気づくと、部屋を満たす色が温かみを失っていた。太陽が西に大きく傾いたのだろうか、室温もかなり下がっているようだった。それに、彼女の指は1ミリも動いていなかった。
 でも、わたしは焦らなかった。彼女が東京に帰るまでにまだ24時間以上残っているのだ。焦る必要は何も無い。
 しかし、心と指は待つことができても、我慢の限界に達しているものがあった。物乞いをするような情けない音がお腹から発せられたのだ。
 すると、隣から別の音が聞こえた。彼女の笑い声だった。とほぼ同時に彼女の左手が太腿へ戻り、更にお腹の上に移動した。そして、くすっと笑って、わたしに向けた顔を小さく揺らした。

「私もお腹ペコペコなんです」

「食べに行きますか? それとも、何か買ってきましょうか」

「お願いします」

 待っている間に高松さんが遺していったものを整理したいという。

「わかりました」

 わたしはベッドから起き上がり、玄関で靴を履き、隣の老人に気づかれないようにそ~っと外に出て、足音を忍ばせながら階段を降り、コンビニに向かった。

        *

 店に着いたが、すぐには入らなかった。あの老人がいるかもしれないからだ。慎重に外から覗いて、来ていないことを確認した。
 ほっとしたせいか、またお腹が鳴った。たまらず調理済み食品売場へ直行し、棚の端から端へ目を這わした。すると、なぜかグラタンのところで目が止まった。〈マルゲリータ風グラタン〉と〈濃厚カルボナーラグラタン〉がわたしを見つめていた。 躊躇わず、二つをカゴに入れた。
 あとは睡眠導入のためのお酒だ。アルコール売場に行って、缶ビールに手を伸ばした。 しかし、違うような気がした。もう少しアルコール度数が高い方がいいと思って、濃いめ(・・・)のハイボールを2本買った。

        *

 アパートの手前で立ち止まって、様子を窺った。老人の気配は感じられなかった。それでも出かけた時と同じように足音を忍ばせて階段を上がり、ドアの前で耳をそばだてた。

 大丈夫そうだ。

 しかし、慎重には慎重を期さなければならない。カチャッという音がしないように開錠して、音を立てないようにそ~っとドアを開けて、中に入った。ドアを閉める時も細心の注意を払った。
 中に入ると、彼女はベッドに腰かけて通帳を見ていた。左腰の横にはカードと印鑑と写真が置かれていた。わたしは声をかけずに台所でグラタンをチンした。
 台所にあった使い込まれた元クリーム色らしきトレイにグラタンとハイボールとガラスコップを乗せて、ベッドまで運んだ。
 右横に座ると、彼女は通帳をベッドの上に置いた。わたしはトレイを二人の太腿に渡すように置き、ハイボールをそれぞれのコップに移した。
 マルゲリータ風グラタンをひと口食べた彼女は、「おいしい」と笑った。選択が間違っていなかったことに安堵し、わたしは濃厚カルボナーラグラタンを口に運んだ。うまかった。それに、ハイボールとの相性が良かった。一気に掻き込んで、一気に飲み干した。
 〈ごちそうさま〉と手を合わせて横を見ると、彼女はまだ半分も食べていなかった。 それはそうだ。ガサツで早食いの自分とは違う。ゆっくりと口に運ぶ優雅な仕草に見惚れながら、食べ終わるのを待った。

 食べ終わると、彼女は片づけに立ち上がろうとしたので、それを制して、トレイを台所に運び、容器を洗った。高松さんとの思い出に浸っていてほしかった。
 片づけを終えて彼女の右横に座り直すと、彼女は通帳を手に取り、躊躇いがちにこちらに差し出した。見ると、100万円を超える残高が記帳されていた。食費や遊興費を切り詰めてコツコツとお金を貯めていたのだろう。質素な生活ぶりが偲ばれる部屋を見回しながら、彼のフィレンツェへの強い想いが改めて蘇ってきた。すると、意図せぬことが口を衝いた。

「高松さんの代わりに行ってあげたらどうですか」

 しかし、返事はなく、ラファエッロの絵をじっと見ている横顔には寂しい影が映っているように見えた。それは、高松さんの面影が蘇ってきたせいだと思った。だから、通帳を彼女に返しながら、「未来へ行くのはフィレンツェへ行ったあとにしましょうか」と決断を急ぐ必要はないことを仄めかした。

「いいえ、もう決めています」

 首を横に振った彼女の声は揺るぎがなかった。その顔にはさっきまでの寂しそうな影は見えなかった。

「お願いします」

 わたしをじっと見つめたあと、ゆっくりとベッドの(ふすま)側に身を横たえた。そして、手に持った写真をジーンズのポケットにしまって、通帳とカードと印鑑をお腹の上に乗せた。それから、覚悟を決めたように目を瞑った。