「トーコ、なんか食べたいものあるか?」
「……お昼ごはん食べ終わらないうちに次のごはんのこと訊かないでよ」

 邪気のない草薙の問いかけに、食後の水菓子に手を伸ばした透子は困り眉で応じる。瑠璃茉莉もしかつめらしく透子を援護した。

「そうよ、トーコにはもっと細心の注意を払って接しなさい」

 朝夕の薄氷だけでなく、昼食は瑠璃茉莉と草薙と共に食べる習慣が、いつの間にか定着していた。仙果の身辺の世話と食事の管理を受け持つ二人にとっては、これも修行の一環とも言えるが、桃姑の放つ甘い芳香に惹かれた側面も否定しきれないだろう。

 今日も、山菜と小海老の掻き揚げを乗せたうどんに、もずくの酢の物と胡麻豆腐の小鉢を添えた膳を川床の濡縁に並べて、賑やかな昼食を楽しんでいた。梅雨も空け、陽射しや渡る風は眩しいほどだが、木立の合間をすり抜けることで熾烈さは鳴りを潜め、爽涼さを川面にきらめかせている。そこに紫陽花がたわわな花で彩りを添えていた。龍宮洞は花の旬が人界よりも長く、いつでも目を楽しませてくれる。

 妹弟子の小言に、草薙は怒る様子もなくただ首を竦めた。

「解ってるさ、だから訊いてるんじゃないか。どうせなら好きなもの食わせてやりたいだろ」
「そうねえ……」

 それが、些事にこだわらない彼なりの気遣いらしかった。だから透子もきちんと応じようと、水菓子を頬張りながら考える。シンプルに皮を剥いただけの一口大の李は瑞々しく甘いが、種の周りだけは酸味が強い。

 桃瀬家での四年間は、好き嫌いを論じる余地もないほどひもじく侘しい食生活だった。それが今では、好物を気にかけ、一緒に食卓を囲んでくれる者たちがいる。……それらはすべて、透子が桃姑であるがゆえの気配りだとしても。十二年の平凡な幸せのあと、四年の悪意と偽善に固く閉ざした心には、間違いなく嬉しかった。

 食にうるさい薄氷が太鼓判を押すだけあって、草薙の料理はどれも文句なしに美味しい。透子の貧しい舌には勿体ないほどで、多少無理を押しても箸が進んでしまうくらいだ。

 勿論、レパートリーも豊富である。肉料理、卵料理、野菜料理、麺類、米類……和食ばかりなのは和風な趣きの洞府を鑑みても不自然ではないが、懐紙に種を出しながら透子はあることに思い至った。

「そう言えば、魚料理が全然出てこないのね」
「!」

 肉よりも和食に馴染み深い焼き魚や煮魚が食卓に並んだことはないし、刺身も海老や貝類ばかりだ。

 何気ない一言だったが、草薙と瑠璃茉莉は揃って硬直した。透子は怪訝に二人を見遣る。

「……なんかおかしいこと言った?」
「いや……」

 妙に煮え切らない草薙を庇うように、瑠璃茉莉がてきぱきと解説した。

「真君は鱗王の応龍、鱗ある者たちの長だもの。仙人仙女の長の王父と王母だって人を食べないでしょ」
「じゃあ、羽王は鳥肉や卵食べないし、毛王も宍肉食べないの?」
「だから、王たちの会食は気を遣うんだよな」

 透子の軽い驚きに、草薙は料理人としての気苦労の一端を偲ばせる溜め息をついた。それから表情と口調を取り繕って言い添える。

「あ、でも、それは王たちだけのことだからな。猛禽が小鳥を襲ったり、肉食獣が草食獣食ったりするのは自然の摂理だろ」
「そうそう、アタシたちは普通に魚食べるわよ。なんなら昨夜(ゆうべ)の賄いは鰻の蒲焼だったし」

 土用の丑というわけでもないだろうが、そう言って瑠璃茉莉は今度は草薙を補足した。数日前の餡子のなめらかなあんころ餅は土用餅だったのかもしれない。

「つい真君に合わせた献立になってたけどさ、魚食いたいならトーコの分は別につくるぞ?」
「せっかく健康的になってきたんだもの、遠慮しなくていいのよ」

 瑠璃茉莉の両手が朝顔尽くしの紗の袖口に滑り込み、透子の前腕をやわやわと揉む。適度な運動と食事と睡眠が功を奏し、この三ヶ月で透子は随分と垢抜けた。すらりと細身なのは骨格に因るところも大きいだろうが、少なくとも窶れた印象はなくなったと言っていい。

 瑠璃茉莉と草薙の修行は目に見えて結実した一方、透子自身の挑戦は一向に実を結ばなかった。まだ暗いうちに寝所を抜け出して森をひた走り、明るくなる頃に薄氷が迎えに来る、日々その繰り返しだ。払暁以外の時間には門を開けることができず、朝に一汗かくだけで終わってしまう。結果、食事の量も増え、早起きのために早寝する。実に健康的な生活で、いよいよ薄氷の思う壺である。

 透子も瑠璃茉莉の少し冷たい掌の感触を享受しながら、あまり深く考えずに笑った。

「大丈夫、ナギくんの料理はどれも美味しいし、今までどおりで充分」

 鱗王の前でその民とも言える魚を食するのも、礼を失した行いに思えた。

「そうか?」
「んーと、わたしあれ好き、蓮根の金平と芋餅と、入麺のお味噌汁。果物なら梨かな。あと……実は鰻や穴子も好きだから、お昼にときどき出してもらえると嬉しい」

 やや残念そうな草薙に、透子は急いで脳内の小箱をひっくり返す。これはその場凌ぎの嘘ではなく、本当の好物だった。母の手料理と、家族団欒の記憶が懐かしくこみ上げる。

「あら梨。真君と一緒ね」
(桃じゃないんだ……)

 薄氷が同席しない昼餉にも魚料理が供されなかったのは、いずれ透子を喰らう鱗王への配慮だったのだろう。そこに魚ばかり要求するのも子供じみた反発だが、かと言って完全に魚断ちして十八歳の日に備えるのもおかしな話だ。ここは遠慮なく、好きなものを食べさせてもらうとしよう。

「暑気あたりに気をつけないといけない季節だしねえ。運動は無理のない範囲で、旬のものしっかり食べて体力つけなさいよ」
「薬膳って、暑気あたりにも効果あるのかな」
「トーコは薬膳に興味あるのか?」
「まあ、ちょっとね」
「この前図書殿から借りてきた本がそんなのだったわね」

 日中が手持ち無沙汰なのは相変わらずのため、雨の日に限らず、透子は図書殿にたびたび足を運んでいた。冊数も種類も豊富で、絢乃がここを訪れたら、透子以上に目を輝かせたに違いない。

 世間の混乱や弾圧から守り抜いた歴代の書物宝物を収めていた桃瀬家の倉は、あの夜、屋敷ともども焼失してしまった。彼らは、自らの誇りの基盤を失ったわけだ。透子を粗雑に扱ったせいで大変な奇禍に遭った桃瀬家は、今頃どうしているだろう。間もなく七月も終わりだが、子爵家との祝言は無事執り行われたのだろうか、とさして感傷も伴わないまま透子は考え、すぐに放棄する。

「そう言えば、真君って魚以外はなんでも食べるよね」
「ああ。ご自身が仰るには甘党らしいけど、辛いものも普通に召し上がるぞ」

 桃瀬家、特に現代の仙女を自負する絢乃は、修行として五穀断ちが常で、時には断食も行っていた。だが穀類も肉類もよく食べる鱗王を見てしまうと、なんとも言えない心地になる。

 そもそも従妹は、古書を軽く読むだけで呪符や霊薬をつくれる才能に頼りきっているところがあり、修行もそれほど真摯に取り組んでいるわけではなかった。証拠に、水垢離や奥駈けなどの苦行には一切手を出していない。よく言えば天才肌、悪く言えば努力知らずということだ。

 そして、透子が薬膳……というか薬草や医術に関する仙術書に興味を持ったのは、父母を共に病で亡くしたからであった。だがそのような暗い話をここで明かす必要はない。

 昼食を終え、川床に一人残った透子は、裸足の爪先を川面に垂らして読書を始めた。軒下には、少し前に「風鈴があったらもっと風情が出るよね」と漏らした翌日早速手配された青い切子硝子の風鈴が、夏風の愛撫に揺れて涼しい音を奏でている。降るような蝉の声も、慣れてしまえば如何にも夏の風物詩だ。

 医食同源に関する本の頁をめくりながらも、そこに並ぶ文字や図解以上に透子の脳裏を占めていたのは、以前仙果のことを調べるために読んだ書物の文面だった。

 食せば不老長寿の仙になる神性を秘め、治癒や延命を促す霊薬でもあり、それがゆえに大小無数の物の怪、時には同胞の道士にすら狙われる芳しき仙果。誰しもの垂涎の的である桃姑を、既に昇仙し、鱗族の王に登極した薄氷は、「美味だから」という一点のみで求めている。それはある意味、とても純粋な想いかもしれないが、だからと言って絆されるわけにはいかない。捕食側の思惑がどうであれ、被食側の末路は同じだ。

 そんな仙果を朝廷が庇護していた時期があることは、既に瑠璃茉莉から聞いていた。だが彼らは総じて短命で、二十五を迎えれば御の字、三十を越えた記録はないという。完熟を過ぎ、実が腐り落ちるように。或いは、薬も過ぎれば毒となるように、自らを蝕むのかもしれない。

 本物の果実であれば種が残る。けれど仙果はただ死ぬだけ。まるで、食べられるためだけに生まれてきたようなものではないか。

(……それでも)

 あと十年も生きられないことが、一年後に喰われてもいい理由にはならない。

 だから透子は昨日も今日も、そして明日も、生きるために逃げようと足掻くのだ。