その夜、栄螺の壺焼きや冬瓜の冷やし鉢、手鞠麩と三つ葉の吸い物などに舌鼓を打ち、食後の深蒸し茶の一杯めを空にしたところで、薄氷が言った。暦は立秋を過ぎ処暑を迎えたが、一部巻き上げた御簾の外の蒸し暑さは、今宵も熱帯夜を予感させた。こういう夜は薄荷湯で汗を流すのが気持ちいい。
「トーコ。明日、出掛けるぞ」
「え? はい、いってらっしゃいませ」
薄氷の外出はそう珍しくないし、行き先を告げないのもいつものことなので、透子も梨の入った蜜豆を木匙で掬いながら、当たり障りない見送りの言葉を述べるに留める。見た目も涼しく、後を引かないすっきりとした甘さだ。薄氷の膳を下げる瑠璃茉莉が驚いたように顔を上げた。
透子の反応で語弊に気づいたらしい薄氷は、軽く眉間を寄せて「そうではなく」と続ける。
「おまえも一緒に来るんだ」
「はあ。……はあ!?」
予想外のあまり、驚きが一瞬遅れた。匙を落とす醜態は辛うじて回避したが、透子はへどもどと言い返す。
「どうしたんですか急に。わたしのこと閉じ込めようとしたり連れ出そうとしたり」
「ですが真君、明日は御母堂様が梅酒をお届けにいらっしゃると」
「ああ。だから受け取って、不在を詫びておいてくれ」
「畏まりました」
「っ」
つい口を挟んだ瑠璃茉莉を一瞥し、薄氷は短く指示を出した。急須を手にした草薙が妹弟子の代わりに承り、彼女の腕を肘で軽く小突いて牽制する。兄妹弟子たちは、目配せで通じるものがあるようだった。
「それで、どこに行きたい? ……と言っても、トーコは仙界のことなど知らんか」
弟子たちへの対応を終わらせ、薄氷は改めて透子に問いかける。今度は透子が眉をひそめる番だった。行き先は未定なのに外出は既定だという不自然さは、出掛けたいと言うよりも洞府にいたくない、いさせたくないのではと感じた。
「鏡面の湖か瑠璃の洞窟でも見に行くか……? それとも雲海か……」
実際、候補を並べる薄氷の声にはまったく実が入っていない。余程来客と顔を合わせたくないのかと訝しんだが、透子はすぐにその疑問を意識の隅に追い遣り、ここぞとばかりに希望を挙げる。
「だったらわたし、っ、帝都に行きたいです!」
人界に行きたい、だとあからさますぎると思って具体的な地名を出したのだが、案の定薄氷はけんもほろろに却下した。
「駄目だ。別の場所で我慢しろ」
透子が早朝の森で出口を探すことを黙認してはいても、やはり本音を言えば一度手中にした桃姑を人界に戻したくはないらしい。しかし透子はめげずに、棒読みでわざとらしく駄々を捏ねた。
「あーあ、今のつれない物言い、ちょっと心が傷ついたなー。こういうのが積もり積もって、胃や肌が荒れたり若禿げができたりって躰の不調につながるんだろうなー」
「…………」
桃姑の心身の健康を人質にした駄々と言うよりも脅迫に、薄氷が額に筋を立てる。蒼い目が口ほどに「ふざけるなよ小娘」と言っていた。そこに瑠璃茉莉が割って入る。
「そしたらトーコ、好きな反物買ってきなさいよ。急いで仕立てれば衣替えに間に合うわ」
「ほらっ、マツリさんもこう言ってくれてるし!」
「トーコもそろそろ人界の味が恋しいんじゃないか?」
「ナギくんの料理には及ばないかもだけど、人界にも美味しいものいっぱいありますよ」
「…………っっっ」
草薙まで透子の味方に回り、多勢に無勢となった薄氷は幾許かの無言の抵抗ののちに白旗を振った。
「…………わかった、いいだろう」
ただし、と半ば投げ遣りな言葉が続く。
「明日は森へ出ずに仕度しろ。朝餉の前に出立するからな」
「はーい」
対する透子は明るく返事をして、蜜豆を平らげ緑茶をいただき夕餉を終えた。
「トーコ。明日、出掛けるぞ」
「え? はい、いってらっしゃいませ」
薄氷の外出はそう珍しくないし、行き先を告げないのもいつものことなので、透子も梨の入った蜜豆を木匙で掬いながら、当たり障りない見送りの言葉を述べるに留める。見た目も涼しく、後を引かないすっきりとした甘さだ。薄氷の膳を下げる瑠璃茉莉が驚いたように顔を上げた。
透子の反応で語弊に気づいたらしい薄氷は、軽く眉間を寄せて「そうではなく」と続ける。
「おまえも一緒に来るんだ」
「はあ。……はあ!?」
予想外のあまり、驚きが一瞬遅れた。匙を落とす醜態は辛うじて回避したが、透子はへどもどと言い返す。
「どうしたんですか急に。わたしのこと閉じ込めようとしたり連れ出そうとしたり」
「ですが真君、明日は御母堂様が梅酒をお届けにいらっしゃると」
「ああ。だから受け取って、不在を詫びておいてくれ」
「畏まりました」
「っ」
つい口を挟んだ瑠璃茉莉を一瞥し、薄氷は短く指示を出した。急須を手にした草薙が妹弟子の代わりに承り、彼女の腕を肘で軽く小突いて牽制する。兄妹弟子たちは、目配せで通じるものがあるようだった。
「それで、どこに行きたい? ……と言っても、トーコは仙界のことなど知らんか」
弟子たちへの対応を終わらせ、薄氷は改めて透子に問いかける。今度は透子が眉をひそめる番だった。行き先は未定なのに外出は既定だという不自然さは、出掛けたいと言うよりも洞府にいたくない、いさせたくないのではと感じた。
「鏡面の湖か瑠璃の洞窟でも見に行くか……? それとも雲海か……」
実際、候補を並べる薄氷の声にはまったく実が入っていない。余程来客と顔を合わせたくないのかと訝しんだが、透子はすぐにその疑問を意識の隅に追い遣り、ここぞとばかりに希望を挙げる。
「だったらわたし、っ、帝都に行きたいです!」
人界に行きたい、だとあからさますぎると思って具体的な地名を出したのだが、案の定薄氷はけんもほろろに却下した。
「駄目だ。別の場所で我慢しろ」
透子が早朝の森で出口を探すことを黙認してはいても、やはり本音を言えば一度手中にした桃姑を人界に戻したくはないらしい。しかし透子はめげずに、棒読みでわざとらしく駄々を捏ねた。
「あーあ、今のつれない物言い、ちょっと心が傷ついたなー。こういうのが積もり積もって、胃や肌が荒れたり若禿げができたりって躰の不調につながるんだろうなー」
「…………」
桃姑の心身の健康を人質にした駄々と言うよりも脅迫に、薄氷が額に筋を立てる。蒼い目が口ほどに「ふざけるなよ小娘」と言っていた。そこに瑠璃茉莉が割って入る。
「そしたらトーコ、好きな反物買ってきなさいよ。急いで仕立てれば衣替えに間に合うわ」
「ほらっ、マツリさんもこう言ってくれてるし!」
「トーコもそろそろ人界の味が恋しいんじゃないか?」
「ナギくんの料理には及ばないかもだけど、人界にも美味しいものいっぱいありますよ」
「…………っっっ」
草薙まで透子の味方に回り、多勢に無勢となった薄氷は幾許かの無言の抵抗ののちに白旗を振った。
「…………わかった、いいだろう」
ただし、と半ば投げ遣りな言葉が続く。
「明日は森へ出ずに仕度しろ。朝餉の前に出立するからな」
「はーい」
対する透子は明るく返事をして、蜜豆を平らげ緑茶をいただき夕餉を終えた。



