時は少し遡る。

「へえ、アンタ透子って名前なの。すごい偶然ね」

 仙界に連れてこられて数日、ちょっとした会話の流れで透子が名を明かすと、瑠璃茉莉は軽く驚いたようだった。ただ、その後の彼女がどちらの意味で「トーコ」と呼んでいるのかは判らない。

 こちらは確実に「桃姑」と呼びかけてくる薄氷は、日に一度は渓谷を訪れ、「別嬪は何を着せても着こなすな、髪形もよく似合っているぞ」「声も綺麗だ。高すぎず細すぎず、歌を詠ませたら映えそうだな」などと洗脳のように透子を褒めちぎる。彼の本心を知ってなお、その度に透子はどぎまぎしたが、何日か経ってようやく理解した。

(これアレだ、話しかけたり褒めたりすると花や野菜がよく育つってやつ……)

 龍宮洞で暮らし始めて二十日ばかり過ぎ、その薄氷に「俺は明日から出掛けるから、いい子にしているんだぞ」と言われた翌朝、瑠璃茉莉が単身、朝餉を給仕している姿を見て透子は瞬いた。

「いつもの子は? 真君と一緒に出掛けたの?」
「そうよー。あ、でも、コレはナギが下拵えしていったのを切ったり温めたりしただけだから。味はそれほど変わらないわよ」
「どこに行ったの?」
「介王様の即位式兼結婚式。花婿が真君の弟弟子なのよ。そのあと知人を訪ねるとも言ってたし、十日は戻ってこないわね」
「…………」

 相変わらず、薄氷は透子に詳しい話をする気はないようだが、同時に瑠璃茉莉の口の軽さも少々気になる。

「いいの? そんなにポンポン喋っても」
「いいのよ、だってトーコの言うことはなんでも聞くよう真君に言われてるからね」

 朝餉を整え終えると、瑠璃茉莉は一度屋根裏の自室へ戻る。炊きたての白飯に納豆、若布と油揚げの味噌汁、たらの目とふきのとうの天麩羅、しめじと筍の茶碗蒸し、縮み蒟蒻の味噌和え、白菜の浅漬け、黒蜜と黄粉のわらび餅……それらを透子は今朝も半分以上残し、川に捨てて証拠隠滅した。

 桃姑の世話が修行だという瑠璃茉莉も、必要なとき以外は階下に来ないから、一日の大半を透子は一人で過ごす。蟲に煩わされることがないだけでも充分快適だが、山里で身を粉にして働かされた日々は勿論、帝都で父母と暮らしていた頃からさえも考えられないほど、贅沢と言うより無為な時間の使いかただ。

「……わたしの食べ頃っていつになるのかな」

 その日も小閣を一歩も出ないまま一日が終わり、翌日の朝食後、花浅葱色の菖蒲の小紋を着付けてもらう合間に、透子はごくさりげなく尋ねる。瑠璃茉莉はその質問を特に疑問に思わず答えた。

「真君が言うには、『鬼も十八、番茶も出花』らしいわよ」
「…………」

 なんだか違う気もするが、成熟もとい完熟するのが十八歳だとしたら、透子の余命はあと一年と少しと言うことになる。

 川床の濡縁に座り、髪は簪を使わずに三つ編みにして垂らす。師父が不在でも桃姑の世話を怠らず、瑠璃茉莉は真面目に修行に取り組んでいた。一仕事終えて一瞬気の緩んだ彼女を振り返り、透子はすかさず言葉の矢を放つ。

「ねえ。たまには外に出てみたいな」
「ええっ。駄目よ、真君にトーコをここから出すなって言われてるもの」

 その返答は透子の予想の範疇だった。生贄を籠に閉じ込めておくのは当然の対策だし、普段着としては華やかな着物や髪型も、気が塞がないようにとの配慮だろう。だから二の矢も用意してある。

「わたしは真君から『出るな』とは言われてない」

 鱗王の説明不足を逆手にとり、透子は言葉の勢いを緩めなかった。

「わたしの言うことはなんでも聞くように言われてるんでしょ?」
「でも……」

 矛盾する命令に、瑠璃茉莉は判断がつきかねる様子だった。駄目押しに透子は三の矢を放つ。

「なんにもしないとおなかも減らなくて、せっかくのごはんも美味しく食べれないの。暇過ぎて変な時間に昼寝しちゃうせいで逆に夜寝れないし。健康を保つには、食事と睡眠と、あと適度な運動も大切だって学校で習ったわ。散歩くらいさせてよ」

 早寝早起きを促されるのも、規定の時間に食事が用意されるのも、すべては桃姑の健やかな生育のためだろう。その「せっかくのごはん」を毎食廃棄していることは棚に上げ、この要望は鱗王の益にも繋がると切々と訴える。

 だが当然、透子の真意はそこではない。

 心が死に瀕しているからと言って、躰まで易々と殺されるつもりはない。むしろ、生きている躰に引っ張られて心も息を吹き返した気がする。桃瀬家を捨てたように、龍宮洞からも逃げ出してみせる。

 しばし顔を引き攣らせていた瑠璃茉莉だったが、観念したように長い長い溜め息を吐いた。

「…………わかった、わかったわよ。真君もいないし、こっそりね」
「ありがとう!」

 透子が嘘偽りなく満面の笑みを浮かべると、瑠璃茉莉は更に複雑な顔になった。

 沓脱石に用意された草履を履き、瑠璃茉莉を後ろに従え、透子は川の流れに沿って歩く。犬の散歩のようだ。だが今すぐ逃げられなくても、逃走経路を探るという意味でこの散歩は無駄ではない。

「ほかにここに住んでる人はいないの?」
「アタシとナギのほかにも、弟子が十人くらい住み込みで修行してるわよ。でも理由もなく渓谷に下りて来ることはまずないから」

 ちょうどそこで、手すりのある木製の階段に差し掛かった。木の根と下生えに覆われた斜面を龍の背のように折れながら伸びている。

「この上は?」
「真君や弟子たちの住居や修行場よ。アンタがいるのは庭の離れってところね。今みたいに客殿として使われることもあるし」

 更に川下へ進むと、瑠璃茉莉の言うとおり、釣殿や反橋、茶室、草庵など、庭園らしい建造物が両岸に点在していた。

 その先は完全な行き止まりだった。川は暗渠となって地下へ流れ込み、断ち切られたような岸壁は急峻で、石段なども見当たらない。

「さ、戻るわよ。多少の気晴らしにはなったでしょ。この程度なら、真君に頼めば許可いただけるかもしれないわ。確かに座敷に籠もりっきりなのは健康的とは言えないものねえ」
「……さっきの階段の上には行けないの?」
「駄目」

 食い下がってみたがにべもなく却下され、透子は居候する小閣へと連れ戻された。一旦素直に引き下がったのは、あまり反抗的な態度を見せて四六時中監視されるようになれば、脱走はおろか食事を残すことすら難しくなるという計算が働いたためである。

 だが何しろ、ことは命が懸かっている。そこで諦める透子ではなく、翌日も、渋る瑠璃茉莉を正面から、しかし強硬に押し切り、木段を登る権利を勝ち取った。

 渓谷を出ても、やはり景色の主役は川と緑だった。屋敷に川を引き込み花木を植えたというよりも、清流の流れる森を拓いて建物を構えたような印象だ。だが一見奔放に繁茂しているようで管理が行き届いているらしく、景観を損ねる雑草は見当たらなかった。

「橋のあっちとこっちでは何が違うの?」
「あっちの南郭が表、修行や謁見なんかの公的な場所で、こっちの北郭が奥、寝所とかの私的な場所よ。今の時間なら、みんな表で修行してるはずだわ」

 木段は踊り場を経て透廊の北の袂に通じていた。南北のどちらも、山地と呼ぶほどではないなだらかな起伏があり、俗世と切り離された厳かな空気が漂っている。

「後ろの屋根は何?」
「……後宮ね。今は無人だけど、真君が花嫁御寮を迎えれば女主人として入るの。ただ応龍は鳳凰や麒麟と違って、唯一絶対、比翼連理のつがいっていう本能はないからね。修羅場の歴史も、まああるみたいよ」

 瑠璃茉莉は明け透けに暴露したが、要するに、透子には縁のない場所である。

 ほかにも四阿やら花園やらと回り、無邪気さを装った散策の末、遂に透子は目的の場所を見つけた。

「あの門……」
「洞府の裏門よ。外は果て無しの森が広がってるわ」

 長い生垣の切れ目に威容を持って佇む、瑠璃紺の屋根を乗せた楼門。近づいてみると、生垣は透子の背丈よりも高く、隙間なく密に生い茂っている。

 上空から見た三角洲の森は確かに大きかったが、果て無しはさすがに誇張だろう。

 龍宮洞を出れば、外の森は人界だ。この門さえ出てしまえば人界に逃げ込める。

 今までの何より興味津々といった眼差しを楼門に向ける透子に、瑠璃茉莉は低い声で先手を打った。

「……言っとくけど、さすがに洞府の外には行かせないからね」
「え、駄目? 森の中歩くのって気持ち良さそうなんだけどなあ」

 やや大仰な口調で反論してみたが、それでは鱗王の弟子を説得できなかった。

「今度こそ本当に、駄目ったらダメ!」

 ぴしゃりと言われ、瑠璃茉莉には幸、透子には不幸なことに丁度昼時に差し掛かる頃合いだったことあり、透子は渓流の小閣に戻ることになってしまった。早くも出口を見つけた成果に加え、昼餉と夕餉の箸が普段より多少進んだことは、予想外の効果だったと言えたかもしれない。