昏倒から意識が浮上すると、透子が視界に捉えたのは、青色の双眸ではなく錦色の花天井だった。椿、躑躅、牡丹……色とりどりの薄い花弁が風にそよぐように揺れて見えたのは、まだ寝惚けているせいだと思うことにする。

 ゆっくりと身を起こして確認すると、眠っている間に寝所に運び込まれたようだった。布団は厚みがあるのに軽く、吉祥紋の刺繍に彩られている。小上がりになっていて、三方の壁には晒竹の交錯する円窓と互い違いの飾り棚。残る一方、円窓の向かい側に掛けられた二重の帳をくぐって降りてみると、壁をくりぬいてつくられた小部屋のような趣きだった。

 その小部屋の真正面に、こちらは矩形の窓が、明かり障子と付書院を備え付け切り取られており、下に文机が鎮座している。小上がりだけで昨日まで起居していた納戸より広いくらいだが、持て余すほどではない。連なる吊行灯は様々な色硝子で、火が入ればさぞかし幻想的な光を投げかけることだろう。

 次いで自分自身を見分すると、麻の葉鹿の子の対丈の浴衣に着替えさせられている。もともと着ていたほつれの目立つよろけ縞の古着は衣桁にも架かっていなかった。四年間、肌身離さずにいた呪符の守り袋もないが、蟲の気配もない。

 この部屋自体も三方が壁、小上がりから見て左手に両開きの扉がある。閉ざされていたそれを押し開くと、隣は畳敷きの広間だった。寝所とは対照的に開放的な座敷で、石走る滝を望む面と寝所の向かいの面には障子も襖もない。桜花の陰が躍る濡縁は渓流にせり出すように設置され、川面がきらきらと陽光を砕いて流れる。少し視線を上に向けると、繚乱の桜に埋もれるように架かる橋の屋根と欄干が見えた。

「…………」

 異郷の眺めに、透子はしばし言葉もなく立ち尽くす。

 だがそれほど間を置かず、軽やかな足音と共に、寝所の角から人影が現れた。

「あっ、起きてる」

 ごく軽い驚きを含んだそ声の主は、紅掛藤の袷に紺青の前掛けを合わせた、透子と同じ年頃の少女だった。滑るような足取りで歩み寄ってきて透子を覗き込む勝気な双眸は、青い一対の宝玉のようだ。

「よく眠れた? 孟章林(もうしょうのもり)句芒洞(こうぼうどう)へようこそ。アタシは瑠璃茉莉(るりまつり)、修行としてトーコの世話を真君から任されたの」

 今まで堰き止められていた情報が一挙に流れ込み、透子は危うく溺れそうになった。だがひとつひとつを吟味する間もなく、瑠璃茉莉に促されて縁側を右へと向かう。紅掛藤の後ろ衿から小さな蛇がこぼれ落ち、するすると二人とは逆方向に這って行った。仙人の例から見て、彼女の式鬼だろうか。

「まだ寝てたらそろそろ起こそうかと思ってたのよ。夕餉の前に湯浴みしましょ」

 寝所の明かり障子の窓を南面と仮定すると、天道の太陽は既に西へと傾いており、透子は半日近く眠っていたことになる。

(……仙界の時間の概念が人界と同じなら、だけど)

 座敷の裏には脱衣所があり、湯殿があった。釣戸が上げられ、斜面に生えた木々が迫るような眺めだ。北向きでも陰鬱さはなく、西陽に枝葉の輪郭がくっきりと際立っている。その開放的な様子に思わず吐息を漏らした透子に、きりりと中性的な声が自慢げに言った。

「句芒洞で半露天風呂はここだけなのよ」
「えっ、温泉?」
「あいにく温泉ではないんだけどね。温泉ならやっぱり執明(しゅうめい)山脈かしら」

 また知らない固有名詞が出てきたが、透子が口を挟めたのはそこまでだった。有無を言わさず浴衣を脱がされ、聞く耳持たずに背中を流され、四の五の言わせず糠袋で全身を洗われて、気がついたら透子は湯煙の中に放り込まれていた。

 温かい湯に浸かるなど、何年ぶりのことだろう。水面に浮かぶ桜の花が目に華やかで、檜の香が鼻に(すが)しい。四隅の行灯が、時折色を変えるやわらかい光で壁や床を照らしていた。

「うーん、結構髪も肌も傷んでるわねえ」

 藍白の帷子に襷を掛けて透子の髪に指をくぐらせながら、瑠璃茉莉が率直な感想を漏らす。そこに悪意は微塵も感じなかったが、透子の胸にはぐっさりと刺さった。

 四年間、心身共に過酷な暮らしを強いられればあちこち荒れてしまう。袖から惜しげもなく剥き出しになった瑠璃茉莉の腕には染みひとつなく、ふたつに括った緩く波打つ髪も、半端に伸びた透子の髪よりよほどまとまりがよくて、比較すると尚更落ち込む。

「まあ磨き甲斐があるってものよね。素材はいいんだし、腕が鳴るわ」

 笑い含みに独り言ちて、瑠璃茉莉は指の腹で透子の顎から頬をつと撫でる。ぞくりとした痺れが透子の首筋を走った。

 その感覚を辛うじて押さえ込み、透子は僅かに首を反らして尋ねる。

「……そういう、わたしの世話をすることが、あなたの修行になるの? あなたも仙女?」
「そうよー。アタシは真君の弟子の一人。師父がアタシを見込んで課した役割だもの、全力で取り組まなきゃね」
「真君って言うのは、わたしをここに連れてきた仙龍のこと?」
「そ。この洞府の主人、玉條真君(ぎょくじょうしんくん)薄氷(うすらい)様。でもただの仙龍じゃないわよ。四霊が一、応龍。鱗ある者たちの長よ。句芒洞は代々鱗王の洞府でね、だから別名を雨宮(あめのみや)、龍宮洞とも言うの」
「…………」

 瑠璃茉莉の流暢な解説に、仙龍こと鱗王薄氷が如何に口数が足らなかったかを実感した。言葉足らずと言うより端から語るつもりもなかったと思われる、いっそ爽快なほどの問答無用ぶりだ。いくら心が折れた直後とは言え、その手を選んだ透子も軽率に過ぎたかもしれない。

「森にはほかにも洞府を構える仙人たちや修行中の弟子たちがいるけど、顔を合わせることもまずないし、あんまり気にしなくていいわ」

 口を達者に動かしながらも、瑠璃茉莉は手の働きを緩めず、手際よく石鹸を泡立てて透子の髪を洗い、丁寧に湯で流す。鱗王の直弟子というのは伊達ではないらしい。

 師父とは対照的に、瑠璃茉莉は透子の疑問に滔々と答えてくれた。ほかの四霊の王、羽王・毛王・介王も各地に洞府を構えていること、王位は世襲制ではなく徒弟制で受け継がれていること、鱗族は八卦の雷・風に属し、その代表格たる応龍は雨師にして風伯、雷公でもあること、等々。

 程よく身体が温まったところで浴槽から上がり、薄布で水気を拭われ、肌理を整える糸瓜水やら保湿のための乳液やらを瑠璃茉莉によって全身に塗り込まれる。母に世話を焼かれていた幼児の頃に戻った気分だが、丁重に扱われることに慣れていない透子としては、申し訳なくもあり恥ずかしくもあった。

「んー、ちょっと痩せすぎかしら」

 薄い腹から肋骨の浮いた胴へと掌を滑らせながら瑠璃茉莉が唸る。その動きはくすぐったさと同時に按摩や指圧のような心地よさもあり、透子はされるがままになっていた。

「丸々肥えろとまでは言わないけど、もう少し肉付きというか、柔らかさがほしいわねえ。骨と皮だけじゃ食いで(●●●)がないもの」
「…………!」

 聞き捨てならない単語を、透子は敢えて黙殺した。透橋での薄氷の一言が甦る一方で、何を訊いても明快に返してくれる瑠璃茉莉から答えを得ることが怖かった。

 ようやく脱衣所で肌襦袢に腕を通すと、瑠璃茉莉が軽く絞った髪にひまし油を薄く撫でつけ、丹念に梳る。洗髪後は団扇などで扇いでも乾くのに時間を要するのだが、瑠璃茉莉が手元で起こした小さな熱風はものの数分で、潤いを残しつつも完全に髪を乾かしてしまった。これには透子も素直に感動し、声を弾ませる。

「えっすごい、何、今の術」
「術ってほどでもないわよ。アタシは騰蛇だからね。鱗族だけど火精でもあるの。風呂の湯の温度調節もお手のものよ」

 では、彼女の青みがかった蘇芳の髪から蛇を連想した透子の勘も、あながち的外れではなかったわけだ。

 自らの素性をさらりと明かし、次いで瑠璃茉莉は透子の化粧と髪結いにとりかかる。眉を整え、粉白粉代わりに天花粉を薄くまぶし、唇には紅ではなく蜜蝋を刷いて艶を出す。敢えて左寄りにしたまとめ髪に玉簪と平簪を挿して終わりかと思ったら、最後に着付けが待っていた。

「……お風呂上がりにこんなちゃんとした格好する意味ある?」

 帯は基本の文庫結びだが、着物は夜の枝垂れ藤の意匠で、紺鼠の生地の全面に繊細な蝋結染めを施した渾身の逸品。肌触りも極上である。

 透子の困惑に、帯の形を整えながら瑠璃茉莉は当然とばかりに返す。

「勿論あるわよ。夕餉の前に、真君にお披露目するんだから」
「…………真君は、どうしてわたしをここに連れてきたの。なんでここまで至れり尽くせりしてくれるの?」

 短い葛藤の末、透子は意を決して尋ねた。

 仙女の従妹を「要らない」と拒んだ口で「欲しい」と言われたとき、浅ましい優越感を覚えたことは確かだ。だが仙女を差し置いて透子の何を見初めたのか、鱗王は語らなかったし、透子も問わなかった。

 けれど、その答えが見え隠れし始めた以上、いつまでも目を伏せ続けることはできない。

 水面下の透子の苦慮を知ってか知らずか、瑠璃茉莉はやはり明瞭に応じる。

「それは勿論、アンタがトーコだからよ」

 答えになっていない。そう思う反面、透子は別の可能性に声を震わせる。

「……トーコって、どういうこと」

 鱗族の師弟が散々口にするそれは、もしかしたら「透子」ではないのではないか────?

 返る瑠璃茉莉の言葉は、その推測を裏打ちした。

「三千年に一度実る仙果の化身。食べれば不老長寿の仙人になり、血や涙さえ傷や病を癒し寿命を延ばす妙薬になる絶世の甘味。それが桃姑(とうこ)よ」

 背後から密着し、するりと伸びてきた五指が透子の顎の線を撫でる。枝垂れ藤の肩に顎を乗せ、露わな首筋に鼻先を寄せて、小さな舌舐めずりと共に瑠璃茉莉はうっとりと呟いた。

「うふふ、美味しそうな匂い……」