――ある日の数学の授業中。
 僕が黒板の字をノートに書き写してると、後ろの席の岡江さんが、肩をトントンと叩いてきた。
 振り返ると、小さな紙切れが渡される。
 
 開くと、そこには『四時間目が終わったら理科室に来て欲しい。大事な話がある』と書いてあった。
 そこには、小さな決心が滲んでいるように見えた。

 昼食の時間。
 美心と賢ちゃんに「購買に行ってくる」と伝えた。
 普段二人は購買に行かない。

「今日は私も購買に行こうと思ってたんだ」

 美心はカバンから財布を取り出して、にこっと笑った。
 計画が狂い、僕の額に冷や汗が滲む。
 
「きっ、奇遇、だね……。で、でも、先に一階の公衆電話で、家族に連絡しなきゃいけないから、後で行くね」

 誤魔化すつもりだったのに、賢ちゃんは何食わぬ顔でスマホを出して、僕に向けた。
  
「おまえスマホ持ってないもんな〜。良ければ貸すよ?」

 僕は首を振った。
 一瞬だけ岡江さんの顔が遠退いた。
 
「必要ないよ! 借り物するのが苦手だし」
「じゃあ、先に行ってるね。もし、購買で会えなかったら教室に戻ってるから」
「うん。じゃあ、また後で」

 二人の背中を見送ると、深い溜息が漏れた。
 
 
 約束の理科室に向かった。
 静かな廊下に一つの足音を立てたまま扉を開けると、岡江さんは手前の椅子に座っている。
 
 目が合うと、彼女はゆっくりと立ち上がる。
 その瞳から、なにか力強いものが伝わってきた。

「ごめんね、突然呼び出しちゃって」
「大丈夫。で、どうしたの?」

 理科室には、僕たちの声だけ響き、薬品の香りが鼻に届いた。
 最近、岡江さんの笑い声が消えていたことには気づいていた。
 
 美心は、岡江さんと二人きりにならないように、教室を出ることが多かったから。
 明らかに岡江さんを意識していたと気づいたのは、美心が彼女の背中をよく見ていたから。
 
 気にしたくないなら絶対に見ない。
 ――僕があの人たちに気をかけたり、目で追わなくなったように。

「高槻くんにアドバイスをもらってから、少し考えたんだ」

 彼女は俯いて、深い溜息をついた。
 
「……うん。それで?」

 僕は首を傾けた。
 
「逃げられても、諦めるのをやめた。よく考えたらあたし、悪い方向に考え過ぎてたみたい」

 彼女の拳は震えていた。
 揺るぎない決意を口にしても、未来に不安が残されているのだから。
 
「また美心と一緒に笑いたい。高槻くんたちと楽しそうにしている姿を見てたら、あたしまで嬉しくなってた」

 きっかけは、僕? と思ったら、胸の奥がじんわりと温かくなった。
 
「最初は笑うことさえ難しいかなって思ってたけど、美心は変わったよね」

 僕は、美心と最初に話した時のことを思い出していた。
 会話にさえ繋がらないと、あの頃は思っていた。
 
「近くで見ていたら、欲張りになってた。好きだからこそ、一緒にいたいしね」

 その瞳からは、キラキラと輝く雫がまっすぐに落ちていった。
 美心のことを心から大事に想ってくれるのが、ちゃんと伝わってくる。
 美心が岡江さんと仲直りするのが、僕の目標だから。
  
「……そう言ってくれると嬉しい」

 ニコリと微笑むと、岡江さんも安心したように、笑った。
 
「お互い好きなら一緒にいるべきだと思う。それが僕にとって一番の幸せ。岡江さんの幸せでもあるからね」

 静寂につつまれている廊下に、小さな足音が鳴った。
 少し緊張が走り、要点を伝えることにした。
 
「高槻くん……」

 僕には彼女の決意がしっかり届いていた。
 よかった。もう少しで仲直り出来そうだ。

 このまま全部うまくいく気がした。安心しかけた、その時――。
 先ほどから近づいていた足音が、そこで止まった。

「う、そ…………。どうして……」
  
 扉の方から聞き覚えのある声が聞こえた。
 びっくりして振り返ると、美心が真っ青な顔をして立ち尽くしている。

 賢ちゃんと一緒に購買に行ったはずなのに、どうして理科室へ。
 思わず全身が固まった。

「美心。どうしてここへ」
「忘れ物を思い出して……」

 美心が声を震わせながら言うと、岡江さんは決心を固めたように美心の前へ。
 自分の胸元の手を握り、目を合わせた。

「み、美心。あのね……。すごく大事な話があるから、聞いてくれるかな……」

 岡江さんの決心とは対照的に、美心は揺れた瞳で僕の方へ目を向けた。

「無……理……」

 美心の息が荒くなっていくのがわかった。

「ううん。今日こそ、今日こそは……話し合わなきゃいけないって思ってる」
 
 岡江さんの瞳には、涙が浮かんでいた。
 美心の瞳は、それをしっかり捉え、ゴクリと息を呑んだ。

「しんじ、られないの……」
  
 美心は瞳をゆらし、ゆっくりと後ずさり、僕と岡江さんを交互に見つめる。
 緊張感に包まれているせいか、理科室の音以外、聞こえない。

 美心の細々しい声は、岡江さんとの境界線を引き続けていた。
 瞳に浮かび上がる涙を見た瞬間、僕はナイフで傷つけられたような気持ちになって、一歩踏み出した。
 
「佐知の話、聞ける余裕なんて、ない……」

 美心は目線を外すと、廊下の奥へ走り向かった。
 岡江さんは、すかさず背中を追う。
 もう、二度と後悔しないと言っているかのように。

 二人の背中を追えない自分が、たまらなく情けなかった。
 息を呑み、拳を握った。
 でも、思い浮かぶのは、美心の悲しそうな顔。

 嘘をついて岡江さんに会いに来た罪悪感に、胸がぎゅっとなる。
 美心は僕を信じていたからこそ、ショックが重なったのだろう。

 このままじゃ、誰も信じられなくなる。

 顔を見上げ、二人の後を追った。
 このままじゃ、自分も後悔してしまう――そんな気がした。