「もう二度と会えないなんて……」

 いきなり涙声になった。カンヴァスに背を向けた彼女の肩が震えていた。両手が顔を覆うと、肩の揺れが大きくなった。わたしは彼女の前に立って、肩に手を置いた。そして、静かに抱き寄せた。ところが、思いもよらない反応が返ってきた。突き飛ばされたのだ。それも強い力で。わたしはソファの後ろの(ふすま)に頭をぶつけてしまった。何がなんだかわからなくなって声も出なかったが、彼女の目には恐怖が浮き出ているように見えた。

 えっ? どういうこと?

 頭の中がぐちゃぐちゃになった時、いきなりドアが叩かれた。

「高松さん」

 ハッとして我に返ると、更に強くドアが叩かれた。

「高松さん!」

 その声に聞き覚えがあった。隣の老人の声に違いなかった。

 さっき突き飛ばされて襖にぶつかった時の音が聞こえたのだろうか? 

 わたしは右手の人差し指を唇に当てて彼女を見つめると、緊張した面持ちで頷いた。
 そのまま音も立てずにじっとしていたが、ドアを叩く音が止むことはなかった。

「いるのはわかってるんですよ。ドアを開けてください」

 執拗に要求が続いた。

「もしかして中にいるのは高松さんじゃないんですか?」

 警戒するような声に変った。

「中にいるのは誰ですか? もしかして」

 ドアノブを何度も引っ張る音がした。

「開けないんだったら警察を呼びますよ!」

 最後通牒を突きつけるような険しい声になった。彼女が不安そうにわたしを見たので、ドアノブを回す振りをした。このまま何もしなければ本当に警察を呼ばれかねない。開けるしかなかった。ロックを解除して、ドアノブを回して押し開くと、あの老人の顔が見えた。

「お前!」

 いきなり大きな声を出された。完全に侵入者と間違われているようだった。

「ちょっと待ってください。訳を説明しますから」

 わたしは自分の唇に右手の人差し指を当てて、これ以上騒がないように促した。しかし、彼の口は〈泥棒〉と言いたそうにむずむずしているように見えた。

「妹さんに開けてもらったんです」

 わたしは奥に向かって名前を呼んだ。
 彼女が姿を見せると、老人の顔色が変わった。興奮が少し収まったように見えた。そのせいか、彼女も落ち着きを取り戻したようで、自己紹介をしてから「兄がいつもお世話になっています」と頭を下げ、今回のことを丁寧に説明した。

「しばらく留守にするという連絡があったので様子を見に来ました。荷物の整理を頼まれているので音を立てる時もあるかもしれませんが、できるだけご迷惑をおかけしないようにいたしますので、ご理解賜りますようよろしくお願いいたします」

 彼女は丁寧に深く頭を下げた。しかし、その後頭部に突き刺すように遠慮のない声が飛んだ。

「留守っていつまで?」

 顔を上げた彼女は少し困惑しているように見えたが、それでも落ち着いた声を出した。

「それは個人的なことですので」

「どこに行ったの?」

 彼女の言葉が耳に入っていないかのようにぶっきらぼうな声が続いた。

「それもちょっと……」

 助けを求めるようにわたしに顔を向けたので、話を引き取った。

「事情をご説明しましたので、そろそろお引き取り頂けませんでしょうか?」

 できるだけ丁寧に柔らかい口調でお願いしたが、老人は引くつもりがないようだった。

「本当に妹?」

 玄関の中に入ってきてじろじろと彼女を見た。〈高松さんにこんな美人の妹がいるはずはない〉というような目で。
 彼女は何も言わず奥の部屋に行き、バッグを持って戻ってきた。そして、中から小型のシステム手帳を取り出し、内ポケットから写真を引き抜いて、老人に差し出した。高松さんと彼女が並んで写っている写真だった。老人は写真と本人を見比べて、喉の奥で声にならない音を鳴らした。動物が唸っているような奇妙な音だった。何度も見比べたあと、〈フン〉と鼻を鳴らして彼女に写真を返したが、納得している感じはしなかった。それでも、視線を向けたまま後退りながら玄関から外へ出た。でも、ドアは閉めなかった。不審そうな目でわたしを見続けていた。わたしも老人の目を真っすぐに睨みつけた。根競べのようになったが、わたしは一歩も引かなかった。それが功を奏したのか、最初に視線を外したのは老人の方だった。もう一度〈フン〉と鼻を鳴らして、ドアを閉めずに背を向けた。
 数秒後に隣のドアが開いて、締まる音がした。わたしは目の前のドアを閉めて、ロックをかけた。やれやれ、といった感じでふ~っと息を吐くと、24時間連続で仕事をしたような疲れが全身を覆っていた。