早朝。
雨上がりの緑滴る森の中を、息を切らせて走る人影があった。
ところどころに水溜りを湛えた道は土が剥き出しで、しかも複雑に交錯しており、一見道とは判別できないような獣道踏み分け道もいくつもある。
森は果てなしとも思えるほどに深く広く、道は縦横無尽に張り巡らされ、迷路の様相を呈していた。実際、走る華奢な人影も、分岐に行き当たる度に立ち止まり、数秒の逡巡ののちに一方の道に足を向けてまた走り出す。
木立の向こうには、涼しげに流れる川の音。
青々と繁る常盤木の彼方の空はようやく白み始めたばかり、まだ朝の光よりも夜の闇の名残が色濃い。背にかかる髪を振り乱して走る人影は夜着である絞り染めの浴衣姿で、裾が割れても意に介さない足下は草履。既に呼吸は苦しげで、前髪の下の額に汗まで浮かべた表情は必死そのもの。どれをとっても、「朝食前の軽い運動」とは呼べない。
ぱしゃん、と草履の足が水溜りを蹴る。
迫る夜明けに急きたてられるように走る人影は女で、まだうら若く、少女と言っても差し支えない年頃だった。裾も息も乱し、脇目も振らず、ただ一心にある場所を目指して走り続ける。
けれども結局、今朝も、彼女はどこにも辿り着けずに終わった。
「────ここにいたか」
「!」
朝の森に沁み入るような声と共に伸ばされた二本の腕が、後ろから少女の肩を抱きとめたからだ。
気配も何も感じさせなかった。泳ぐようにするりと、いつものように、その声の主は少女を捕らえた。
背後からすっぽりと自分を包み込む相手を、少女はやや引き攣った顔で見上げる。少女の視線を受け、年長者の相手は相好を崩した。
「おはようトーコ、今朝も健康そうで何よりだ」
「……おはようございます、真君」
低く、けれど野太くはない声で微笑交じりに言われ、呼吸を整えながら透子もぎこちなく挨拶を返した。朝から耳許で囁かれるにはなかなか心臓によろしくない声と顔だ。
だが仙としての敬称で呼ばれた青年はむしろ機嫌よく、深緑に覆われた道の先に視線を向けて言葉を続ける。透子の肩に回した両腕をほどく気配はない。
「この先には枝垂桜が見事な霊泉がある。残念だが、もう花の頃は過ぎてしまったな」
「そうなんですね」
透子は胸中で肩を落とす。目指していた────捜していた場所はそこではない。
この広大な森に敷かれた道筋を透子は知らないが、闇雲に走っているわけでもなかった。目印になるものを探し、虱潰しに分岐を曲がって、どうにか自力で迷路を読み解こうとしている。
早朝の運動という建前でそんな挑戦を始めて早一ヶ月。未だに「出口」には辿り着けずにいる。
「……仙境は年中百花繚乱の地だと思っていました」
「一応四季はある。それでもこの森は、紅葉や雪よりも花々の美しい土地だ」
いつの間にか森に満ちる光と闇の割合は逆転し、鳥や虫や、様々なものたちが木陰で目を覚まし出す。今朝はもう時間切れだった。……どこにいても川のせせらぎが聞こえる神隠しの森は、黄昏から黎明の間のみ人界と重なっている。
「さあ、戻って朝食だ」
闊達なその一言と共に、ようやく真君は透子の肩を解放した。白群の単に紺桔梗の羽織を重ね、透子より長い髪にも、既に櫛が通り一分の隙なく束ねられている。
「昨日は鸞の卵が手に入ったとクサナギが言っていたな。茄子も大振りなものが収穫できたそうだ」
(このひと、食べものの話してるときがいちばん活き活きしてるんだよね……)
献立をあれこれ想像しているらしい端整な横顔を見上げ、透子は短い同居、と言うよりも庇護生活で判明した真君の性格に思いを馳せる。
この森の主人である真君は、数々の分岐に些かも惑わされず、時に透子には見つけられなかった近道を選びながら、森の中心となる洞府へと澱みなく戻っていく。そして気がつけば、先程解放された肩を再び抱かれ、透子は密着した状態で真君の隣を歩かされていた。
「いい匂いがする」
そう言って、歩きながら真君は透子の髪に顔を埋める。飽きるほど聞いた賛辞だが、透子はやや身じろいだ。
「いや、汗臭いと思いますよ」
「そんなことはない。甘い香りだ」
透子の返答を即座に否定し、それを証明するかのように、真君は汗の滲むこめかみに唇を寄せた。ひやりとやわらかい感触に、透子の首筋がぞくりと粟立つ。悲鳴はようやくここ数日で堪えられるようになったが、全身が強張ることはまだ抑えられない。
その反応を知ってか知らずか、真君はいよいよ上機嫌で続ける。
「六月も今日で終わりだ。もうすぐおまえの誕生日だな」
「はい」
「十七になるのか」
「そうです」
反対に、辛うじて柔和な表情を保ちつつも、短く相槌を打つ透子の声はどこまでも硬い。仙界は今も太陰暦が基準だが、真君は太陽暦で透子の誕生日を指折り数えていた。
「あと一年か」
木漏れ陽を受けて鋭く輝いた蒼い双眸を、真君は心底愉しげに細める。絞り染めの肩を抱く長い指先に、一瞬鉤爪が見えた気がした。
「食べ頃になるのが待ち遠しいな」
抱き寄せられた肩の下で人知れず拳を握り締め、透子は平静を装いながら決意を新たにする。
(あと一年。それまでに、絶対ここから逃げ出してやるんだから。絶対に!)
雨上がりの緑滴る森の中を、息を切らせて走る人影があった。
ところどころに水溜りを湛えた道は土が剥き出しで、しかも複雑に交錯しており、一見道とは判別できないような獣道踏み分け道もいくつもある。
森は果てなしとも思えるほどに深く広く、道は縦横無尽に張り巡らされ、迷路の様相を呈していた。実際、走る華奢な人影も、分岐に行き当たる度に立ち止まり、数秒の逡巡ののちに一方の道に足を向けてまた走り出す。
木立の向こうには、涼しげに流れる川の音。
青々と繁る常盤木の彼方の空はようやく白み始めたばかり、まだ朝の光よりも夜の闇の名残が色濃い。背にかかる髪を振り乱して走る人影は夜着である絞り染めの浴衣姿で、裾が割れても意に介さない足下は草履。既に呼吸は苦しげで、前髪の下の額に汗まで浮かべた表情は必死そのもの。どれをとっても、「朝食前の軽い運動」とは呼べない。
ぱしゃん、と草履の足が水溜りを蹴る。
迫る夜明けに急きたてられるように走る人影は女で、まだうら若く、少女と言っても差し支えない年頃だった。裾も息も乱し、脇目も振らず、ただ一心にある場所を目指して走り続ける。
けれども結局、今朝も、彼女はどこにも辿り着けずに終わった。
「────ここにいたか」
「!」
朝の森に沁み入るような声と共に伸ばされた二本の腕が、後ろから少女の肩を抱きとめたからだ。
気配も何も感じさせなかった。泳ぐようにするりと、いつものように、その声の主は少女を捕らえた。
背後からすっぽりと自分を包み込む相手を、少女はやや引き攣った顔で見上げる。少女の視線を受け、年長者の相手は相好を崩した。
「おはようトーコ、今朝も健康そうで何よりだ」
「……おはようございます、真君」
低く、けれど野太くはない声で微笑交じりに言われ、呼吸を整えながら透子もぎこちなく挨拶を返した。朝から耳許で囁かれるにはなかなか心臓によろしくない声と顔だ。
だが仙としての敬称で呼ばれた青年はむしろ機嫌よく、深緑に覆われた道の先に視線を向けて言葉を続ける。透子の肩に回した両腕をほどく気配はない。
「この先には枝垂桜が見事な霊泉がある。残念だが、もう花の頃は過ぎてしまったな」
「そうなんですね」
透子は胸中で肩を落とす。目指していた────捜していた場所はそこではない。
この広大な森に敷かれた道筋を透子は知らないが、闇雲に走っているわけでもなかった。目印になるものを探し、虱潰しに分岐を曲がって、どうにか自力で迷路を読み解こうとしている。
早朝の運動という建前でそんな挑戦を始めて早一ヶ月。未だに「出口」には辿り着けずにいる。
「……仙境は年中百花繚乱の地だと思っていました」
「一応四季はある。それでもこの森は、紅葉や雪よりも花々の美しい土地だ」
いつの間にか森に満ちる光と闇の割合は逆転し、鳥や虫や、様々なものたちが木陰で目を覚まし出す。今朝はもう時間切れだった。……どこにいても川のせせらぎが聞こえる神隠しの森は、黄昏から黎明の間のみ人界と重なっている。
「さあ、戻って朝食だ」
闊達なその一言と共に、ようやく真君は透子の肩を解放した。白群の単に紺桔梗の羽織を重ね、透子より長い髪にも、既に櫛が通り一分の隙なく束ねられている。
「昨日は鸞の卵が手に入ったとクサナギが言っていたな。茄子も大振りなものが収穫できたそうだ」
(このひと、食べものの話してるときがいちばん活き活きしてるんだよね……)
献立をあれこれ想像しているらしい端整な横顔を見上げ、透子は短い同居、と言うよりも庇護生活で判明した真君の性格に思いを馳せる。
この森の主人である真君は、数々の分岐に些かも惑わされず、時に透子には見つけられなかった近道を選びながら、森の中心となる洞府へと澱みなく戻っていく。そして気がつけば、先程解放された肩を再び抱かれ、透子は密着した状態で真君の隣を歩かされていた。
「いい匂いがする」
そう言って、歩きながら真君は透子の髪に顔を埋める。飽きるほど聞いた賛辞だが、透子はやや身じろいだ。
「いや、汗臭いと思いますよ」
「そんなことはない。甘い香りだ」
透子の返答を即座に否定し、それを証明するかのように、真君は汗の滲むこめかみに唇を寄せた。ひやりとやわらかい感触に、透子の首筋がぞくりと粟立つ。悲鳴はようやくここ数日で堪えられるようになったが、全身が強張ることはまだ抑えられない。
その反応を知ってか知らずか、真君はいよいよ上機嫌で続ける。
「六月も今日で終わりだ。もうすぐおまえの誕生日だな」
「はい」
「十七になるのか」
「そうです」
反対に、辛うじて柔和な表情を保ちつつも、短く相槌を打つ透子の声はどこまでも硬い。仙界は今も太陰暦が基準だが、真君は太陽暦で透子の誕生日を指折り数えていた。
「あと一年か」
木漏れ陽を受けて鋭く輝いた蒼い双眸を、真君は心底愉しげに細める。絞り染めの肩を抱く長い指先に、一瞬鉤爪が見えた気がした。
「食べ頃になるのが待ち遠しいな」
抱き寄せられた肩の下で人知れず拳を握り締め、透子は平静を装いながら決意を新たにする。
(あと一年。それまでに、絶対ここから逃げ出してやるんだから。絶対に!)



