「────申し訳ございません!」
龍宮洞の寝殿は、規模こそ違えど、透子の暮らす小閣と似たような構造だった。こんもりと緑豊かな庭の眺望も見事だが、磨き上げられた濡縁にその新緑が映り込む様子は息を呑むほどだ。
その濡縁に上がることも赦されず、瑠璃茉莉は優美な遣水の流れる庭に額を擦りつけ、上段に立つ師父にひたすらに罪を詫びた。
桃姑が無事に帰還したことで雷雨の気配はひとまず収まったものの、空はまだ濃淡の灰色に塗り固められている。もうひと波乱を予感させるには充分な空模様だった。
まさに嵐の前の静けさといった面持ちで、鱗王は仙果を託した弟子を見下ろす。その犀利な横顔を、当の仙果たる透子は、床緑に正座し固唾を呑んで見つめていた。周囲は人払いされ、今は三人しかこの場にはいない。
やがて不穏な沈黙を破り、薄氷が口を開く。雷霆の如き烈しさはないが、空を裂くに足りる鋭さだった。
「────言い訳を並べ立てないのは見上げた心がけだが、自分が何をしたかは解っているな」
「真君の御下命と信頼に背き、仙果を損ね逃がしかねない愚を犯しました」
顔を伏せたまま、瑠璃茉莉は整然と返す。その声も肩も強張っていたものの、震えてはいなかった。
「如何なる罰も覚悟しております」
「……いいだろう。顔を上げろ」
命令に従い、瑠璃茉莉は身を起こした。自らの言葉を証明するように、揺るぎない眼差しで師父だけを見返し、透子には一瞥も寄越さない。だがその清冽さに居たたまれなくなったのは透子のほうだった。
透子が瑠璃茉莉を唆さなければ、彼女が鱗王に詫びるような事態にはならなかった。それなのに彼女は、透子に外出を強要されたことを一切口にしなかった。言い訳ひとつせず罰を受諾するつもりでいる。
理由はどうあれ咎は咎。言葉を弄して無理強いしたのは透子だが、最終的に従ったのは瑠璃茉莉の責。生真面目な瑠璃茉莉はそう考えて一人で罪を負う所存なのだろうし、透子自身、そう自分に言い聞かせることもできた。桃瀬家で透子が彼女と似た立場に置かれたときも、救いの手は差し伸べられなかった。
────けれど、透子はそれをしたくなかった。
咄嗟に透子は裸足で庭に降りた。驚く二対の青眼に構わず、瑠璃茉莉の左隣で地面に両手両膝をついて言上する。
「ごめんなさい! わたしが無理言って外に出してもらったんです! 瑠璃茉莉さんは最初拒否したのに、わたしが真君の庇護を笠に着て押し切ったの!」
「トーコ!」
突如割り込んできた透子に、瑠璃茉莉が声を上擦らせたが、薄氷は動じず冷淡に問い質す。愛玩物と思えばこそ、逆らった桃姑に容赦はなかった。
「自由に育てたかったが、甘やかしすぎだったな。足の腱を切ると傷んで味が落ちるから、枷を嵌めて楼閣の最上階に閉じ籠めるか」
「冗談じゃないわよ!」
病的な執着に、怯えよりも怒りが勝った。売り言葉に買い言葉でここまで歯向かったのなら毒を喰らわば皿まで、透子は龍宮洞で溜まりに溜まった感情を洗いざらいぶちまける。
「そもそも逃げる逃げない以前に、何もすることがないって退屈通り越して苦痛なの! なのに三食しっかり出されるから半分以上捨てる破目になるし! 好きなことしていいって言うなら、外に出たい! 学校行きたい! 百貨店で買い物したいしあわよくば端から端まで全部くださいって言ってみたい! 晴れた日は外に出掛けて雨の日はゆっくり本を読むような、悠々自適な暮らしがしたい!!」
「……!」
群青の双眸に怒気が漲った。そこに、透廊の陰から人影が転がり出て、瑠璃茉莉の右隣に膝を折る。
「真君、オレからもお願いします、どうか寛大な処分を!」
「ナギ、あんたまで……!」
瑠璃茉莉が再び声を詰まらせた。風にさやぐ濃緑の梢を思わせる髪の少年に、透子も見覚えがある。いつも食膳を整えてくれる、薄氷に草薙と呼ばれていた彼だ。妹弟子を庇うため、自らも神罰を被る覚悟で出てきたのだろう。
白洲ならぬ苔の庭で裁きを待つ三人に対し、剄烈な蒼の眼差しがただ一人に注がれる。
「おまえ、今、なんて言った……?」
「……っ」
研ぎ澄まされた群青に射抜かれ、透子は目を伏せたくなる怯懦の心を必死に堪えた。言いたい放題言い過ぎた愚行への猛省はあるが、瑠璃茉莉を見捨てられなかった愚直に後悔はなかった。
稲妻よりも鮮やかな声が閃く。
「────草薙!」
「はいっ!」
予想外に名を呼ばれ、草薙は鞭で打たれたように姿勢を正した。そこに厳命が下る。
「明日、いや今夜から、俺の朝夕の膳もトーコの座敷に運べ、いいな」
「はい!?」
想定外も甚だしい命令に対して跳ね上がった語尾を、風を切るような声が打ち消した。
「飯を棄てているだと? ふざけるな、残すくらいなら俺が食う!」
何が王龍の逆鱗に触れたかを知った三人は、心の中で唱和した。
(そこなの!?)
「解ったら下がって各々の修行に励め」
本当にそれだけで場を収め、薄氷は長い髪を鰭の如く翻し、寝殿の端から伸びる透廊、その先の透橋を南郭へと渡っていった。残された三人はその場に座り込んだまま、洞主の姿が木立に呑み込まれてようやく緊張を解く。
「……無茶したわねアンタたち」
呆れと安堵を籠めた吐息と共に呟いた瑠璃茉莉に、透子は言葉に窮しながらも応じた。
「だって……。なんで言わなかったの、無理やり言うこと聞かされたんだって」
「言えるわけないでしょ。アタシの修行は、アンタをとびきりの仙果に育て上げること。鎖に繋がれて幽閉されるのはあまりにも不健全だもの。これ以上真君の信頼を裏切れないわ」
「でも真君も心配性だよな。仙界と人界が通じやすいのは昼よりも夜、日の入りから日の出の間なのに」
「ナギ!」
「やべっ」
つい口を滑らせた草薙を黙らせるように、瑠璃茉莉が厳しく睨みつける。草薙は慌てて口を押さえたが、透子は彼の失言を聞き逃さなかった。暮れ方から明け方。確かに夕方は、別名を逢魔が刻などと言い、彼岸と此岸が混ざり合う時間帯だ。
「アンタ本当、考えるより先に躰と口が動くのなんとかしなさいよ。だから、歳も修行歴もアンタのほうが上なのにアタシのほうがずっとしっかりして見えるって言われちゃうのよ」
口先では苦言をこぼしながらも、瑠璃茉莉は泣き笑いの表情を浮かべて透子と草薙の手をそれぞれ握った。
「────でも、ありがと。嬉しかった」
「……ごめんね」
「アタシはもういいから。それよりナギに謝りなさいよ」
瑠璃茉莉に促され、透子は初めてきちんと草薙と向き合う。
「ごめんなさい、せっかくつくってくれたごはん、いつも捨ててて……」
「改めて言われると結構堪えるな……。まあでも、毎回完食するのは真君くらいだから」
深緑の髪と新緑の瞳は、負けん気が強くやや幼い印象だったが、意外と大人の対応で透子の謝罪を許してくれた。
「マツリも絶対茗荷と銀杏残すもんな」
「だから余計なことは言わなくていいのよ!」
しかし指摘された端からいらない一言を加えたばかりに瑠璃茉莉に噛み付かれる。二人とも、大人びた面と子供じみた面があり、兄妹のようにも姉弟のようにも見えた。
常緑の庭に明るい笑い声が満ちる。
壺中の天には、いつの間にか晴れ間が広がっていた。
龍宮洞の寝殿は、規模こそ違えど、透子の暮らす小閣と似たような構造だった。こんもりと緑豊かな庭の眺望も見事だが、磨き上げられた濡縁にその新緑が映り込む様子は息を呑むほどだ。
その濡縁に上がることも赦されず、瑠璃茉莉は優美な遣水の流れる庭に額を擦りつけ、上段に立つ師父にひたすらに罪を詫びた。
桃姑が無事に帰還したことで雷雨の気配はひとまず収まったものの、空はまだ濃淡の灰色に塗り固められている。もうひと波乱を予感させるには充分な空模様だった。
まさに嵐の前の静けさといった面持ちで、鱗王は仙果を託した弟子を見下ろす。その犀利な横顔を、当の仙果たる透子は、床緑に正座し固唾を呑んで見つめていた。周囲は人払いされ、今は三人しかこの場にはいない。
やがて不穏な沈黙を破り、薄氷が口を開く。雷霆の如き烈しさはないが、空を裂くに足りる鋭さだった。
「────言い訳を並べ立てないのは見上げた心がけだが、自分が何をしたかは解っているな」
「真君の御下命と信頼に背き、仙果を損ね逃がしかねない愚を犯しました」
顔を伏せたまま、瑠璃茉莉は整然と返す。その声も肩も強張っていたものの、震えてはいなかった。
「如何なる罰も覚悟しております」
「……いいだろう。顔を上げろ」
命令に従い、瑠璃茉莉は身を起こした。自らの言葉を証明するように、揺るぎない眼差しで師父だけを見返し、透子には一瞥も寄越さない。だがその清冽さに居たたまれなくなったのは透子のほうだった。
透子が瑠璃茉莉を唆さなければ、彼女が鱗王に詫びるような事態にはならなかった。それなのに彼女は、透子に外出を強要されたことを一切口にしなかった。言い訳ひとつせず罰を受諾するつもりでいる。
理由はどうあれ咎は咎。言葉を弄して無理強いしたのは透子だが、最終的に従ったのは瑠璃茉莉の責。生真面目な瑠璃茉莉はそう考えて一人で罪を負う所存なのだろうし、透子自身、そう自分に言い聞かせることもできた。桃瀬家で透子が彼女と似た立場に置かれたときも、救いの手は差し伸べられなかった。
────けれど、透子はそれをしたくなかった。
咄嗟に透子は裸足で庭に降りた。驚く二対の青眼に構わず、瑠璃茉莉の左隣で地面に両手両膝をついて言上する。
「ごめんなさい! わたしが無理言って外に出してもらったんです! 瑠璃茉莉さんは最初拒否したのに、わたしが真君の庇護を笠に着て押し切ったの!」
「トーコ!」
突如割り込んできた透子に、瑠璃茉莉が声を上擦らせたが、薄氷は動じず冷淡に問い質す。愛玩物と思えばこそ、逆らった桃姑に容赦はなかった。
「自由に育てたかったが、甘やかしすぎだったな。足の腱を切ると傷んで味が落ちるから、枷を嵌めて楼閣の最上階に閉じ籠めるか」
「冗談じゃないわよ!」
病的な執着に、怯えよりも怒りが勝った。売り言葉に買い言葉でここまで歯向かったのなら毒を喰らわば皿まで、透子は龍宮洞で溜まりに溜まった感情を洗いざらいぶちまける。
「そもそも逃げる逃げない以前に、何もすることがないって退屈通り越して苦痛なの! なのに三食しっかり出されるから半分以上捨てる破目になるし! 好きなことしていいって言うなら、外に出たい! 学校行きたい! 百貨店で買い物したいしあわよくば端から端まで全部くださいって言ってみたい! 晴れた日は外に出掛けて雨の日はゆっくり本を読むような、悠々自適な暮らしがしたい!!」
「……!」
群青の双眸に怒気が漲った。そこに、透廊の陰から人影が転がり出て、瑠璃茉莉の右隣に膝を折る。
「真君、オレからもお願いします、どうか寛大な処分を!」
「ナギ、あんたまで……!」
瑠璃茉莉が再び声を詰まらせた。風にさやぐ濃緑の梢を思わせる髪の少年に、透子も見覚えがある。いつも食膳を整えてくれる、薄氷に草薙と呼ばれていた彼だ。妹弟子を庇うため、自らも神罰を被る覚悟で出てきたのだろう。
白洲ならぬ苔の庭で裁きを待つ三人に対し、剄烈な蒼の眼差しがただ一人に注がれる。
「おまえ、今、なんて言った……?」
「……っ」
研ぎ澄まされた群青に射抜かれ、透子は目を伏せたくなる怯懦の心を必死に堪えた。言いたい放題言い過ぎた愚行への猛省はあるが、瑠璃茉莉を見捨てられなかった愚直に後悔はなかった。
稲妻よりも鮮やかな声が閃く。
「────草薙!」
「はいっ!」
予想外に名を呼ばれ、草薙は鞭で打たれたように姿勢を正した。そこに厳命が下る。
「明日、いや今夜から、俺の朝夕の膳もトーコの座敷に運べ、いいな」
「はい!?」
想定外も甚だしい命令に対して跳ね上がった語尾を、風を切るような声が打ち消した。
「飯を棄てているだと? ふざけるな、残すくらいなら俺が食う!」
何が王龍の逆鱗に触れたかを知った三人は、心の中で唱和した。
(そこなの!?)
「解ったら下がって各々の修行に励め」
本当にそれだけで場を収め、薄氷は長い髪を鰭の如く翻し、寝殿の端から伸びる透廊、その先の透橋を南郭へと渡っていった。残された三人はその場に座り込んだまま、洞主の姿が木立に呑み込まれてようやく緊張を解く。
「……無茶したわねアンタたち」
呆れと安堵を籠めた吐息と共に呟いた瑠璃茉莉に、透子は言葉に窮しながらも応じた。
「だって……。なんで言わなかったの、無理やり言うこと聞かされたんだって」
「言えるわけないでしょ。アタシの修行は、アンタをとびきりの仙果に育て上げること。鎖に繋がれて幽閉されるのはあまりにも不健全だもの。これ以上真君の信頼を裏切れないわ」
「でも真君も心配性だよな。仙界と人界が通じやすいのは昼よりも夜、日の入りから日の出の間なのに」
「ナギ!」
「やべっ」
つい口を滑らせた草薙を黙らせるように、瑠璃茉莉が厳しく睨みつける。草薙は慌てて口を押さえたが、透子は彼の失言を聞き逃さなかった。暮れ方から明け方。確かに夕方は、別名を逢魔が刻などと言い、彼岸と此岸が混ざり合う時間帯だ。
「アンタ本当、考えるより先に躰と口が動くのなんとかしなさいよ。だから、歳も修行歴もアンタのほうが上なのにアタシのほうがずっとしっかりして見えるって言われちゃうのよ」
口先では苦言をこぼしながらも、瑠璃茉莉は泣き笑いの表情を浮かべて透子と草薙の手をそれぞれ握った。
「────でも、ありがと。嬉しかった」
「……ごめんね」
「アタシはもういいから。それよりナギに謝りなさいよ」
瑠璃茉莉に促され、透子は初めてきちんと草薙と向き合う。
「ごめんなさい、せっかくつくってくれたごはん、いつも捨ててて……」
「改めて言われると結構堪えるな……。まあでも、毎回完食するのは真君くらいだから」
深緑の髪と新緑の瞳は、負けん気が強くやや幼い印象だったが、意外と大人の対応で透子の謝罪を許してくれた。
「マツリも絶対茗荷と銀杏残すもんな」
「だから余計なことは言わなくていいのよ!」
しかし指摘された端からいらない一言を加えたばかりに瑠璃茉莉に噛み付かれる。二人とも、大人びた面と子供じみた面があり、兄妹のようにも姉弟のようにも見えた。
常緑の庭に明るい笑い声が満ちる。
壺中の天には、いつの間にか晴れ間が広がっていた。



