突然、電車が動き出した。ディスプレーの映像は消え、『出発』とだけ表示されていた。緊急停車時間が終了したようだ。すぐさまわたしは彼女の横顔を見つめた。魂がソフィアに飛んでいるのではないかと心配だったからだ。しかし、今度はなんの問題も起らなかったようで、彼女の目には揺さぶられるような強い想いが満ち溢れているように見えた。

「ソフィアでキュレーターをしているなんて……」

 それは望みうる最高の未来だと言った。彼女の夢は海外で活躍することであり、特に近代美術について評価の高い『MoMA』か『ソフィア』でキュレーターを務めることができたらどんなに幸せだろうかと考えていたのだ。

「良かったですね、夢が叶って」

 しかし、彼女は頷くことなく、わたしに視線を向けた。

「まだ……」

 新たに与えられたキュレーターとしての使命が果たせているのかどうか確認するまでは首を縦に振れないのだろう。わたしは〈開催できていたらいいですね〉と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。なんの確証もないのに安易なことを言うわけにはいかない。そう言い聞かせていると、彼女の声が聞こえてきた。

「でも、もしできていたら」

 見ると、祈るような表情で両手を合わせて目を瞑っていた。わたしもすぐに追随した。『絵は核兵器よりも強し』を実現させるという二人のキュレーターの望みは人類すべての望みであり、母なる地球の望みでもあるからだ。

「ピッ! ピッ! ピッ! ピッ! ピッ!」

 突然、警告音が鳴った。目を開けると、ディスプレーが真っ赤に染まっていた。その中から白抜きの強調文字が浮かんできた。

『2027年緊急速報! 世界終末時計が50秒を切る!』

 2020年に史上最短の100秒になってからたった7年で50秒以上も短くなったことを告げていた。世界滅亡に向けて一気に加速しているようだ。核戦争の危険性が増し、地球環境悪化が進んでいるのだろう。

 世界の政治家は何をしているのだ! 一刻も早く自国優先を捨てて世界協調に転換しなければならないのに誰も行動していないのか!

 はらわたが煮えくり返りそうになったが、それはすぐに戦慄へと変わった。事態は深刻なのだ。一刻も猶予できないところまで来ているのだ。わたしは不安に押しつぶされそうになったが、息を飲むような音が聞こえて、ハッとして彼女を見た。顔が青ざめていた。彼女も深刻に受け止めているようだった。

「ダメかもしれない……」

 彼女が両手で顔を覆った。例え日本で『ピカソ・ゲルニカ展』が実現できたとしても、なんの力にもならないのではないかという危惧が彼女の頭の中で膨らんでいるようだった。

「諦めたら終わりです。信じましょう、絵の力を」

 わたしは彼女より先に両手を合わせて目を瞑った。そして、次の速報を待った。

        *

「ピポパピパピポピパ」

 音に反応して目を開けると、ディスプレーの色が赤から濃い緑に変わっていた。見つめていると、ゆっくりとしたスピードで白抜きの文字が浮き上がってきた。

『ニュース速報:「ピカソ・ゲルニカ展」が世界4都市で同時開催!』

 わたしは「ヤッター!」と叫んで、すぐに彼女を見た。しかし、その表情には開催できた喜びは微塵も感じられなかった。

「4都市……、同時……、そんなこと、ありえない……」

 ゆらゆらと首を横に振りながら焦点を合わせられない様子でディスプレーを見つめていた。

「『ゲルニカ』は世界に一つしかないのです。4都市を巡回するのならわかりますが、同時に展示することは不可能です」

 気落ちしたような声を出した彼女にわたしは頷かざるを得なかった。

「誤報かもしれませんね」

「そうだと思います。だって4都市ということ自体おかしいですよね。企画しようとしていたのは広島と長崎なのですから」

 その通りだった。同時開催も4都市も有りえないのだ。不信の目でディスプレーを見つめていると、文字列が右横にスライドして左から新たな文字列が飛び出してきた。

『原爆投下から82年の時を経て、8月6日午前8時15分に、広島、長崎、東京、マドリードの4都市で「ピカソ・ゲルニカ展」が同時にオープニングを迎えました』

 誤報と決めつけたわたしたちをピシャリと叱りつけるように具体的な内容が表示された。

「どういうこと?」

 狐につままれたような表情を浮かべた彼女が次の表示を待っていると、文字列が右横にスライドアウトして、新たな文字列が左からインしてきた。

『広島には「国連本部安全保障理事会議場前」のレプリカが、長崎には「ウンターリンデン美術館(フランス・コルマール)」のレプリカが、東京には「群馬県立近代美術館」のレプリカが展示されています。この3点はピカソ公認のタペストリーです』

 大きく目を見開いた彼女からアッという声が漏れた。そして、「タペストリー……」という呟きが続いた。

 しばらくして落ち着きを取り戻した彼女が、ロックフェラー家から国連に寄託されたタペストリーのことを、そしてそれが何故安全保障理事会議場前に飾られているのかということを話し始めた。
 それは、常任理事国や会議に出席するすべての人に対して戦争の惨さを訴えるためであり、このような悲劇を二度と起こしてはならないと自戒させるためであり、反目し合う常任理事国を戦争という犯罪に正面から向き合わせるためだということだった。

「それが広島に貸し出されたということは、『絵は核兵器よりも強し』という強い想いが国連を動かしたのかもしれませんね」

「間違いなくそうだと思います。それに共感したウンターリンデン美術館と群馬県立近代美術館も足並みを揃えてくれたのでしょう」

 二人のキュレーターが出会ったことによって大きな波動が起ころうとしていた。

 わたしは次の表示を待った。彼女も食い入るように見つめていた。すると、また文字列が右に動いた。

『ソフィアが招待した広島と長崎の小学生50人がピカソのゲルニカを模写。その様子を世界中にライヴ配信』

 速報はなおも続いた。

『広島でG20開催決定。長崎でG20国防相会議開催決定』

 核保有国や巨額の軍事費を投入する国々の首脳が原爆投下2都市に参集するという信じられないようなニュースだった。

「こんなことが……」

 彼女の両目は湖となって今にも溢れそうになっていた。世界は確実に協調と和平に向かって動き出しているようだった。

『ピッピピッピピッピピッピピッピピッピピ♪』

 スキップを踏むような軽快なメロディが流れると同時に新たな文字列が現れた。

『2028年ニュース速報:世界終末時計が100秒に戻る!』

 それは核兵器戦争による人類消滅が遠のいた証だと思った。間違いなく二人のキュレーターが世界を救ったのだ。

「良かった……」

 わたしが呟いて息を吐いた瞬間、彼女がしがみついてきた。男性不信の極致に達していた彼女が自らの意志でわたしに抱きついてきたのだ。わたしは驚きの余り体が固まってしまった。

「ごめんなさい、つい」

 彼女がハッと気づいたように体を離して、恥ずかしそうな表情でうつむいた。思わずわたしは彼女の手を握りたくなったが、ぐっと堪えて自分の両手を握り合わせた。

 拙速は禁物だ。彼女とのことは時間をかけなければならない。

 そう思った時、電車が少し速度を上げた。その振動に誘発されるように彼女が顔を上げたが、不可解そうな面持ちになっていた。