――二十三時。
 残り時間は十三日。夜の神社に虫の声が響く。 
 賽銭箱の前で手を合わせた。
 
 ここが僕の居場所。あと少しの間だけ。
 僕は三十日間だけ人間として過ごせる、クマのぬいぐるみだ。
 美心が探しているぬいぐるみは、僕のこと。

 二十四回目の誕生日。
 ふと気づくと、大雨に包まれている道端で傘をさしていた。
 その瞬間、人間になれたことを悟った。
  
 『人間になって、美心を笑顔にしてあげたい。友達をいっぱい作ってあげたい』と思い始めたのは、いまから五年前。
 その願いが叶って、いまここにいる。
 
 美心に拾ってもらう直前が、一度目のチャンスの十二年目。
 その周期で、生涯に一度だけチャンスが巡ってくる。

 一度目のチャンスは来たが、絶望のあまり願いを口にできなかった。
 なぜなら、美心に拾ってもらった直後だったから。
 
 美心に出会う直前の、前の持ち主の家にいた時のこと。
 袋に押し込まれ、カラスに突かれた。
 
『僕はもう、ここで終わりなんだ』

 絶望の縁に立ったが、そんな僕に一筋の光が差し込んだ。

『ぬいぐるみさん、大丈夫?』

 あどけなく温かな声と、小さな手。
 三歳の美心は、僕を抱き上げ、体を縫い合わせてくれた。

『もう元気になった? ……なまえ、どうしよう』

 彼女はカーテンの隙間から空を眺めていると、ふと笑顔になった。
 
『大きなお空の下で出会ったから、『クゥちゃん』はどう? 美心ね、さいきん、かんじも一緒にれんしゅうしてるんだよ。すごいでしょ』

 一体のぬいぐるみとして扱ってもらえるくらい再生していたが、心は閉ざしていた。
 
 でも、彼女は前の持ち主とは違った。
 新しい鈴に変えてくれたり、いっぱい話しかけてくれて、夜は一緒に眠ったことも。
 
「助けてくれて、ありがとう」

 それが伝えられない。感情がなに一つ伝えられない体だから。 
 次の周期で、彼女になにかお礼をしよう。

 
 人間になって、美心の成長を見守っていた。
 けれど、最近は心が冷え始めていた。
 友達に恵まれた美心を見て、気づけば美心を思う心が恋になっていた。

「僕はただ、美心の幸せだけを願っているのに」
  
 涼しい夜風が僕の心を揺らし、手が震えた。

 
 手で顔を覆い、震える肩を小さく揺らす。
 遠くから近づいてきた足音が後ろで止まった。
 顔を見られたくなくて、離れる。

「こんな時間に手を合わせてるってことは、あんたもぬいぐるみ?」

 すれ違った直後、彼は呟いた。
 僕は心臓がドキッとする。
 振り返ると、センターパートでロン毛スタイルの三十歳くらいの大人の男性が、賽銭箱の前で手を合わせた。

「大丈夫。俺も同じだから」

 思わずホッと胸を撫で下ろした。
 
「……仲間、なんですね」

 人間に正体を知られたら、ぬいぐるみに戻る運命。 
 だからこそ、彼の言葉に救われた。
 
「こんな時間に来る奴は、だいたいそう。呪われたように境内社に向かっていくのを何度も見てたから」
「みんな同じところに魂が集まっていたんですね」

 僕は拝殿を見上げた。ここには沢山の想いが眠っているなんて。
 それぞれ、どんな想いを抱えているのだろう。
 
「ここは、君だけの家じゃないってこと。……で、いま十二年目?」
「いえ、二十四年目です」
「なんだ、同期か」

 彼は長い髪を耳にかけると、深い溜息をつく。
  
「一番近くで彼女の悩みを聞いてあげたかったから、この姿にしてもらったんです」

 希望は伝えられるから、同級生として頼んだ。
 性別以外は許可済み。
 
「さっきの呟き、こっちまで聞こえたよ。でもね、恋をしても君の想いは報われないよ」
「わかってます。だから、どうしたらいいのかな、って悩んでて」

 暗い顔で俯く僕に、彼は鼻で笑った。
  
「もしかして、”特例”とか、信じてる?」

 僕は頭に血が上り、怒鳴り声を上げた。
 
「信じてない! 数千万体分の一の確率なんて」

 特例を得た神主さんのように、僕も本物の人間になれるかなんて……。

 彼は肩を震わせている僕を見て、ふっとため息をつく。
  
「まぁ、俺は諦めてるけどね。神主のように、古い人間と思われたくないし」

 変に期待しても、裏切られた時のショックが、どれだけのものかわかっている。
 ゴミ袋に突っ込まれたあの時の冷たい目。
 いまでも忘れられないほど。
  
「失礼なことを言わないで下さい! 神主さんは素晴らしい人です」

 神主さんは、心穏やかで理解がある人。
 人間界での情報操作は彼が担っている。
 僕が難なく生活できるようにサポート役に回ってくれている。

 彼はしばらく黙った。
 きっと、僕との間に見えない壁が立ちはだかっているから。
 
「まぁ、そんなに熱くなるなよ。恋愛なんて、思い通りにいくわけがない」

 いまの立場が身に沁みている分、返事ができなくなり、瞳の光が弱くなっていった。
 
「好きな人の結婚を見守るか、捨てられるか。これが、俺らの宿命だよ」
 
 彼は僕の肩をポンポンっと叩いた後、御社殿の横へ向かった。
 唇を結び、拳を握りしめながら佇んでいると、彼はふとなにかを思い出すように足を止めた。

「……それが、いまの俺。惨めだろ」

 彼は寂しそうな声で伝え、再び足を進めた。
 土の湿った香りが、僕の心を沈めていく。

 僕は唇を固く結んだ。
 受け入れたくない。――でも、運命は変えられない。
 
 だからせめて、わずかに残された時間を、大切にしていこうと思っている。
 美心の笑顔だけが、僕の目に残った。