ってるわよ」
釣殿から見送る二人に軽く手を振り返し、透子は川面をゆったりと進む舟の揺れに身を委ねる。小さめの屋形船で、畳に座布団、机も設えられており、御簾の上げられた今は流れる景色も楽しめる。敢えて対面ではなく横並びに座り直し肩を抱いてきた薄氷を問い質すことはもう放棄した。
「瑠璃茉莉と何を話していた?」
「壺中天から人界へ自在に渡れるのは洞主だけって聞きましたけど、本来は制約があるものなんですか?」
薄氷の柳眉の微かな曇りは多少気になるものの、やはりここでも興味が勝った。透子の問いに、眉間を緩めた薄氷は普段と変わりない口調で応じる。
「普通は仙界と縁ある場所との往来に限られるな」
瑠璃茉莉が「龍神を祀る社」と言っていたことを思い出し、透子は自分なりに薄氷の回答を咀嚼してみる。
「……つまり、森からは、真君も含めて森に洞府を構える仙人たちを祀る社のある森や辻にしか渡れないってことですか? 執明公の山や陵光公の島も同じような感じで。もしかして逆も然り?」
透子の解釈に薄氷は「そういうことだ」と短く首肯したが、いずれ森から人界に脱出するつもりの透子にとって、これは由々しき事態だった。鱗王やその眷属を鱗神として祀る社や祠は、何処に何個あるのだろう。
それより、と会話を区切った薄氷は風呂敷を机の上で広げる。草薙が運んでいたことと、何より薄氷の性格から透子もなんとなく予想はしていたが、中身は案の定折り詰めの弁当だった。俵型の菜飯に始まり複数の副菜、甘味、更に汁物まで抜かりなく、通常の朝餉になんら遜色ない。
「結局この国には、屋台で朝飯を食う慣習が根付かなかったな」
「外国にはあるんですか?」
「ある。俺も話に聞いただけだが」
透子と薄氷も普段どおり、おかずを取り交わしたり軽口を叩き合ったりしながら箸を進める。雪菜花の巾着煮には出汁がよく沁みているし、大葉と紫蘇と胡麻の三色の俵結びは味だけでなく彩りも豊かだ。竹筒でいただく蜆の潮汁もなかなか趣き深い。
だが食べ終える前……岸の眺めから見て間もなく暗渠に行き当たる頃、俄かな雨脚が屋根を打ち始めた。あっという間に景色は白く烟り、屋形内に降り込むのを防ぐように四方の簾が下りる。
普段より少し遅めの朝食を終えて机を片付けると、まだ腹が満ち足りないのか、薄氷は今度は両腕を透子の肩に回し、髪に顔を埋めて至福の吐息を漏らした。がっちり抱きかかえられた上に髪の匂いまで深く嗅がれて透子はうろたえる。その感情が嫌悪なのか羞恥なのかは、自分でもよく判らなかった。
「ちょっと! くっつかないでくださいよっ」
「俺だって孟章公として日々肩肘張っているんだ、たまには癒しを求めてもいいだろう」
(もしかして、これが話に聞く「猫吸い」ってやつ……? いや違うか、猫食べないし)
鱗王はしばし桃姑の甘い匂いを肺いっぱいに堪能し、瓶覗の袖を解いた。距離を置こうにも狭い船上では如何ともしがたく、辟易としながらも透子は薄氷の隣に留まる。
やはり、最初に二度も窮地を救われたのは大きい。優しい溺愛も激しい執心も、透子ではなく桃姑に向けられたものだと解っているのに、三度の飯が何より好きな鱗王を、恐ろしいとは思っても嫌いにはなれないのだ。
屋形船はまだまだ滑るような前進を止めず、色鮮やかな鈴なりの提灯の下で会話に花が咲く。食事の力を借りずとも薄氷と気軽に話せるようになったことは喜ぶべき進歩なのか、それだけ経っても逃げ道を見出せないことを悲しむべき停滞なのか。こちらもまた、判然としなかった。



