しかし続く二日は、やはり瑠璃茉莉の幸、透子の不幸の雨模様で、仙境にも雨や雪が降るのかという軽い驚きと共に、透子は座敷に籠もっていた。「この鱗がある限り、こっそり出て行こうとしてもすぐに判るんだからね」と、瑠璃茉莉に額をつつくふりで牽制されたせいでもある。それでも、雨宮という別名を持つだけあって、軒を打つ雨音や川面に無数に描かれる波紋などには、憂鬱なだけではない静かな風情があった。
そして二日ぶりの晴天、朝餉の準備を待つ間も着替えの最中も、もう見るからにうずうずしていた透子に、髪結いを終えた瑠璃茉莉は据わった目を向ける。
「……アンタさあ、ここから逃げ出そうとか考えてない?」
「え!?」
前置きなく問い質されて透子は思わず声を詰まらせたが、返答を待たず瑠璃茉莉は呆れたように続けた。
「いやまあ解るわよ。虫や獣だって食べられそうになったら逃げるからね」
「…………」
素直に肯定するべきか虚偽の否定をするべきか、判断に迷った透子を見て、瑠璃茉莉が盛大に溜め息を吐いた。
「────しょうがないわね、行きましょ」
「え?」
「下手なことされるより、逃げられないって理解してもらったほうがいいわ」
言って、透子についてくるように促す。これまでは瑠璃茉莉が透子の後ろを歩いていたから、初めて前後が逆転した。
郭を区切る渓谷に架かる透橋の踊り場から洞内を見渡し、瑠璃茉莉がつらつらと説明する。白花の季節を終えた桜の木々は、しなやかな青葉をたっぷりと繁らせていた。
「この洞府は壺中天だから、正規の門以外、たとえば生垣を突っ切って外に出ようとすると、何処でもない狭間で未来永劫迷い続けることになるの。そうなると、アタシは勿論、真君でも助けられないわ」
仙龍の贄となる代わりに、死ぬまで彷徨い続ける。透子を閉じ込めておくための嘘の可能性もあるが、真の可能性も拭えない以上試すには危険すぎるし、何より、青玉の双眸に偽りの色は感じられなかった。
「……遭難して、人知れず野垂れ死ぬってこと?」
「玄冥洞の水堀も同じ仕組みだけど、忘れた頃に水死体が浮くらしいわね」
瑠璃茉莉は非情な末路を淡々と明かし、若葉に囲まれた透橋を北へと戻る。辿り着いた裏門の前で彼女が二度柏手を鳴らすと、門扉が軋みを立てて独りでに開いた。透子が特別驚かなかったのは、座敷の蔀戸や御簾が同じように開閉する様子を既に見ていたからだ。
二人で門をくぐると、その先には、まだ朝と呼べる時間帯の静謐さに満ちた森が広がっていた。石畳の舗装などはなく、辛うじて道と呼べないこともない細道が、木々の合間を縫うように枝分かれして伸びている。
「さ、好きなように歩いてみなさい。本当に駄目なところに踏み込みそうになったら止めるから」
透子と手を繋ぎ、瑠璃茉莉が嗾けるように言った。挑発と受け取った透子は瑠璃茉莉の手を握り返し、差し当たり真正面から続く道へと足を向ける。
だが、意気揚々とした足取りが戸惑いで重くなっていくのに、それほど時間はかからなかった。
「…………」
梢の遥か向こうから燦々と照らす太陽を基準に南下しているつもりなのだが、歩けど歩けど森の終わりが見えてこない。最初に上空から見たときの広さからすると、せいぜい三十分もあれば縦断できると思ったものの、既にその倍は歩いている。迷いながらという事情を差し引いてもおかしい。
半歩後ろを歩く瑠璃茉莉は、分岐で時折「そっちは駄目」と言うように透子の腕を引くくらいで、一言も話しかけてはこない。本当に犬の散歩のようである。透子も半ば意地で、口を真一文字に引き締めて歩き続ける。
だが、とうとうその足がぴたりと止まったとき、先に声を発したのは鱗王の弟子だった。
「どうしたの、疲れた?」
四年間山暮らし、下女暮らしを強いられた身、この程度で音を上げる透子ではない。しかし口を開けば困憊の声が溢れ出てきた。
「おかしいでしょ、上から見たとき、こんなに広い森じゃなかった!」
「それは人界の森でしょ? 龍神を祀る森」
瑠璃茉莉の応答は澱みない。
「森とか山とか海とか、辻とか橋とか、今も至るところで人界と仙界は細く繋がってる。ただ昔ほど往来は簡単じゃない」
そんなわけで、と瑠璃茉莉はやや大仰な仕草で四方八方を取り囲む森を示す。
「人の足でこの孟章林を踏破しようと思えば丸一日はかかるし、抜け出たところで、その先にも仙界の山や海が続いているだけよ」
「……そんな」
「この森自体、正しい道を知らないと何処にも辿り着けない迷路みたいなものだけど、異界へ渡るにはまた別の条件も少なからず必要だしね」
「どんな?」
「教えるわけないでしょうが。どう言葉を弄したってここは譲らないからね」
すかさず透子は尋ねてみたが、瑠璃茉莉はしかつめらしく断言した。透子が攻めあぐねているうちに、流れを変えるように彼女が再び口を開く。
「これで気が済んだ? じゃ、戻りましょ」
気が済んだわけではないが、当初の見通しが甘すぎたことは痛感せざるを得なかった透子はおとなしく彼女に従った。手は繋いだまま、今度は瑠璃茉莉が透子の半歩前を歩く。
往路と異なるのは、前後の順や選ぶ道だけでなく、会話が交わされている点だった。
「さっき、ときどき手を引いて止めたでしょ。あれはあのまま行くとどうなってたの?」
「偶然だけど、仙人の洞府や修行場に通じる道だったのよ。アンタと会わせるわけにはいかないもの。あとは霊獣や霊鳥の巣とか。真君の鱗があるとは言え、一応ね」
「そう言えば、わたしが真君と初めて遇ったときは、野槌? とかいう大蛇を追ってきたって言ってた」
「そうやって、仙境から人間に彷徨い出たり、人界から仙界に迷い込む例が、今も稀にあるのよ」
「それ知ってる、『神隠し』ってやつでしょ」
会話が弾むなどというのは、思えば母の死後初めてのことだった。山里では従妹を筆頭に命令や侮辱を一方的に投げつけられるばかりで、表向きは優しかった従兄にもずっと一線を引いて接していた。裏表なく、当意即妙に応じてくれる瑠璃茉莉との遣り取りは、純粋に楽しかった。
鱗王の弟子として、森に張り巡らされた道を知悉している瑠璃茉莉の先導で、半分以下の時間で二人は洞に門を構えた大木へと辿り着く。小閣に戻ってしばらくすると昼餉の時間で、笊蕎麦ととろろと稲荷寿司と沢庵漬けを珍しく透子が完食できたのは、やはり適度に身体を動かしたためだろう。夕餉は残したものの、この夜は寝つきもよく、翌朝もすっきりと目覚めることができた。
その日は、脱走の目論見が外れたこともあって、透子はまた日がな一日を小閣の中だけで終わらせてしまった。無為さえ通り越した無駄な一日だったが、環境の激変による茫然自失も過ぎた今、生贄の未来に自暴自棄になるにはまだ早い。
だから。
「今日も森に散歩行きたいから付き合ってよ」
「は? アンタまだ懲りてないの!?」
更に翌日、朝食後に身支度を整えた途端の透子の要望に、瑠璃茉莉が呆れと怒りの入り混じった声を上げる。しかし透子も譲らなかった。
「簡単に森は出られないし人界に戻れないことも解った。だからこそ別にいいでしょ」
「何その謎論理」
「何もすることなくて暇なのよ。小人閑居して不善を為すって言うじゃない。真君の留守中だけだから、ね?」
「『ね?』って、アンタ……」
歩き見て話を聞き、仙界を知ることが、人界に戻る方法を知ることにも繋がるはずだ。せっかくの鱗王の不在、この機会は逃せない。そんな下心は勿論あるが、単純に誰かとの会話に飢えていたことも事実だった。
如何にも不承不承と言った風情の瑠璃茉莉と二人、連れ立って楼門へと向かう。試しに透子が柏手を打ってみても、門扉はぴくりとも動かなかった。
「……やっぱり駄目か」
「そりゃそうよ、誰でも開けられたら門の意味がないでしょ」
呆れから諦めの境地に至った瑠璃茉莉によって開門されると、一昨日と変わらない万古の森が二人を迎え入れた。「絶対手を離すんじゃないわよ」と念押しされ、透子は瑠璃茉莉と並んで、一昨日とは異なる細道を選び歩き出す。
「龍宮洞は王様の洞府だからあんなに広いの? それともあれが普通?」
「歴代の鱗王が増改築を繰り返してるからね。渓谷の庵のいくつかは、何代か前の王が寵姫たちを住まわせるために建てたみたいよ」
「後宮があるのに?」
「だから、後宮の女主人の目から隠すように、こっそりね」
「……不邪淫戒はどうなってるの」
「仙術には房中術っていうのもあるのよ」
「修行ってどんなことするの?」
「いろいろよ。瞑想や組み手で心身を鍛えたり、医術薬学を究めたり」
やや際どい話から軌道修正し、二人は話に花を咲かせながら並んで歩く。仙界は途方もなく広く、場所によっては一度人界を経由したほうが近道になること。かつて仙果は、舎人や采女などとして朝廷に保護されていた時代があること。仙界の掟、人界の理。時折打算が顔を覗かせつつも、屈託なく、他愛なく、とりとめのない話が笑い混じりに続く。
その切れ目は、唐突に訪れた。
陽も高くなり、適当なところで引き返して巨木の洞の門を開く。
昼食のことを話題にしながら帰還した二人を出迎えたのは、不機嫌な雲に厚く覆われた暗い空だった。
「……!?」
龍宮洞の空も、基本は孟章林の空と同じだと、つい先程話題に上がったばかりだった。だと言うのに、この空模様はいったいどういうことなのか。
瑠璃茉莉の口と足の動きが止まった。無意識にか、透子と繋いだ手に力が籠もる。
「瑠璃茉莉さん……?」
軽く眉をひそめた透子の問いに、血の気の引いた掠れ声が返る。
「……真君がお戻りだわ」
「!」
予定よりも早い帰還に、透子も呼吸が数秒止まった。唖然と天を仰のく。
鱗王は弟子に、桃姑を外に出すなと命じていた。だが透子は直接言われていないのをいいことに、瑠璃茉莉を巻き込んで禁を破った。
ならばこの荒天は、雨師にして雷公でもある洞主の感情の映し鏡だ。桃姑と弟子の不在を知り、激怒している。
今にも驟雨か雷鳴が放たれそうな曇天を、透子は口を閉じるのも忘れてただただ見上げていたが、隣で手を繋いだままの瑠璃茉莉は、この世の終わりのような青い顔をしていた。
そして二日ぶりの晴天、朝餉の準備を待つ間も着替えの最中も、もう見るからにうずうずしていた透子に、髪結いを終えた瑠璃茉莉は据わった目を向ける。
「……アンタさあ、ここから逃げ出そうとか考えてない?」
「え!?」
前置きなく問い質されて透子は思わず声を詰まらせたが、返答を待たず瑠璃茉莉は呆れたように続けた。
「いやまあ解るわよ。虫や獣だって食べられそうになったら逃げるからね」
「…………」
素直に肯定するべきか虚偽の否定をするべきか、判断に迷った透子を見て、瑠璃茉莉が盛大に溜め息を吐いた。
「────しょうがないわね、行きましょ」
「え?」
「下手なことされるより、逃げられないって理解してもらったほうがいいわ」
言って、透子についてくるように促す。これまでは瑠璃茉莉が透子の後ろを歩いていたから、初めて前後が逆転した。
郭を区切る渓谷に架かる透橋の踊り場から洞内を見渡し、瑠璃茉莉がつらつらと説明する。白花の季節を終えた桜の木々は、しなやかな青葉をたっぷりと繁らせていた。
「この洞府は壺中天だから、正規の門以外、たとえば生垣を突っ切って外に出ようとすると、何処でもない狭間で未来永劫迷い続けることになるの。そうなると、アタシは勿論、真君でも助けられないわ」
仙龍の贄となる代わりに、死ぬまで彷徨い続ける。透子を閉じ込めておくための嘘の可能性もあるが、真の可能性も拭えない以上試すには危険すぎるし、何より、青玉の双眸に偽りの色は感じられなかった。
「……遭難して、人知れず野垂れ死ぬってこと?」
「玄冥洞の水堀も同じ仕組みだけど、忘れた頃に水死体が浮くらしいわね」
瑠璃茉莉は非情な末路を淡々と明かし、若葉に囲まれた透橋を北へと戻る。辿り着いた裏門の前で彼女が二度柏手を鳴らすと、門扉が軋みを立てて独りでに開いた。透子が特別驚かなかったのは、座敷の蔀戸や御簾が同じように開閉する様子を既に見ていたからだ。
二人で門をくぐると、その先には、まだ朝と呼べる時間帯の静謐さに満ちた森が広がっていた。石畳の舗装などはなく、辛うじて道と呼べないこともない細道が、木々の合間を縫うように枝分かれして伸びている。
「さ、好きなように歩いてみなさい。本当に駄目なところに踏み込みそうになったら止めるから」
透子と手を繋ぎ、瑠璃茉莉が嗾けるように言った。挑発と受け取った透子は瑠璃茉莉の手を握り返し、差し当たり真正面から続く道へと足を向ける。
だが、意気揚々とした足取りが戸惑いで重くなっていくのに、それほど時間はかからなかった。
「…………」
梢の遥か向こうから燦々と照らす太陽を基準に南下しているつもりなのだが、歩けど歩けど森の終わりが見えてこない。最初に上空から見たときの広さからすると、せいぜい三十分もあれば縦断できると思ったものの、既にその倍は歩いている。迷いながらという事情を差し引いてもおかしい。
半歩後ろを歩く瑠璃茉莉は、分岐で時折「そっちは駄目」と言うように透子の腕を引くくらいで、一言も話しかけてはこない。本当に犬の散歩のようである。透子も半ば意地で、口を真一文字に引き締めて歩き続ける。
だが、とうとうその足がぴたりと止まったとき、先に声を発したのは鱗王の弟子だった。
「どうしたの、疲れた?」
四年間山暮らし、下女暮らしを強いられた身、この程度で音を上げる透子ではない。しかし口を開けば困憊の声が溢れ出てきた。
「おかしいでしょ、上から見たとき、こんなに広い森じゃなかった!」
「それは人界の森でしょ? 龍神を祀る森」
瑠璃茉莉の応答は澱みない。
「森とか山とか海とか、辻とか橋とか、今も至るところで人界と仙界は細く繋がってる。ただ昔ほど往来は簡単じゃない」
そんなわけで、と瑠璃茉莉はやや大仰な仕草で四方八方を取り囲む森を示す。
「人の足でこの孟章林を踏破しようと思えば丸一日はかかるし、抜け出たところで、その先にも仙界の山や海が続いているだけよ」
「……そんな」
「この森自体、正しい道を知らないと何処にも辿り着けない迷路みたいなものだけど、異界へ渡るにはまた別の条件も少なからず必要だしね」
「どんな?」
「教えるわけないでしょうが。どう言葉を弄したってここは譲らないからね」
すかさず透子は尋ねてみたが、瑠璃茉莉はしかつめらしく断言した。透子が攻めあぐねているうちに、流れを変えるように彼女が再び口を開く。
「これで気が済んだ? じゃ、戻りましょ」
気が済んだわけではないが、当初の見通しが甘すぎたことは痛感せざるを得なかった透子はおとなしく彼女に従った。手は繋いだまま、今度は瑠璃茉莉が透子の半歩前を歩く。
往路と異なるのは、前後の順や選ぶ道だけでなく、会話が交わされている点だった。
「さっき、ときどき手を引いて止めたでしょ。あれはあのまま行くとどうなってたの?」
「偶然だけど、仙人の洞府や修行場に通じる道だったのよ。アンタと会わせるわけにはいかないもの。あとは霊獣や霊鳥の巣とか。真君の鱗があるとは言え、一応ね」
「そう言えば、わたしが真君と初めて遇ったときは、野槌? とかいう大蛇を追ってきたって言ってた」
「そうやって、仙境から人間に彷徨い出たり、人界から仙界に迷い込む例が、今も稀にあるのよ」
「それ知ってる、『神隠し』ってやつでしょ」
会話が弾むなどというのは、思えば母の死後初めてのことだった。山里では従妹を筆頭に命令や侮辱を一方的に投げつけられるばかりで、表向きは優しかった従兄にもずっと一線を引いて接していた。裏表なく、当意即妙に応じてくれる瑠璃茉莉との遣り取りは、純粋に楽しかった。
鱗王の弟子として、森に張り巡らされた道を知悉している瑠璃茉莉の先導で、半分以下の時間で二人は洞に門を構えた大木へと辿り着く。小閣に戻ってしばらくすると昼餉の時間で、笊蕎麦ととろろと稲荷寿司と沢庵漬けを珍しく透子が完食できたのは、やはり適度に身体を動かしたためだろう。夕餉は残したものの、この夜は寝つきもよく、翌朝もすっきりと目覚めることができた。
その日は、脱走の目論見が外れたこともあって、透子はまた日がな一日を小閣の中だけで終わらせてしまった。無為さえ通り越した無駄な一日だったが、環境の激変による茫然自失も過ぎた今、生贄の未来に自暴自棄になるにはまだ早い。
だから。
「今日も森に散歩行きたいから付き合ってよ」
「は? アンタまだ懲りてないの!?」
更に翌日、朝食後に身支度を整えた途端の透子の要望に、瑠璃茉莉が呆れと怒りの入り混じった声を上げる。しかし透子も譲らなかった。
「簡単に森は出られないし人界に戻れないことも解った。だからこそ別にいいでしょ」
「何その謎論理」
「何もすることなくて暇なのよ。小人閑居して不善を為すって言うじゃない。真君の留守中だけだから、ね?」
「『ね?』って、アンタ……」
歩き見て話を聞き、仙界を知ることが、人界に戻る方法を知ることにも繋がるはずだ。せっかくの鱗王の不在、この機会は逃せない。そんな下心は勿論あるが、単純に誰かとの会話に飢えていたことも事実だった。
如何にも不承不承と言った風情の瑠璃茉莉と二人、連れ立って楼門へと向かう。試しに透子が柏手を打ってみても、門扉はぴくりとも動かなかった。
「……やっぱり駄目か」
「そりゃそうよ、誰でも開けられたら門の意味がないでしょ」
呆れから諦めの境地に至った瑠璃茉莉によって開門されると、一昨日と変わらない万古の森が二人を迎え入れた。「絶対手を離すんじゃないわよ」と念押しされ、透子は瑠璃茉莉と並んで、一昨日とは異なる細道を選び歩き出す。
「龍宮洞は王様の洞府だからあんなに広いの? それともあれが普通?」
「歴代の鱗王が増改築を繰り返してるからね。渓谷の庵のいくつかは、何代か前の王が寵姫たちを住まわせるために建てたみたいよ」
「後宮があるのに?」
「だから、後宮の女主人の目から隠すように、こっそりね」
「……不邪淫戒はどうなってるの」
「仙術には房中術っていうのもあるのよ」
「修行ってどんなことするの?」
「いろいろよ。瞑想や組み手で心身を鍛えたり、医術薬学を究めたり」
やや際どい話から軌道修正し、二人は話に花を咲かせながら並んで歩く。仙界は途方もなく広く、場所によっては一度人界を経由したほうが近道になること。かつて仙果は、舎人や采女などとして朝廷に保護されていた時代があること。仙界の掟、人界の理。時折打算が顔を覗かせつつも、屈託なく、他愛なく、とりとめのない話が笑い混じりに続く。
その切れ目は、唐突に訪れた。
陽も高くなり、適当なところで引き返して巨木の洞の門を開く。
昼食のことを話題にしながら帰還した二人を出迎えたのは、不機嫌な雲に厚く覆われた暗い空だった。
「……!?」
龍宮洞の空も、基本は孟章林の空と同じだと、つい先程話題に上がったばかりだった。だと言うのに、この空模様はいったいどういうことなのか。
瑠璃茉莉の口と足の動きが止まった。無意識にか、透子と繋いだ手に力が籠もる。
「瑠璃茉莉さん……?」
軽く眉をひそめた透子の問いに、血の気の引いた掠れ声が返る。
「……真君がお戻りだわ」
「!」
予定よりも早い帰還に、透子も呼吸が数秒止まった。唖然と天を仰のく。
鱗王は弟子に、桃姑を外に出すなと命じていた。だが透子は直接言われていないのをいいことに、瑠璃茉莉を巻き込んで禁を破った。
ならばこの荒天は、雨師にして雷公でもある洞主の感情の映し鏡だ。桃姑と弟子の不在を知り、激怒している。
今にも驟雨か雷鳴が放たれそうな曇天を、透子は口を閉じるのも忘れてただただ見上げていたが、隣で手を繋いだままの瑠璃茉莉は、この世の終わりのような青い顔をしていた。



