桃瀬家(ももせけ)の新米女中・ナツは、急なお召しがあって南向きの座敷へと向かった。太陽暦にて九月を終えようとする夕間暮れ、昨夜の沛雨の置き土産のような小糠雨が思い出したように庭に降り注いでいる。

 先日までは、ナツより四歳年長の姉・ユキが女中勤めをしていたのだが、来月の秋祭りを待たずに山向こうの里に嫁入りした。それで、尋常小学校を卒業した十三歳のナツが代わりに働くことになったのだ。

 ナツを部屋に呼んだのは、屋敷の主人や夫人、若君ではなく、ユキの一歳下の令嬢だった。庭に向けて障子を開放した畳敷きの部屋の手前で、ナツは濡縁に手を付いて平伏する。

「失礼いたします。お呼びでございますか、絢乃(あやの)お嬢様」
「お入りなさい、ナツ」

 実家でよくよく言い含められた敬語の口上をどうにか言い切ると、上座から鈴の音のような声がかけられた。菊唐草文様の躍る東雲色の単には華やぎと気品が完璧に調和していて、声の印象に違わない麗しい佇まいに、下座に膝を進めたナツは「お嬢様」とは別の言葉を思い浮かべる。

(仙女様……)

 ────かつて蓬莱と呼ばれた極東の小国、蒼海と仙術で永く鎖されていた神仙の島が開国して早五十年余り。暦も変わり、近代化と引き換えに、遍く充ち満ちていた神通力が急速に失われつつある昨今、類い稀なる霊力を宿す絢乃の存在はまさしく奇跡。仙人の末裔である指折りの名家・桃瀬家の誇りであり、その恩恵に与ってきた里人たちの崇敬の対象であった。

 そんな彼女の姿を見かけたことは奉公前にも幾度かあったが、声をかけられたこと、笑顔を向けられたことはこれが初めてで、そのたおやかさも相俟って、仙女に名を呼ばれたナツの頬は紅潮した。その素朴な憧憬に、後頭部で髪の一部を三つ編みにした半結びの絢乃は更ににこりと花笑む。

「どう? ここでの仕事には慣れてきたかしら」
「はっはいっ、まだまだ未熟者ですが、これから精一杯頑張りたいと思います」
「あまり硬くならなくてもいいのよ、期待しているわね」
「ありがとうございます!」

 ナツは今一度勢いよく額づき、誠心誠意仙女に、桃瀬家に尽くそうと、若輩ながらも真摯に忠誠を誓う。

 鎖国中も開国後も、桃瀬家に仕えることは里人たちの誉れであり憧れであった。家で畑仕事や水仕事を手伝うより、ずっと働き甲斐がある。まだまだ作法がなっているとは言いがたいナツの挨拶を、仙女は蕩けるような微笑で受け入れてくれた。

 上座の彼女だけではない。なめらかな漆塗りの調度品、掃き清められた藺草の青い匂い。軒の先に広がる池や小川、季節の花々が挿し色を添える緑の庭も、巷間を知らないナツの目にはまさに極楽、仙境のように映る。特にこれからの季節は、晴天の下、さぞ紅葉が照り映える眺めだろう。

「…………」

 だからこそ、そんな仙女の庭にそぐわないそれ(●●)は、殊更目に付いた。

 濡縁を通ってきたとき、庭に蹲るその塊を見てナツはぎょっとした。それは額づいた襷がけの人影で、霧雨のそぼ降る中、周囲には数匹の羽虫が飛び交い、烏までがその背に(たか)っている。一瞬骸かと身構えたが、声をあげずに済んだのは、すぐにそれが死者ではなく生者、誰であるのか検討がついたからだ。

(「蟲喰い」だ……)

 この里では子供たちでも知っている。血縁的には絢乃と同じ歳の従姉だが、当時縁談が決まっていた桃瀬家の嫡男が下女と駆け落ちした結果産まれた不義の娘。それだけでも忌避されるに足ると言うのに、亡き両親(おや)の因果が子に報い、死屍や瓦斯灯のように小虫を引き寄せる難儀で目障りな体質とあっては、誰もが彼女を蔑視していた。蝿を纏わりつかせた姿を見ると、ありもしない腐臭が漂ってくるような錯覚さえ感じる。

 居候など許されるはずもなく、下女と共に働くことで辛うじて存在を認められている「蟲喰い」は、声ひとつ漏らさず、降り頻る雨の中に平伏している。どんな粗相をしたものか、おそらくはナツの呼び出しよりずっと前から、ああして微動だにせず、仙女に向かって頭を下げ続けているのだろう。

「……また雨も降り出しましたし、障子閉めましょうか」

 ちらりと肩越しに庭を見遣ったナツの提言に、絢乃は可憐な口端を緩く吊り上げた。

「そうね、でもその前に」

 しなやかに立ち上がり、絢乃は敷居を越えて濡縁へ出て、軒先から庭先を見遣る。

「もういいわ、透子さん。顔を上げて」

 慈悲を削ぎ落とした声が朱鷺色の唇からこぼれ、「蟲喰い」は命令に従った。烏が僅かに羽ばたいたものの飛び去ろうとはせず、虫たちも忙しなく羽音を立てる。よく見れば水溜りの手許には蛙まで跳ねていた。

 曲がりなりにも絢乃の従姉、目鼻立ちは悪くない。だが陽に灼けた髪も肉の痩けた頬も、虫刺されの痕がいくつも残る腕も、仙女とは比べるべくもなかった。

「散々言ったでしょう? 虫を纏わりつかせて炊事や給仕をしないでちょうだいって。しかもすまし汁をこぼす粗相までして」
「!」

 絢乃の後方でナツの心臓が跳ねた。ナツは今朝、主人一家の朝餉の給仕を頼まれていたのだが、座敷に運ぶ途中で俄かな腹痛に襲われ、丁度庭掃除をしてた「蟲喰い」に問答無用で膳を渡して厠へ走ったのだ。彼女が給仕を禁じられていることは知らなかったが軽んじられていることは知っていたため、仕事を押し付けることに罪悪感はなかったし、勢いで汁が跳ねてもおかしくない。

 それならば、「蟲喰い」の不始末の原因はナツにもあることになる。

 仙女の背を見上げてナツは青褪めたが、その向こうの「蟲喰い」と目が合いそうになり、サッと視線を逸らした。「蟲喰い」がナツを告発したらどうすればいいのだろう。ナツまで絢乃から軽蔑の目で見られてしまう。仙女の期待を裏切ってしまう。

「何か言うことがあるのではなくて?」

 ナツの焦燥を置き去りに、仙女は若々しくも刺々しい声の矢を「蟲喰い」に放つ。それが、すべて「蟲喰い」が悪いと断罪しているようで、ナツは自己弁護を正当化することができた。

 悪いのは、抗議もせず膳を受け取って運び、おそらく不注意ですまし汁をこぼしたのであろう「蟲喰い」だ。断じてナツではない。ナツは、今後同じような失態を犯さないよう心しておくだけでいい。

 仙女の矢を額に受け、ナツの黙殺を悟った「蟲喰い」は、再び泥濘に手をついて頭を垂れた。

「……申し訳ございませんでした」
 
 感情の欠落した謝罪を、絢乃は鼻で笑い飛ばす。

「『泥棒猫の娘』でも、謝罪の言葉は知っているのね」
「……っ」

 母親を侮辱された「蟲喰い」は唇を引き結び眦を険しくした顔を半端に上げたが、居直ったナツは同情しなかった。婚約者のいる主家の若君と情を通じれば非難されるのは当然だろう。軽蔑の色も露わな眼差しを向ける。

「あら何その目。不満があるならこの家を、里を出て行っても構わないのよ。あたくしたちは別にあなたを閉じ込めているわけではないんだから。誰も引き止めないわ、みんなあなたなんか要らないの」
「…………」

 反抗的な反応を見咎めた絢乃の歌うような言葉に、「蟲喰い」のなけなしの覇気が萎む。仙女は艶っぽく笑った。

「そうよね、そんなことできないわよね」

 絢乃は手招きで従姉を軒先まで呼び、しとどに濡れた「蟲喰い」は濡縁の手前で改めて膝をついた。視線は俯き、あれでは東雲の裾、眩しい白足袋くらいしか見えないだろう。当然、色褪せた継ぎ接ぎの古着を纏う彼女は素足である。

これ(●●)がなくては、透子さんは生きていけないものね。────ほら」

 水仕事などとは無縁の絢乃のほっそりした手が、衿元から紙片を取り出してはらりと床板へと落とした。「蟲喰い」は文字のしたためられた紙片に腕を伸ばし、胸に押し抱く。

 その途端、蹴散らすように虫や烏たちは逃げていった。

 劇的な様子に、ナツは瞳を輝かせる。

(あれが、仙女様の術……!)

 蟲喰いは呪いではなく報いだから、仙女でも完全に解くことは難しい。けれどもああして、呪符で蟲を退けることはできる。血筋だけではない、桃瀬家の一人娘が仙女と尊ばれる由縁を間近で目の当たりにしたナツは、いっそう彼女に対する尊崇を深めた。

「…………いつも申し訳ございません……」

 膝を折ったまま、雨に消え入りそうな声で頭を下げる「蟲喰い」に、絢乃は冷たく命じた。

「下がりなさい。それと夕食は抜きよ、理由は言わなくても解るわね?」

 粗忽を赦された上に稀少な仙女の呪符を賜れるのであれば、雨の中の土下座も食事抜きも安いものだろう。むしろ、従姉とは言えそれだけの代償で奇跡を施す絢乃を寛容だとさえナツは思った。

「承知しました……」

「蟲喰い」の返答を聞き届けることなく、絢乃はナツを振り返り、「一緒に倉へ来てちょうだい、本を運ぶのを手伝ってもらいたくて呼んだのよ」と、雲間に透ける陽光のような微笑みを浮かべる。

「っ、はい!」

 ナツは慌てて立ち上がり、濡縁をしずしずと進む絢乃の後を追う。主屋と厨房の間の中庭にある倉で、絢乃が棚から抜き出す古書を預かりながら、ナツは改めて仙女を讃えた。

「先程の仙術、見事でした。素晴らしいものを見せていただきました!」
「大袈裟ね」

 興奮冷めやらぬナツに、手を止めた絢乃は眉尻を下げて苦笑する。悪鬼を退け妙薬を煎じる仙女からすれば、あの程度は造作もないことなのだろう。壁掛けの行灯に入れた霊火も、噂に聞く洋灯(ランプ)のように明るい。

「思えば透子さんも哀れな身の上よね。あんな女の娘に産まれて、しかも両親は早々に亡くなった上に『蟲喰い』なんて(ごう)を遺していったんだもの。けれどけじめはつけておかないとね。従姉妹同士でも、あたくしと透子さんでは立場が違うのだから」
「はい」

 ナツは素直に頷く。「蟲喰い」に憐れみを見せる仙女に心酔する一方で、ナツを含むすべての里人にとって、その「蟲喰い」は憐憫ではなく嫌悪の対象だった。明解なナツの反応をご満悦の表情で受け、絢乃は更に一冊をナツの腕に積む。

「このくらいにしておきましょうか」

 古書を紐解き研鑽を怠らない仙女に対する尊敬を新たにし、ナツは抱えた書物を絢乃の部屋へと運び入れる。

 雨の庭には、既に「蟲喰い」の姿はなかった。