「ごめんなさい」

 玄関に入ってドアを閉めるなり彼女が謝った。

「まさか反対に回していたなんて……」

 穴があったら入りたいという顔をしていた。わたしは右手を振って、たいしたことではないと伝えた。

「そんなことより、ラファエッロの誕生日という推理が当たったんだから凄いですよ。それに、扉の裏側にも気づいたんだから大手柄です」

 それで話を打ち切ろうと、部屋の中を覗いた。玄関の先は台所だった。四畳半ほどだろうか、小さな冷蔵庫とガスコンロと小型の電子レンジがあるだけだった。

 正面にすりガラスの引き戸が見えた。その先が居間になっているようだ。靴を脱いで、「お邪魔します」と断って上がって、ガラス戸を引いた。すると、壁に立てかけられた何枚ものカンヴァスが目に入った。それ以外にあるのは、押入れの前に鎮座しているソファベッドらしきものとポータブルテレビとラジカセくらいだった。続いて彼女が入ってきたが、わたしの方を見ることもなく、惹きつけられるように一番手前のカンヴァスの前に立った。

「モネ……」

 呟きに誘われて視線をやると、青い水面に睡蓮(すいれん)が浮かんでいた。余りにきれいなのでじっと見ていると、作品の背景について説明してくれた。

「これは国立西洋美術館が所蔵している作品で、松方コレクションを譲り受けたものなんです。正確に言うと第二次世界大戦中にフランス政府に没収されていたものを寄贈返還されたものなんですけど、1916年に描かれた傑作中の傑作と言っても過言ではないと思います」

 もちろん本物ではなく高松さんによる模写だったが、これが本物と言われても疑うことはないだろうというほどの完成度に思えた。

 感心して見ていると、「あらっ?」という声が聞こえた。見ると、彼女が下を向いていた。なんだろうと思ってその視線の先を追うと、カンヴァススタンドの足元に本が2冊並んでいた。
 彼女がそれを両手に持った。表紙に描かれた睡蓮が美しい『ジヴェルニーの食卓』と、屋外に立てかけられたカンヴァスの前を鳥が飛び去る不思議な表紙の『美しき愚か者たちのタブロー』だった。どちらも原田マハの著書だった。わたしが『はまだはま』と早とちりしたあの原田マハだった。そして、高松さんから読むように勧められた本だった。

「ジヴェルニーというのはモネが移り住んだ土地の名前なんです。そこで自分が納得できる庭園づくりを始めました。それだけでなく、セーヌ川から水を引いて池を造って睡蓮を育てたんです。それから、こちらの本は松方コレクションについて書かれたものです。この2冊を読みながら絵を眺めると更に味わい深く感じるかもしれませんね」

 彼女が差し出したので、2冊とも受け取って、表紙をしばらく見てから、絵に視線を戻した。

「高松さんの絵は凄いですね。モネと遜色(そんしょく)ないように見えます」

 彼女は嬉しそうに笑ったが、既に視線はその横のカンヴァスに移っていた。

 不思議な絵だった。密林の中に裸の女性が横たわっていて、その女をライオンのような獣が狙っているし、蛇使いが操るオレンジ色の蛇も女を狙っている。それだけではなく、ゾウの目と鼻が見えるし、猿や鳥が描かれているのも見える。

「ルソーの代表作『夢』です。ニューヨーク近代美術館に所蔵されているもので、1910年頃に制作されました」

 わたしは睡蓮の絵と見比べてから感じたままを伝えた。

「モネとルソーではタッチがまったく違いますね。なのに高松さんは」

 言いかけた時、彼女がかがんで足元の本を拾い上げた。絵と同じものが表紙を飾っていた。『楽園のカンヴァス』だった。

「兄は原田マハさんの小説が好きだったのでしょうね。だからルソーに挑戦したのかもしれません。兄は器用だからどんな絵も模写できてしまうのです。でも……」

 寂しそうな笑みを浮かべて言葉を継いだ。

「器用貧乏だと嘆いていました。どんなタッチでも真似できるけど、それが個性を失くす原因になっていると言っていました。何を描いても誰かに似てしまうのが大きな悩みだったのだと思います」

 器用すぎて個性を発揮できない悩みか……、

 高松さんの顔が思い浮かんだが、その悩みは理解できなかった。しかし、目の前の絵は本の表紙の絵と比べてもまったく遜色ない出来栄えで、器用すぎるということだけは理解できた。

「いっそ贋作作家になろうかと自嘲気味に言っていたこともあるんですよ」

「がんさく、ですか……」

 まさか高松さんが買い手を騙すようなことをしようとしていたなんて、

「もちろん本気で言ったのではないと思いますけど、それくらい追い詰められていたのだと思います」

 不器用なわたしに器用貧乏の悲哀はわからなかいが、この絵に高松さんの苦悩が隠されているのだろうかと思いながらカンヴァスに目を這わしていると、右下に、R.Takamatsuとサインされているのを見つけた。しかし、それは高松さんのファーストネームのイニシャルではなかった。

 もしかして……、

 わたしの視線に気づいたのか、彼女が右手で指差した。

「ルソー・高松です。でもこれは贋作の誘惑に負けそうになったからではなく、ルソーへの敬意の表れだと思います」

 彼女は揺るぎなく言い切った。わたしもその通りだと思った。まったく売るつもりがないからこのようなサインをしたのだ。納得して隣の睡蓮の絵に視線を戻すと、やはり、M.Takamatsuとサインされていた。モネ・高松。わたしは思わずニヤリと笑ってしまった。作者への敬意だけでなく、高松さんの遊び心が感じられたからだ。

 流石! 

 わたしは心の中で拍手を送った。

「ステキ……」

 甘い声が聞こえて我に返った。彼女は3枚目のカンヴァスの前に立っていた。

「『小椅子の聖母』です。ラファエッロの代表作で、1514年頃に描かれたものです」

 高松さんが最も尊敬する画家であり、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並んでルネサンス期の三大巨匠と呼ばれる天才画家ラファエッロが描いた聖母子画だった。
 これが高松さんが〈稀に見る傑作〉と断言した絵だと思うと、モネの絵もルソーの絵も一気に影が薄くなり、釘づけになった。

「トンドと呼ばれる円形画で、聖母子と洗礼者ヨハネが描かれています。その慈しみのある眼差しが多くの人を魅了していますが、それはナポレオンも同じだったようで、彼によって持ち去られたという過去があるのです。でも、その後に返却されて事なきを得たのですけどね」

 今はフィレンツェのピッティ宮殿内にあるパラティーナ美術館に所蔵されているのだという。
 確かにナポレオンを魅了しただけのことはある。聖母マリアの慈しみのある視線から目を離すのは誰にとっても難しいだろう。

「わたしも動けなくなりました」

 マリアに見つめられ、マリアを見つめて、瞬きさえ忘れていたが、「あっ」と言う声が耳に届いて我に返った。見ると、彼女の手が右下のサインを指していた。R.S.Takamatsu。R.S.はラファエッロ・サンツィオの略なのだという。フルネームのイニシャルが最高ランクの尊敬を表しているという。だからこそ彼の弟子になることを望んだのだろう。今頃一緒に絵を描いているかもしれないと思うと、高松さんの嬉しそうな顔が浮かんできて、なんとも言えない幸せな気持ちになった。しかし、鼻をすするような音がそれを打ち消した。