――私は、胸が切り裂かれそうな思いのまま、理科室を離れ、全力で走った。
 全身の血の気が引いていくのがわかる。

 後ろから「美心、待って!!」という佐知の叫び声が聞こえてきたけど、途中から青空くんの声に切り替わった。
 無視して、階段を駆け下りる。

「はぁっ……、はぁっ……、はぁっ……」
 
 喉がむず痒く感じるくらい、息が苦しい。
 青空くんが、『お互い好きなら一緒にいるべきだと思う』って言ってた。

 いつから佐知のことが好きだったの?
 よりによって、どうして佐知なの?

 私たちがケンカしてることを知ってるから、隠そうとしてたの?
 恋愛に興味がないって言ってた。
 あれは、私を傷つけないための嘘だったの?
 
「美心! 待って、美心っっ!!」

 足音が近づいてくる。
 逃げ切れるかどうかは、時間の問題。

 けれど、足を止めたくなかった。
 信用していたのに、裏切られていたから。
 
 青空くんは昇降口の前で、私の隣につく。
 もう逃げられないと思って、早足に切り替えた。
 彼は隣から強い口調で言った。

「待って、美心」
「待たない」
「話をしよう」
「私は話なんてない」
「どうして」
 
 私は唇をぎゅっとかみしめ、立ち止まった。
 彼は私の前にまわる。
 私は拳を震わせ、か細く吐き出した。

「どうして私を巻き込んだの? 私の気持ちをこんなにも弄んで……」

 喉の奥から絞り出された気持ちは、醜くて惨めだ。
 恋愛のために青空くんに利用されていたことが、悔しくてたまらない。
 
「どうして、そう思ったの?」

 彼から、ため息混じりの声が届く。
 きっと、私に呆れてる。
 
「……告白、されてたんだよね。佐知のことが好きなら好きって、最初から言えばいいでしょ?」

 私の鼻の奥がツンと痛む。
 でも、それ以上に痛いのは、心の中。
 彼は黙ったまま、悲しそうな瞳で私を見ている。
 
「私を利用しても無駄だよ。二人の恋愛、ぜんっぜん応援する気ない。青空くんの幸せなんて、願ってないから!」

 昇降口に、私の声だけが響いていた。
 青空くんはわかってない。
 五年間、どんな気持ちで佐知のことで悩んでいたか。
 
 謝るとか、そういうレベルじゃない。
 そこまで気持ちが追い詰められているのに、恋愛のために利用してくるなんて。
 青空くんなんて……、もう、絶交だよ。
 
 私は俯いたまま唇をかみしめていた。
 唯一の光を失って、逃げ場がなくなってしまったから。

 昇降口に沈黙が広がった、その時――彼は私を両手でふわりと包みこんだ。

「…………全部、勘違い」

 耳元で穏やかな声が届くと、全身の力がスッと抜ける。
 反論するかと思っていたのに。

 震える体を抱きしめられ、彼の香りに包まれる。
 安心なのに、悔しさが胸を締め付けた。
 
「僕が願ってるのは、美心の幸せだけだよ」

 彼は体をゆっくり離し、私の顔を見つめ、ニコリと微笑んだ。
 胸がズキッと痛みだす。

 私は卑屈な気持ちなのに、どうしてそんなに穏やかでいられるの?
 俯くと、彼はポケットから出したものを、私の手のひらに乗せた。――ブドウ飴だ。
 
 これを最初にくれたのは、研修合宿の最中、山で遭難した時。
 「元気になってね」って、私を励ましてくれた。
 あの優しさはいまでも変わらないのに、私は尖ったまま。
 
 彼は、私の肩をポンポンと二回叩いた後、廊下の奥へ消えていった。
 その背中を見て、一粒の涙が一直線に溢れる。
 酷いことを言ったから、怒ってもおかしくないのに。
 
 胸のざわめきが、止まらない。
 どうしてこんなに落ち着かないんだろう、と思うくらい。
 
 ブドウ飴の個包装を破り、口の中へ。
 香りが充満すると、二粒目の涙がこぼれ落ちた。

 これが何を意味しているか、わからない。
 ただ、胸の奥が熱くなっていく感覚だけは、伝わっていた。