その夜を境に少しずつ打ち解けた会話が増え、十日も経つ頃には、互いの膳に箸を伸ばせるほどの距離に懸盤を並べるようになっていた。
「しかし相変わらず食が細いな。肌艶はよくなってきたが……」
透子の膳から椎茸の肉詰めを失敬し、薄氷は指の背で透子の頬を撫でる。透子は表向き動揺を見せず、葛饅頭を献上しながら澄ました顔で応じた。
「だから言ったでしょう。何もすることがないから、おなかも空かないんです」
この小閣自体が付喪神なのか、御簾や蔀戸は合図ひとつで開閉するし、座敷や濡縁には常に塵ひとつなかった。着物を手入れしたり布団を干したりしてくれる瑠璃茉莉を手伝おうにも、修行だからと言われると仕事だからと言われるより手を出しづらい。結局着付けや髪洗いも任せきりで、肌の荒れや髪の傷みが改善されたのは彼女の修行の成果と言えた。絹や紬の肌触りにもようやく慣れてきたところである。
草薙もよく心得たもので、すぐさま現在の透子にとっての適量を把握し、朝夕はそれよりも気持ち多めに盛り付けるようになった。少しずつ食べる量を増やしていけるようにという配慮と、薄氷へのお裾分けを考慮した結果だろう。薄氷も決して透子の膳を食い尽くすことはなく、配分というものを知っている。
そう考えると、上等な着物を着ることで身が引き締まり、装いに恥じない振る舞いを心がけるようになることも理に叶っているのかもしれない。瑠璃茉莉は透子に似合うと思って見立ててくれているのだから、自分では相応しくないと背を丸めるよりも、相応しくなれるようにと背を伸ばしているほうが好印象だと思う。
そもそも透子に言わせれば、自分の少食なのではなく薄氷が大食漢なのだ。そのくせ無駄な贅肉は一切なく、触れる指先にすら強靭さと優美さを感じさせる。
(……いや、むしろ本性が龍だと思えば、逆にこの程度で足りるの? そこはまた別次元の話……?)
自力では解明できそうもない疑問を浮かべた透子の頬をもう一度撫で、薄氷は下りた御簾を見遣った。梅雨入りの前触れか、昼過ぎに降り始めた篠突く雨は次第に勢いを弱め、今はかなり控えめな雨脚になっている。
「雨の日は本を読んで暮らしたいと言っていたな。読書が好きなのか」
「好きか嫌いかで言えば、好きなほうです」
学校の勉強もそれほど嫌いではなかった。新しいことを知ることは楽しく、教師の評価は概ね「好奇心の強い子」だった。
「なら、南郭に図書殿がある。おまえが好むような本があるかは知らんが、好きに読めばいい」
意外な許可に、透子は敬語も忘れて訊き返した。
「いいの?」
「閲覧や持ち出しを禁じるような本はそこに置いていないから構わん」
一方的に用意するのではなく好きなものを選んでいいというあたり、桃姑の自我を多少なりと尊重してくれるようになったらしい。この風向きの変化を逃すまいと透子は懇願する。
「じゃあ、晴れた日は外に出掛けてもいい? 気晴らしに人里へ遊びに行くとか」
「それは駄目だ」
柚子と鶏肉団子の清まし汁の椀を空けた薄氷の返答は取り付く島もなかった。だが簡単に許可が下りないのも想定内で、透子は更に食い下がる。
「ならせめて森の中。別に一日中じゃなくても、これから暑くなるから朝方や夕方に小一時間程度軽く走るのとか、食事前のいい運動になると思うんですよね」
「……確かに、よく動いてよく食べてよく眠るのは健康の基本だな」
「でしょう?」
敢えて先に絶対断られるだろう提案をしたおかげか、薄氷は態度をやや軟化させた。透子が知る由もないが、こういう手法をドアインザフェイスと言うらしい。寝殿での一件以来、渓流沿いを歩くのも気まずく小閣に籠もりきりであることも、従順さと運動不足の証になるだろう。
「下手に洞内を歩き回られて弟子たちの修行の妨げになるのも考えものだしな……」
殆ど口の中だけで呟き、僅かに考え込んだのち、薄氷は決断を下した。
「────いいだろう。朝なら早起きにもつながるし、目も頭も冴えて丁度いい。身体を動かせば食も進むはずだ」
「本当ですか!」
半ば駄目で元々、当たって砕けろの精神で持ちかけた話だっただけに、望外の結果だった。思わず歓声でなく確認の言葉を返してしまったくらいだ。
「言っただろう、トーコの望むことはなんでも叶えてやる」
そう笑う鱗王の顔は文句なしに麗しかったが、腹に一物抱えているような印象も否めなかった。蒼い瞳に、透子の反応を楽しむような光が揺れる。
「これがあれば滅多なこともないしな。朝餉の準備が整う頃に俺が迎えに行ってやるから、迷っても大丈夫だ」
箸を置いて伸ばされた指に今度は額を……授けられた鱗を優しく撫でられ、透子は薄氷の意図を挑発と受け取った。「逃げられるものなら逃げてみろ」と────。
考えてみれば、薄氷は本来、仙果を育てるつもりはなかったのだ。蟲除けと目印をつけておいて、完熟の頃に収穫するだけのはずだったのに、透子の置かれた環境があまりにも劣悪で、生育に難があると判断したから早めに引き取ったに過ぎない。もし透子が今も両親と帝都で平穏に暮らしていたら、何も知らず十八歳になり、訳も解らず喰われて終わりだっただろう。
そして逃亡に成功したとしても、額の鱗がある限り透子は薄氷の監視下にある。万全を期すため、また式鬼も憑けられるかもしれない。
希望を餌に、桃姑に適度な運動をさせて適切な食事を摂らせる。透子が逃げても逃げられなくても薄氷に不利益はない。
そんな余裕に充ち満ちているのだろう提言を、透子は無邪気なふりをして歓迎した。
「じゃあお言葉に甘えて、ありがとうございます。朝の森って走ると気持ちよさそう」
逃げられるものなら逃げてみろ。かつて仙女の従妹に似たようなことを言われる度に、焦りと惨めさを噛み締めた。それが今、妙な高揚を覚えるのは、一度「わかりました、ではさようなら」と笑って言い返す妄想をしたせいだろうか。
座して死を待つつもりなどない。どう事態が転んでもすべて掌の上と言わんばかりの秀麗で不遜な顔に、吠え面かかせてみせようではないか。
透子の本音と建前を正しく理解し、薄氷は小さく笑って葛饅頭に黒文字を刺し入れる。
「なら、朝はトーコも門が開けられるようにしておこう」
「よろしくお願いします」
薄氷が透子を見縊っているのであれば、透子はその油断に便乗するまでのこと。それなりに時間のかかる挑戦になるだろうし、完全に監視を振り切る方法は逃げ道を探りながら考えればいい。とにかく、まずは出口を見つけることだ。
いくらかの制約はあるものの、こうして透子は仙界における自由を手に入れた。
それから一ヶ月、なんの糸口も掴めないまま、透子は十七の歳を迎えた。
「しかし相変わらず食が細いな。肌艶はよくなってきたが……」
透子の膳から椎茸の肉詰めを失敬し、薄氷は指の背で透子の頬を撫でる。透子は表向き動揺を見せず、葛饅頭を献上しながら澄ました顔で応じた。
「だから言ったでしょう。何もすることがないから、おなかも空かないんです」
この小閣自体が付喪神なのか、御簾や蔀戸は合図ひとつで開閉するし、座敷や濡縁には常に塵ひとつなかった。着物を手入れしたり布団を干したりしてくれる瑠璃茉莉を手伝おうにも、修行だからと言われると仕事だからと言われるより手を出しづらい。結局着付けや髪洗いも任せきりで、肌の荒れや髪の傷みが改善されたのは彼女の修行の成果と言えた。絹や紬の肌触りにもようやく慣れてきたところである。
草薙もよく心得たもので、すぐさま現在の透子にとっての適量を把握し、朝夕はそれよりも気持ち多めに盛り付けるようになった。少しずつ食べる量を増やしていけるようにという配慮と、薄氷へのお裾分けを考慮した結果だろう。薄氷も決して透子の膳を食い尽くすことはなく、配分というものを知っている。
そう考えると、上等な着物を着ることで身が引き締まり、装いに恥じない振る舞いを心がけるようになることも理に叶っているのかもしれない。瑠璃茉莉は透子に似合うと思って見立ててくれているのだから、自分では相応しくないと背を丸めるよりも、相応しくなれるようにと背を伸ばしているほうが好印象だと思う。
そもそも透子に言わせれば、自分の少食なのではなく薄氷が大食漢なのだ。そのくせ無駄な贅肉は一切なく、触れる指先にすら強靭さと優美さを感じさせる。
(……いや、むしろ本性が龍だと思えば、逆にこの程度で足りるの? そこはまた別次元の話……?)
自力では解明できそうもない疑問を浮かべた透子の頬をもう一度撫で、薄氷は下りた御簾を見遣った。梅雨入りの前触れか、昼過ぎに降り始めた篠突く雨は次第に勢いを弱め、今はかなり控えめな雨脚になっている。
「雨の日は本を読んで暮らしたいと言っていたな。読書が好きなのか」
「好きか嫌いかで言えば、好きなほうです」
学校の勉強もそれほど嫌いではなかった。新しいことを知ることは楽しく、教師の評価は概ね「好奇心の強い子」だった。
「なら、南郭に図書殿がある。おまえが好むような本があるかは知らんが、好きに読めばいい」
意外な許可に、透子は敬語も忘れて訊き返した。
「いいの?」
「閲覧や持ち出しを禁じるような本はそこに置いていないから構わん」
一方的に用意するのではなく好きなものを選んでいいというあたり、桃姑の自我を多少なりと尊重してくれるようになったらしい。この風向きの変化を逃すまいと透子は懇願する。
「じゃあ、晴れた日は外に出掛けてもいい? 気晴らしに人里へ遊びに行くとか」
「それは駄目だ」
柚子と鶏肉団子の清まし汁の椀を空けた薄氷の返答は取り付く島もなかった。だが簡単に許可が下りないのも想定内で、透子は更に食い下がる。
「ならせめて森の中。別に一日中じゃなくても、これから暑くなるから朝方や夕方に小一時間程度軽く走るのとか、食事前のいい運動になると思うんですよね」
「……確かに、よく動いてよく食べてよく眠るのは健康の基本だな」
「でしょう?」
敢えて先に絶対断られるだろう提案をしたおかげか、薄氷は態度をやや軟化させた。透子が知る由もないが、こういう手法をドアインザフェイスと言うらしい。寝殿での一件以来、渓流沿いを歩くのも気まずく小閣に籠もりきりであることも、従順さと運動不足の証になるだろう。
「下手に洞内を歩き回られて弟子たちの修行の妨げになるのも考えものだしな……」
殆ど口の中だけで呟き、僅かに考え込んだのち、薄氷は決断を下した。
「────いいだろう。朝なら早起きにもつながるし、目も頭も冴えて丁度いい。身体を動かせば食も進むはずだ」
「本当ですか!」
半ば駄目で元々、当たって砕けろの精神で持ちかけた話だっただけに、望外の結果だった。思わず歓声でなく確認の言葉を返してしまったくらいだ。
「言っただろう、トーコの望むことはなんでも叶えてやる」
そう笑う鱗王の顔は文句なしに麗しかったが、腹に一物抱えているような印象も否めなかった。蒼い瞳に、透子の反応を楽しむような光が揺れる。
「これがあれば滅多なこともないしな。朝餉の準備が整う頃に俺が迎えに行ってやるから、迷っても大丈夫だ」
箸を置いて伸ばされた指に今度は額を……授けられた鱗を優しく撫でられ、透子は薄氷の意図を挑発と受け取った。「逃げられるものなら逃げてみろ」と────。
考えてみれば、薄氷は本来、仙果を育てるつもりはなかったのだ。蟲除けと目印をつけておいて、完熟の頃に収穫するだけのはずだったのに、透子の置かれた環境があまりにも劣悪で、生育に難があると判断したから早めに引き取ったに過ぎない。もし透子が今も両親と帝都で平穏に暮らしていたら、何も知らず十八歳になり、訳も解らず喰われて終わりだっただろう。
そして逃亡に成功したとしても、額の鱗がある限り透子は薄氷の監視下にある。万全を期すため、また式鬼も憑けられるかもしれない。
希望を餌に、桃姑に適度な運動をさせて適切な食事を摂らせる。透子が逃げても逃げられなくても薄氷に不利益はない。
そんな余裕に充ち満ちているのだろう提言を、透子は無邪気なふりをして歓迎した。
「じゃあお言葉に甘えて、ありがとうございます。朝の森って走ると気持ちよさそう」
逃げられるものなら逃げてみろ。かつて仙女の従妹に似たようなことを言われる度に、焦りと惨めさを噛み締めた。それが今、妙な高揚を覚えるのは、一度「わかりました、ではさようなら」と笑って言い返す妄想をしたせいだろうか。
座して死を待つつもりなどない。どう事態が転んでもすべて掌の上と言わんばかりの秀麗で不遜な顔に、吠え面かかせてみせようではないか。
透子の本音と建前を正しく理解し、薄氷は小さく笑って葛饅頭に黒文字を刺し入れる。
「なら、朝はトーコも門が開けられるようにしておこう」
「よろしくお願いします」
薄氷が透子を見縊っているのであれば、透子はその油断に便乗するまでのこと。それなりに時間のかかる挑戦になるだろうし、完全に監視を振り切る方法は逃げ道を探りながら考えればいい。とにかく、まずは出口を見つけることだ。
いくらかの制約はあるものの、こうして透子は仙界における自由を手に入れた。
それから一ヶ月、なんの糸口も掴めないまま、透子は十七の歳を迎えた。



