「────!」
透子の全身を戦慄が駆け抜けた。だが透子が瑠璃茉莉を振りほどくより早く、瑠璃茉莉は透子から身を離し、あっけらかんと告げる。
「なあんてね。アタシは、ていうか真君以外の誰もアンタを食べはしないわよ、その鱗がある限りね」
その、と指先が透子の額を指し示す。心当たりのあった透子は思わず前髪を掻き分け、眉間のやや上に触れた。
「これ、鱗なの?」
鱗王の唇が残した痕。
「そうよ、真君の鱗。アンタが真君のものだっていう印。で、桃姑の誘惑に打ち克つのもアタシの修行のひとつってわけ」
「じゃあ、蟲が寄ってこなくなったのって」
「真君の神威を畏れて、ってこと。食欲よりは生存本能が勝るでしょうよ」
ではやはり、この一ヶ月あまりの蟲除けは、仙女の符ではなく仙龍の鱗のおかげだったのだ。山里を捨てた透子の判断は間違っていなかった。……鱗王を選んだ決断が正しかったかは別として。
「仙果って未熟なうちは匂いも殆どないしむしろ毒なんだけど、年頃になるとだんだん桃の甘い香気を放つようになって、まずは小物の蟲が湧くの。完熟が近くなれば人の鼻でも気づくようになるわ。歩く芳香剤ね」
そこはせめて香水とか薫物とか言ってほしいと思ったが、透子は黙っていた。
従兄があのような暴挙に出たのは、透子が桃姑であることも少なからず関係していたのかもしれない。だが、それを免罪符にして彼を無条件で赦す気にはなれなかった。
「で、熟したところで美味しくいただかれる、と」
「…………」
おどけた口調ではあったが、さすがに透子は笑えなかった。試しに自分の手の甲や髪先を嗅いでみたが、乳液や髪油には香料が使用されていなかったのか、良くも悪くも匂いは感じない。その様子に瑠璃茉莉が小さく笑う。
「自分じゃわかんないものなのね。人界で聞いたことない? 仙果の話」
「……仙境には三千六百本の仙木があるとか、不老長寿の仙桃を探す旅に出た隠者とかの昔話はあったと思うけど」
「じゃあ今はそういう形で人口に膾炙してるのね。正確には仙木じゃなくて仙木の一族、その無数に枝分かれした末裔の一人がアンタってこと。ちなみに男なら桃児ね」
あまりに分家と断絶を繰り返したため、今やその自覚のある家は滅多にないと言う。桃瀬家も例外ではないのだろう。
開国前後の混乱で散逸した文献や口伝に加え、文明開化の一時期は、失われた神仙や方術への信仰を前時代の遺物として廃毀する傾向さえあった。結果、蓬莱は歴史から伝説に姿を変えつつある。
婚約者を裏切った父母に罪がないとは言わないけれど、血筋に因る「蟲喰い」の由縁に介入する余地はないということに、透子は小さく安堵した。もう、里を捨て透子を遺した両親を恨む必要はない。ただ悼めばいい。
「真君は仙果を食べて鱗王にまで登り詰めたんだけど、それがとんっっでもなく美味しかったんですって。だから偶然見つけたアンタに目印つけて完熟を待つつもりだったけど、算段が狂って手許で育てることにしたらしいわよ」
割と辛辣なことを言われていると思うが、透子の関心は別の箇所に向いていた。三千年に一度の仙果を食して登仙したということは、まだ十六歳の透子と十歳も違わないように見える薄氷は、少なく見積もっても三千歳を超える計算になる。
「さ。早く戻りましょ、真君がお待ちかねよ」
「…………」
戻りたくない、とは言えず、帷子から袷に着替え直した瑠璃茉莉とは真逆の沈鬱な足取りで、透子は脱衣所を出る。
瑠璃茉莉の式鬼が迎えに行ったのか、座敷には、彼女の指摘どおり薄氷が訪れていた。千歳緑の着流しに涅色の帯を締めたその陰でもう一人、やはり透子と同年代に見える短髪の少年が、三つの懸盤にせっせと給仕をしている。
「ああ、随分綺麗になったな。俺が見込んだとおりだ」
「でしょう? でも磨けばまだまだ光りますよ、これからも励みます」
縁側に出てきた薄氷が率直な賞讃を口にすると、後ろから透子の両肩に手を添えた瑠璃茉莉も同調した。自画自賛交じりの二人に挟まれた透子はむしろ気後れを感じ、視線を下に逸らしてしまう。
ついと千歳緑の袖が揺れた。薄氷の指が透子の左耳に触れ、顔を上げた透子は彼の本性も忘れて胸の鼓動を早めた。繊細な顔立ちに反して躰つきは決して薄くなく、伸ばされた手も骨の造りがしっかりしている。
指はそのまま髪を辿り、ふむ、と軽く唸る。爪先で簪を弾いた薄氷の感想は、透子の想像の埒外もいいところだった。
「簪は口や喉に刺さりそうだ。あと、帯も解きやすい結び方にしてくれ。重ね着の枚数も最低限でいい」
「では、お召し上がりの際にはそのように配慮します」
「…………」
この師弟にとって、透子の盛装は着付けではなく盛り付けらしい。簪は魚の骨、着物や帯は果物の皮のような扱いだが、薄氷は真顔だし、瑠璃茉莉も粛々と承る。
「だがなるほど、『喰ってしまいたいほど可愛い』とはこういうことを言うのだな」
「気が早いですよ、真君」
しみじみと呟く薄氷と軽く窘める瑠璃茉莉とは逆に、透子は鉛を飲み込んだような心地になる。山里では散々「要らない娘」「役立たず」と罵倒され続けてきたけれど、こんな搾取のような形で必要とされ、役に立ちたかったわけではなかった。
絶句して表情の消えた透子の髪を弄びながら、薄氷は薄い笑みを刷いて告げる。
「住まいはここに用意したが、ほかに欲しいものがあればなんでも言え。天狐の毛皮でも月桂の花でも碧血の玉でも、不自由はさせない」
「……わたしはここで、どうすればいいんですか?」
硬い声で紡いだ質問には、単純なようで難解な回答が返って来た。
「別に何もしなくていいし、好きなことをすればいい。トーコの望みはなんでも叶えるよう瑠璃茉莉には言ってある。おまえはただ、心身ともに健やかに暮らしてくれれば、それでいい」
一見、慈愛に満ちた言葉かもしれないが、要するに傷がついたり心労がかかったりすると見目を損ない味も落ちるという、牧畜家や畑作人視点の台詞である。その声に名を呼ばれたと勘違いして浮き足立った心も、今となっては虚しい。
夕餉の膳が整ったことを振り返り、透子の名を問うことも自らの名を語ることもなかった鱗王は袖を下ろした。
「今日一日、何も食べていないだろう。ひとまず夕餉にして、ゆっくりするがいい」
懸盤が三つということは、薄氷と瑠璃茉莉も相伴するのかと透子は思ったのだが、どうやら違ったようだ。白米に始まり、汁物、和え物、炙り物、煎り物、焼き物、漬け物、浸し物、煮物、煮凝り、肉醤、水菓子、和菓子……恐ろしいことに、これで一人前らしい。
「草薙の料理は一級品だ、とくと味わえ」
自慢げな薄氷の後ろで、配膳を終えた少年が溌剌とした笑顔を透子に向ける。彼も鱗王の弟子だろうか。
薄氷は少年を伴い去っていった。瑠璃茉莉も、「アタシは屋根裏部屋に控えてるから、食べ終わる頃にまた来るわね」と言い置いて座敷を辞去する。一人残された透子は、しばし所在なく棒立ちしていたが、観念して懸盤の前に腰を下ろした。
これほど質量ともに豪勢な食膳など、口にしたことはおろかお目にかかったことすらない。むしろ桃瀬家の劣悪な環境下では、常に食うに事欠く有り様だった。見ているだけで胃もたれを起こしそうだが、やはりこれは、しっかり食べて肉付きを良くするように、という仙龍の上意なのだろう。
粗食欠食が常態化した身なりに、空腹は感じる。だが肥えるため……健康に生きるためではなく健全に死ぬための食事という憂鬱と、もともとの食の細さが重なって、半分どころか三分の一も食べないうちに食欲が失せてしまった。これほど残してしまうと、鱗王の勘気に触れ、瑠璃茉莉に完食を強要されるかもしれない。
どうしよう、と悩む透子の耳を、川の流れる音が清らかに撫でた。濡縁から覗いてみると、澄んだ水の流れは意外と速く、泳ぐ魚の姿も見える。
「…………」
多少躊躇ったものの、透子は思い切って夕餉の残りを川面に捨てた。粒立った白米、舌の上で蕩ける鴨肉、飾り切りの野菜……丹精込められた料理が無情に崩れて花弁と共に水流に攫われていく。
その無惨な様子に心が痛まないわけではなかったが、若い身空で鱗王の供物となることを定められた透子の悲惨さに比べれば瑣末なものだ。
実際、膳を下げに来た瑠璃茉莉が「きれいに平らげたわねー、ナギが喜ぶわよ」と嬉しそうに笑ったときには、もう罪悪感を抱くことはなかった。
透子の全身を戦慄が駆け抜けた。だが透子が瑠璃茉莉を振りほどくより早く、瑠璃茉莉は透子から身を離し、あっけらかんと告げる。
「なあんてね。アタシは、ていうか真君以外の誰もアンタを食べはしないわよ、その鱗がある限りね」
その、と指先が透子の額を指し示す。心当たりのあった透子は思わず前髪を掻き分け、眉間のやや上に触れた。
「これ、鱗なの?」
鱗王の唇が残した痕。
「そうよ、真君の鱗。アンタが真君のものだっていう印。で、桃姑の誘惑に打ち克つのもアタシの修行のひとつってわけ」
「じゃあ、蟲が寄ってこなくなったのって」
「真君の神威を畏れて、ってこと。食欲よりは生存本能が勝るでしょうよ」
ではやはり、この一ヶ月あまりの蟲除けは、仙女の符ではなく仙龍の鱗のおかげだったのだ。山里を捨てた透子の判断は間違っていなかった。……鱗王を選んだ決断が正しかったかは別として。
「仙果って未熟なうちは匂いも殆どないしむしろ毒なんだけど、年頃になるとだんだん桃の甘い香気を放つようになって、まずは小物の蟲が湧くの。完熟が近くなれば人の鼻でも気づくようになるわ。歩く芳香剤ね」
そこはせめて香水とか薫物とか言ってほしいと思ったが、透子は黙っていた。
従兄があのような暴挙に出たのは、透子が桃姑であることも少なからず関係していたのかもしれない。だが、それを免罪符にして彼を無条件で赦す気にはなれなかった。
「で、熟したところで美味しくいただかれる、と」
「…………」
おどけた口調ではあったが、さすがに透子は笑えなかった。試しに自分の手の甲や髪先を嗅いでみたが、乳液や髪油には香料が使用されていなかったのか、良くも悪くも匂いは感じない。その様子に瑠璃茉莉が小さく笑う。
「自分じゃわかんないものなのね。人界で聞いたことない? 仙果の話」
「……仙境には三千六百本の仙木があるとか、不老長寿の仙桃を探す旅に出た隠者とかの昔話はあったと思うけど」
「じゃあ今はそういう形で人口に膾炙してるのね。正確には仙木じゃなくて仙木の一族、その無数に枝分かれした末裔の一人がアンタってこと。ちなみに男なら桃児ね」
あまりに分家と断絶を繰り返したため、今やその自覚のある家は滅多にないと言う。桃瀬家も例外ではないのだろう。
開国前後の混乱で散逸した文献や口伝に加え、文明開化の一時期は、失われた神仙や方術への信仰を前時代の遺物として廃毀する傾向さえあった。結果、蓬莱は歴史から伝説に姿を変えつつある。
婚約者を裏切った父母に罪がないとは言わないけれど、血筋に因る「蟲喰い」の由縁に介入する余地はないということに、透子は小さく安堵した。もう、里を捨て透子を遺した両親を恨む必要はない。ただ悼めばいい。
「真君は仙果を食べて鱗王にまで登り詰めたんだけど、それがとんっっでもなく美味しかったんですって。だから偶然見つけたアンタに目印つけて完熟を待つつもりだったけど、算段が狂って手許で育てることにしたらしいわよ」
割と辛辣なことを言われていると思うが、透子の関心は別の箇所に向いていた。三千年に一度の仙果を食して登仙したということは、まだ十六歳の透子と十歳も違わないように見える薄氷は、少なく見積もっても三千歳を超える計算になる。
「さ。早く戻りましょ、真君がお待ちかねよ」
「…………」
戻りたくない、とは言えず、帷子から袷に着替え直した瑠璃茉莉とは真逆の沈鬱な足取りで、透子は脱衣所を出る。
瑠璃茉莉の式鬼が迎えに行ったのか、座敷には、彼女の指摘どおり薄氷が訪れていた。千歳緑の着流しに涅色の帯を締めたその陰でもう一人、やはり透子と同年代に見える短髪の少年が、三つの懸盤にせっせと給仕をしている。
「ああ、随分綺麗になったな。俺が見込んだとおりだ」
「でしょう? でも磨けばまだまだ光りますよ、これからも励みます」
縁側に出てきた薄氷が率直な賞讃を口にすると、後ろから透子の両肩に手を添えた瑠璃茉莉も同調した。自画自賛交じりの二人に挟まれた透子はむしろ気後れを感じ、視線を下に逸らしてしまう。
ついと千歳緑の袖が揺れた。薄氷の指が透子の左耳に触れ、顔を上げた透子は彼の本性も忘れて胸の鼓動を早めた。繊細な顔立ちに反して躰つきは決して薄くなく、伸ばされた手も骨の造りがしっかりしている。
指はそのまま髪を辿り、ふむ、と軽く唸る。爪先で簪を弾いた薄氷の感想は、透子の想像の埒外もいいところだった。
「簪は口や喉に刺さりそうだ。あと、帯も解きやすい結び方にしてくれ。重ね着の枚数も最低限でいい」
「では、お召し上がりの際にはそのように配慮します」
「…………」
この師弟にとって、透子の盛装は着付けではなく盛り付けらしい。簪は魚の骨、着物や帯は果物の皮のような扱いだが、薄氷は真顔だし、瑠璃茉莉も粛々と承る。
「だがなるほど、『喰ってしまいたいほど可愛い』とはこういうことを言うのだな」
「気が早いですよ、真君」
しみじみと呟く薄氷と軽く窘める瑠璃茉莉とは逆に、透子は鉛を飲み込んだような心地になる。山里では散々「要らない娘」「役立たず」と罵倒され続けてきたけれど、こんな搾取のような形で必要とされ、役に立ちたかったわけではなかった。
絶句して表情の消えた透子の髪を弄びながら、薄氷は薄い笑みを刷いて告げる。
「住まいはここに用意したが、ほかに欲しいものがあればなんでも言え。天狐の毛皮でも月桂の花でも碧血の玉でも、不自由はさせない」
「……わたしはここで、どうすればいいんですか?」
硬い声で紡いだ質問には、単純なようで難解な回答が返って来た。
「別に何もしなくていいし、好きなことをすればいい。トーコの望みはなんでも叶えるよう瑠璃茉莉には言ってある。おまえはただ、心身ともに健やかに暮らしてくれれば、それでいい」
一見、慈愛に満ちた言葉かもしれないが、要するに傷がついたり心労がかかったりすると見目を損ない味も落ちるという、牧畜家や畑作人視点の台詞である。その声に名を呼ばれたと勘違いして浮き足立った心も、今となっては虚しい。
夕餉の膳が整ったことを振り返り、透子の名を問うことも自らの名を語ることもなかった鱗王は袖を下ろした。
「今日一日、何も食べていないだろう。ひとまず夕餉にして、ゆっくりするがいい」
懸盤が三つということは、薄氷と瑠璃茉莉も相伴するのかと透子は思ったのだが、どうやら違ったようだ。白米に始まり、汁物、和え物、炙り物、煎り物、焼き物、漬け物、浸し物、煮物、煮凝り、肉醤、水菓子、和菓子……恐ろしいことに、これで一人前らしい。
「草薙の料理は一級品だ、とくと味わえ」
自慢げな薄氷の後ろで、配膳を終えた少年が溌剌とした笑顔を透子に向ける。彼も鱗王の弟子だろうか。
薄氷は少年を伴い去っていった。瑠璃茉莉も、「アタシは屋根裏部屋に控えてるから、食べ終わる頃にまた来るわね」と言い置いて座敷を辞去する。一人残された透子は、しばし所在なく棒立ちしていたが、観念して懸盤の前に腰を下ろした。
これほど質量ともに豪勢な食膳など、口にしたことはおろかお目にかかったことすらない。むしろ桃瀬家の劣悪な環境下では、常に食うに事欠く有り様だった。見ているだけで胃もたれを起こしそうだが、やはりこれは、しっかり食べて肉付きを良くするように、という仙龍の上意なのだろう。
粗食欠食が常態化した身なりに、空腹は感じる。だが肥えるため……健康に生きるためではなく健全に死ぬための食事という憂鬱と、もともとの食の細さが重なって、半分どころか三分の一も食べないうちに食欲が失せてしまった。これほど残してしまうと、鱗王の勘気に触れ、瑠璃茉莉に完食を強要されるかもしれない。
どうしよう、と悩む透子の耳を、川の流れる音が清らかに撫でた。濡縁から覗いてみると、澄んだ水の流れは意外と速く、泳ぐ魚の姿も見える。
「…………」
多少躊躇ったものの、透子は思い切って夕餉の残りを川面に捨てた。粒立った白米、舌の上で蕩ける鴨肉、飾り切りの野菜……丹精込められた料理が無情に崩れて花弁と共に水流に攫われていく。
その無惨な様子に心が痛まないわけではなかったが、若い身空で鱗王の供物となることを定められた透子の悲惨さに比べれば瑣末なものだ。
実際、膳を下げに来た瑠璃茉莉が「きれいに平らげたわねー、ナギが喜ぶわよ」と嬉しそうに笑ったときには、もう罪悪感を抱くことはなかった。



