披露宴も三日目ともなると、無礼講の様相を呈してくる。
仙境の北の一隅、執明山には、新たな介王の即位と結婚を言祝ぐため、各王を始めとする名だたる仙人たちが訪れていた。
そしてこの日、鱗王薄氷は、ほかの三王と共に、遥か下方に轟音を立てて流れ落ちる直瀑の滝口を臨む懸け造りの露台で酒席を囲んでいた。
この大瀑布は、真冬の氷結した姿が圧巻だが、初夏の放水も充分に雄大である。露台にまで跳ねてくる冷たい珠のような飛沫が、やや酒精を帯びた肌には快い。
ほかの王たちの高坏には盃と共に小鉢や小皿が載っている程度の中、薄氷の前にだけ、三段の重箱が鎮座ましましている。初日には豪華ではあっても画一的な祝い膳が並んでいたが、この偉大だが小規模な宴席には、各々の嗜好に沿った酒肴が饗されていた。
「そう言えば玉條、羽族の命命鳥が迷惑かけたみたいで悪かったね」
ふとした会話の切れ間に滑り込んできた謝罪に、薄氷は高菜の手鞠寿司に伸ばしかけていた箸の動きを止める。深淵の瞳で、色も癖も炎を髣髴とさせる髪を見返した。さすがに、僅か一ヶ月前のことを忘れてはいない。
「ああ、別に構わん。俺も手加減できずに殺してしまったからな」
「仕方ないね。喧嘩ふっかけたのは命命鳥のほうだし、力の差を見極められなかったほうが悪い」
「聞いたわよ、仙果を見つけたんですって?」
その隣に座した、羽のように軽い赤みがかった蘇芳の巻髪の仙女が、興味深そうに会話に混ざる。この二人が羽王たる鳳凰、陵光島祝融洞の宝燈真君呉藍と炯霞元君栗花落。二十歳前後の外見は四王の中で最も若いが、在位が最も長いのがこのつがいであった。
「二度目ですか、運のよろしいこと」
更に、混じりけのない漆黒の髪を雪華亀甲紋の袿に滝の如く垂らした仙女も加わってくる。本日の主役の片割れである執明山玄冥洞洞主、介王・清宵元君小夜時雨だ。
「意外と見つけられないものですからね。それに、理性が飛ぶほどの芳しさ、稀代の美味というのも誇張ではないということでしょう」
その伴侶、緩い三つ編みが蛇身を思わせる柔惠子杠葉は、結婚にあたって号を海棠真君と改めた。薄氷の弟弟子でもあるのだが、当時はまさか介族の長、霊亀と番うことになるとは思ってもいなかった。
「先を越されてしまいましたわね、明鏡」
「仕方があるまい。弱肉強食の理どおり奪いにいくのもいいが、食い物の件で玉條の恨みを買うのは得策ではないな」
小夜時雨に話題を振られた毛王・監兵原蓐収洞明鏡真君遷移菊は爽酒の盃を傾けながらおおらかに受け流す。その名に相応しい、毛先だけが紫がかった優美な白銀の髪の持ち主だが、笑い声はなかなかに磊落だった。その気質を承知してはいるものの、薄氷は釘を刺す。
「渡さんぞ、あれは俺のものだ。俺が喰う」
至高の甘味は大前提だが、こと食に関して薄氷は味と同時に見目も重視していた。同じ味なら見映えのするほうがいい。その点、あの桃姑は薄氷の審美眼に適った。草薙に栄養を管理され、瑠璃茉莉に磨かれれば申し分なく熟すだろう。誰にも譲る気はない。
薄氷の執心に、大陸風の白瑩の長袍を常服とする遷移菊はやれやれと肩を竦める。皆最初は礼服を纏い参列していたが、大半が既に常服に戻っていた。
「安心しろ、大人しく別の実りを待つさ」
三千年に一度実る、三千六百本の仙木。実はここに数字の奇計があって、一斉に実をつけるわけではないため、単純計算で年に一人は桃児或いは桃姑が生まれていることになる。但し完熟を迎える前に夭折する例も珍しくなく、唯一無二ではないが稀少であることは確かだった。人界の失踪者は年に万を越える。その中で仙果が一人神隠しに遭っても、気に留める者は少ない。
薄氷は三百年ほど前に生まれ、その十数年後に桃児を喰らって登仙した。もう顔も声も覚えていないが、口腔を甘く満たした至極の味だけはずっと忘れられなかった。だから、偶然で桃姑を見つけたときは歓喜に震えた。そこまでならともかく、万全を味わうため完熟を待ち、あまつさえ手許で育てるなどと迂遠且つ奇矯な真似をするのは自分くらいのものだろう。
「相変わらず、花より団子なのねえ。どうせ今回もお供は草薙くんでしょ」
「む……」
酒の肴に三段重を所望した薄氷に、紅蓮の咲き乱れる千鳥格子の打掛を羽織る栗花落が呆れ混じりの溜め息をつく。
見目も言動も未だ少年そのものの草薙は、ああ見えて薄氷の一番弟子で、句芒洞の食卓を一手に担っている。通常、賀正や祝言には夫婦同伴で参加するのだが、独り身の薄氷は修行の一環と称して草薙を連れ回していた。今も、末席で執明山の味を分析しているか厨房で調理法を学ぶかしているはずだ。たまに下衆が勘繰るような関係ではないものの、薄氷は草薙にがっつり胃袋を掴まれているし、草薙も薄氷の求めに勤勉に応じていた。
そうやって今まで堂々と草薙を伴っていた薄氷だったが、今回は羽王の凰の指摘にややたじろぐ。
「私としては、葉月が登仙するまで独身仲間がいてくれたほうが、こういうときに肩身の狭い思いをしなくて済むからありがたいな」
「ふん……」
曇りない遷移菊の笑いを横耳に、薄氷は渋い顔で薫酒を呷った。
鱗族以外の王は、つがいとなることが即位の必須条件だ。羽の長鳳凰、毛の長麒麟は同族或いは人と番う。逆に介の長霊亀は人含む異族と番い、その中で蛇と番った者だけが介王となる資格を得る。
小夜時雨は仙蛇の杠葉と結ばれて王位に就いた。遷移菊はまだ毛王の名代という形で、麟の葉落月が登仙したら正式に位を継ぐことになっている。それが先程の「先を越されてしまいましたわね」につながるのだった。
先代の介王と毛王たちは見た目も長老の域で、羽王の呉藍と栗花落も年長者だから、開国直後に王位に就いた最年少の薄氷は、身軽な己の身の上を気にしていなかった。それが毛王の隠居表明、介王の譲位で一気に若返ってしまい、些か居心地の悪さを感じるようになったのである。
狼狽や貔貅、鱗族では虹蜺などもつがいを成す種族である一方、四霊では応龍だけがつがいという概念を持たない。歴代の鱗王の中には、頑なに未婚を通した者もいれば、数多の仙女龍女を侍らせた者もいた。王位は世襲ではないとは言え、そろそろ薄氷も、身を固めることを考えてもいいのかもしれない。
(とは言え、トーコのいるうちに女にうつつを抜かす気にはなれんな……)
桃姑を愛でている間は、とてもほかの女人は目に入らないだろう。
だが彼女を食べた後であれば、地位から言っても容姿から言っても、相手を見繕うのに苦労はしないはずだ。ぬけぬけと計算し、薄氷はにやりと笑った。
「言っていろ。次の次の正月あたりには、俺のほうが一足先に妻帯者になっているかもしれんぞ」
「ほう、大きく出たな」
「いいね、賭けようか?」
「どっちに賭けるつもりよ?」
「つゆりさんが賭けないほう」
「どういう意味よ!」
群青と白金の視線を切り結んだ薄氷と遷移菊に、呉藍が面白がって軽口を挟み、窘めたはずの栗花落は夫のからかいに眉を吊り上げる。
「食欲より愛欲を優先させる玉條……なんだか想像がつきませんわね」
「いえいえ小夜様、食に向けるのと同じくらいの情熱で玉條様に愛される女性は果報者ですよ」
囁き合う介王のつがいは、並ぶと夫婦というよりも妙齢の姉妹、髪色も相俟って和風人形と洋風人形のようにも見える。だが霊亀は別名・真武として祀られる仙界最強の部族、その頂点に立った小夜時雨も、彼女が隣に立つ者として選んだ杠葉も、侮れば痛い目を見ることになる。
そんな感じで介王の披露宴は三日三晩続き、初日の式典から数えて五日目に散会となった。執明山を出た薄氷は草薙と共に、今回参列しなかった知己を二ヶ所ばかり訪ねたのち、仙果の芳しさが恋しくなり、予定より少し早く、八日ぶりに龍宮洞へと戻る。
だがそこに、瑞々しく匂い立つ桃姑の姿はなかった。
仙境の北の一隅、執明山には、新たな介王の即位と結婚を言祝ぐため、各王を始めとする名だたる仙人たちが訪れていた。
そしてこの日、鱗王薄氷は、ほかの三王と共に、遥か下方に轟音を立てて流れ落ちる直瀑の滝口を臨む懸け造りの露台で酒席を囲んでいた。
この大瀑布は、真冬の氷結した姿が圧巻だが、初夏の放水も充分に雄大である。露台にまで跳ねてくる冷たい珠のような飛沫が、やや酒精を帯びた肌には快い。
ほかの王たちの高坏には盃と共に小鉢や小皿が載っている程度の中、薄氷の前にだけ、三段の重箱が鎮座ましましている。初日には豪華ではあっても画一的な祝い膳が並んでいたが、この偉大だが小規模な宴席には、各々の嗜好に沿った酒肴が饗されていた。
「そう言えば玉條、羽族の命命鳥が迷惑かけたみたいで悪かったね」
ふとした会話の切れ間に滑り込んできた謝罪に、薄氷は高菜の手鞠寿司に伸ばしかけていた箸の動きを止める。深淵の瞳で、色も癖も炎を髣髴とさせる髪を見返した。さすがに、僅か一ヶ月前のことを忘れてはいない。
「ああ、別に構わん。俺も手加減できずに殺してしまったからな」
「仕方ないね。喧嘩ふっかけたのは命命鳥のほうだし、力の差を見極められなかったほうが悪い」
「聞いたわよ、仙果を見つけたんですって?」
その隣に座した、羽のように軽い赤みがかった蘇芳の巻髪の仙女が、興味深そうに会話に混ざる。この二人が羽王たる鳳凰、陵光島祝融洞の宝燈真君呉藍と炯霞元君栗花落。二十歳前後の外見は四王の中で最も若いが、在位が最も長いのがこのつがいであった。
「二度目ですか、運のよろしいこと」
更に、混じりけのない漆黒の髪を雪華亀甲紋の袿に滝の如く垂らした仙女も加わってくる。本日の主役の片割れである執明山玄冥洞洞主、介王・清宵元君小夜時雨だ。
「意外と見つけられないものですからね。それに、理性が飛ぶほどの芳しさ、稀代の美味というのも誇張ではないということでしょう」
その伴侶、緩い三つ編みが蛇身を思わせる柔惠子杠葉は、結婚にあたって号を海棠真君と改めた。薄氷の弟弟子でもあるのだが、当時はまさか介族の長、霊亀と番うことになるとは思ってもいなかった。
「先を越されてしまいましたわね、明鏡」
「仕方があるまい。弱肉強食の理どおり奪いにいくのもいいが、食い物の件で玉條の恨みを買うのは得策ではないな」
小夜時雨に話題を振られた毛王・監兵原蓐収洞明鏡真君遷移菊は爽酒の盃を傾けながらおおらかに受け流す。その名に相応しい、毛先だけが紫がかった優美な白銀の髪の持ち主だが、笑い声はなかなかに磊落だった。その気質を承知してはいるものの、薄氷は釘を刺す。
「渡さんぞ、あれは俺のものだ。俺が喰う」
至高の甘味は大前提だが、こと食に関して薄氷は味と同時に見目も重視していた。同じ味なら見映えのするほうがいい。その点、あの桃姑は薄氷の審美眼に適った。草薙に栄養を管理され、瑠璃茉莉に磨かれれば申し分なく熟すだろう。誰にも譲る気はない。
薄氷の執心に、大陸風の白瑩の長袍を常服とする遷移菊はやれやれと肩を竦める。皆最初は礼服を纏い参列していたが、大半が既に常服に戻っていた。
「安心しろ、大人しく別の実りを待つさ」
三千年に一度実る、三千六百本の仙木。実はここに数字の奇計があって、一斉に実をつけるわけではないため、単純計算で年に一人は桃児或いは桃姑が生まれていることになる。但し完熟を迎える前に夭折する例も珍しくなく、唯一無二ではないが稀少であることは確かだった。人界の失踪者は年に万を越える。その中で仙果が一人神隠しに遭っても、気に留める者は少ない。
薄氷は三百年ほど前に生まれ、その十数年後に桃児を喰らって登仙した。もう顔も声も覚えていないが、口腔を甘く満たした至極の味だけはずっと忘れられなかった。だから、偶然で桃姑を見つけたときは歓喜に震えた。そこまでならともかく、万全を味わうため完熟を待ち、あまつさえ手許で育てるなどと迂遠且つ奇矯な真似をするのは自分くらいのものだろう。
「相変わらず、花より団子なのねえ。どうせ今回もお供は草薙くんでしょ」
「む……」
酒の肴に三段重を所望した薄氷に、紅蓮の咲き乱れる千鳥格子の打掛を羽織る栗花落が呆れ混じりの溜め息をつく。
見目も言動も未だ少年そのものの草薙は、ああ見えて薄氷の一番弟子で、句芒洞の食卓を一手に担っている。通常、賀正や祝言には夫婦同伴で参加するのだが、独り身の薄氷は修行の一環と称して草薙を連れ回していた。今も、末席で執明山の味を分析しているか厨房で調理法を学ぶかしているはずだ。たまに下衆が勘繰るような関係ではないものの、薄氷は草薙にがっつり胃袋を掴まれているし、草薙も薄氷の求めに勤勉に応じていた。
そうやって今まで堂々と草薙を伴っていた薄氷だったが、今回は羽王の凰の指摘にややたじろぐ。
「私としては、葉月が登仙するまで独身仲間がいてくれたほうが、こういうときに肩身の狭い思いをしなくて済むからありがたいな」
「ふん……」
曇りない遷移菊の笑いを横耳に、薄氷は渋い顔で薫酒を呷った。
鱗族以外の王は、つがいとなることが即位の必須条件だ。羽の長鳳凰、毛の長麒麟は同族或いは人と番う。逆に介の長霊亀は人含む異族と番い、その中で蛇と番った者だけが介王となる資格を得る。
小夜時雨は仙蛇の杠葉と結ばれて王位に就いた。遷移菊はまだ毛王の名代という形で、麟の葉落月が登仙したら正式に位を継ぐことになっている。それが先程の「先を越されてしまいましたわね」につながるのだった。
先代の介王と毛王たちは見た目も長老の域で、羽王の呉藍と栗花落も年長者だから、開国直後に王位に就いた最年少の薄氷は、身軽な己の身の上を気にしていなかった。それが毛王の隠居表明、介王の譲位で一気に若返ってしまい、些か居心地の悪さを感じるようになったのである。
狼狽や貔貅、鱗族では虹蜺などもつがいを成す種族である一方、四霊では応龍だけがつがいという概念を持たない。歴代の鱗王の中には、頑なに未婚を通した者もいれば、数多の仙女龍女を侍らせた者もいた。王位は世襲ではないとは言え、そろそろ薄氷も、身を固めることを考えてもいいのかもしれない。
(とは言え、トーコのいるうちに女にうつつを抜かす気にはなれんな……)
桃姑を愛でている間は、とてもほかの女人は目に入らないだろう。
だが彼女を食べた後であれば、地位から言っても容姿から言っても、相手を見繕うのに苦労はしないはずだ。ぬけぬけと計算し、薄氷はにやりと笑った。
「言っていろ。次の次の正月あたりには、俺のほうが一足先に妻帯者になっているかもしれんぞ」
「ほう、大きく出たな」
「いいね、賭けようか?」
「どっちに賭けるつもりよ?」
「つゆりさんが賭けないほう」
「どういう意味よ!」
群青と白金の視線を切り結んだ薄氷と遷移菊に、呉藍が面白がって軽口を挟み、窘めたはずの栗花落は夫のからかいに眉を吊り上げる。
「食欲より愛欲を優先させる玉條……なんだか想像がつきませんわね」
「いえいえ小夜様、食に向けるのと同じくらいの情熱で玉條様に愛される女性は果報者ですよ」
囁き合う介王のつがいは、並ぶと夫婦というよりも妙齢の姉妹、髪色も相俟って和風人形と洋風人形のようにも見える。だが霊亀は別名・真武として祀られる仙界最強の部族、その頂点に立った小夜時雨も、彼女が隣に立つ者として選んだ杠葉も、侮れば痛い目を見ることになる。
そんな感じで介王の披露宴は三日三晩続き、初日の式典から数えて五日目に散会となった。執明山を出た薄氷は草薙と共に、今回参列しなかった知己を二ヶ所ばかり訪ねたのち、仙果の芳しさが恋しくなり、予定より少し早く、八日ぶりに龍宮洞へと戻る。
だがそこに、瑞々しく匂い立つ桃姑の姿はなかった。



