「そうですか……、二つともダメでしたか……」

 彼女の声が落ち込んでいた。

「他に可能性のある数字は思い浮かびませんか?」

 返事はなかった。力なく首を横に振っている彼女の姿が頭に浮かんだ。

「ところで、今どこですか?」

 喫茶店から歩いて5分ほどのコンビニにいるという。そこで落ち合うことにして、電話を切った。

        *

 コンビニの自動ドアが開くと、レジに見慣れた人が立っていた。あの老人だった。

 ヤバイ! 

 わたしはとっさに飲料コーナーの方へ回って身を隠したが、彼女が胸の前で手を振りながら近づいてきたので、唇に右手の人差し指を当てて何も言わないように注意喚起した。事情がわからない彼女は訝しげな表情を浮かべたが、コピペするように右の人差し指を唇に当ててわたしの注意喚起に従った。

 老人がドアから出て行ったのを確認して、事情を話した。かなり怪しまれているから今日はこれ以上近づかない方がいいと付け加えた。
 トイレを借りたあと、歯磨きガムを一つ買って、お釣りをもらいながら店員に近くのタクシー会社の電話番号を訊いた。ぶっきらぼうにドアの外を指差したので、視線をやると、公衆電話が見えた。その中にタクシー会社の電話番号が記されたシールが貼ってあると言う。礼を言って、店を出た。
 電話をかけると、10分ほどでタクシーがやってきた。浜松駅に戻って夕食を取ることにした。

        *

 夕食時の会話は弾まなかった。手掛かりが完全に消えたのだから弾むわけがなかった。わたしはサラダとカルボナーラを、彼女はサラダとマルゲリータを黙々と食べた。グラスで頼んだ白ワインもちょびちょび口を付けるだけなので、食べ終わってもまだ三分の一ほどグラスに残っていた。

 食後のコーヒーを飲みながら話題を探した。このまま気まずく別れたくはなかった。といって高松さんのことに触れるわけにはいかず、どうしたものかと考えあぐねていると、ふと松山さんのことが頭に浮かんだ。彼に託された写真のことだ。これを話題にすればいいのではないか思うと、一気に視界が開けたような感じがした。すぐに写真を二枚財布から取り出して、テーブルの上に置いた。そして、どうしようもできなくて困っていることを素直に打ち明けた。すると彼女は写真を見ながら思案気に首を傾げたが、口を開く切っ掛けにはなったようで、「レディッチですか……」と呟いて、スマホで何かを調べ始めた。

「う~ん、ロンドンからはかなり遠いですね。う~ん」

 それでも何か心当たりがあるのか、一心に左手の人差し指を動かしていたが、「バーミンガムからなら20キロ」と言った途端、「お手伝いできるかもしれません」と明るい表情になった。バーミンガムにはラファエル前派の絵画の世界最大のコレクションがあり、そこに知り合いのキュレーターがいるのだという。なので、その人に頼めば持って行ってくれるかもしれないと言って、目元を緩めた。
 ラファエル前派の絵画がどのようなものか知らなかったが、そんなことはどうでもよかった。いきなり松山さんの願いを叶えるチャンスが舞い込んできたのだ。わたしは前のめりになって頼みこんだ。すると、「向こうが受けてくれるかどうかわかりませんが、取り敢えず写真を預からせて下さい」と、彼女はバッグからメモ帳を取り出して、テーブルに置いた。そして、わたしに確認しながら、松山茂さん、冴島伊代さん、赤ちゃん、イギリス、レディッチ、ジョン・ボ―ナム、銅像の足元に写真を置く、と書いた。そして、そのページに写真を挟んで、バッグに仕舞った。それから、「また電話をしますね」と言って店内の掛け時計を見た。針は20時丁度を指していた。
 慌てて店を出た。20時17分のひかり520号に乗って帰る彼女を新幹線改札口で見送った。別れの顔は暗くなかったが、エスカレーターへ向かって歩く後姿は少し寂しそうに見えた。それはそうだ。鍵を見つけて高松さんの部屋へ入るという目的が果たせなかったのだから当然だ。
 さっきまでは彼女に会えた喜びと松山さんの願いを叶えてあげられるかもしれないという希望でわたしも元気を装っていたが、途端にどっと疲れが押し寄せてきた。成果を手にできなかった落胆はかなり大きく、駅をあとにする足取りは鉛のように重かった。