「右に1回、左に1回ですね。わかりました」
アパートから10分ほど歩いたところにある美容院の横の喫茶店、といっても食堂のようにしか見えない店内で、彼女は囁くような声を出した。周りには誰もいなかったが、声を潜めて告げたわたしに対して同調するような言い方だった。
「番号の予測はつきますか?」
すると彼女は、大丈夫、というような表情で頷いた。
「兄の生年月日だと思います。でも違っていたら私の生年月日かもしれません」
なるほど、その可能性は大いにある。あるが、そんな単純な番号を設定するだろうか?
すとんと腹に落ちてこなかったので、「それも違っていたら?」と訊くと、う~ん、というように眉間に皺を寄せて、「お手上げです」と両手を広げた。その途端、気まずい沈黙に包まれてしまった。しかし、それを甘受するわけにはいかない。
「とにかくやってみましょう」
気まずさを振り払うために敢えて前向きな口調で告げて、立ち上がった。続いて彼女も立ち上がろうとしたが、わたしはそれを手で制した。
「二人で行ったら人目につきます。一人でやってみますので番号を教えてください」
彼女の横へ立って上半身を屈めると、彼女の口がわたしの耳に接近した。
「兄の生年月日は……。私のは……」
彼女の誕生日を聞いて、思わず声を上げそうになった。なんと、自分と同じ誕生日だったのだ。
まさかこんな偶然があるなんて……、
電流が耳から胸へ走り抜けて心の鐘が早打ちを始めた。しかも彼女の甘い香りが耳や髪に纏わりついて、脳が機能麻痺になりそうだった。
ダメだ、ダメだ、こんなことに動揺していてはいけない、
振り払うように頭を振り、彼女の前に左の掌を出し、その上に右の人差し指で数字を書いた。
4つの数字を書き終わると、彼女が小さく頷いた。
「どこかこの辺りでブラブラしていてください。結果はすぐに電話しますから」
わたしは伝票を掴んでレジへ向かった。
店を出ると、空は曇り顔から笑顔に変わっていた。
ひょっとしたら当たりが出るかもしれない。
足取りが軽くなったわたしは、アパートへの道を急いだ。
*
10分後、再びアパートに到着した。郵便受けの前に立つ人は誰もいなかった。前の通りにも人影はなかった。人が出てくる気配を探ったが、何も感じられなかった。
今だ!
音を立てないように郵便受けに近づき、205号室のツマミを指先で摘まんで、右に回して〈3〉で止めた。次に左に回して〈8〉で止め、〈開いてくれ!〉と祈って、ツマミを引いた。しかし、開かなかった。思わず「嘘の38か~」と意味のない言葉が口を衝いたが、その時、2階のドアが閉まる音が聞こえた。
驚いて心臓がひっくり返りそうになった。あの老人かもしれないと思うと、体が固まった。郵便受けの前から離れて倉庫の裏に隠れるしかないと思ったが、靴音が階段を下り始めたので諦めた。わたしはとっさにスマホをポケットから出して耳に当てて階段の方に目をやった。
降りてきたのはあの老人だった。
「そうなんです。まだ帰ってこないんですよ。どうしましょうか……」
目が合ってしまったので誰かと話している振りをしたが、構わず老人が近づいてきた。
わたしは「ちょっと待ってください」と無人の相手に言って、スマホの通話口を手で塞いだ。
「まだいたの?」
完全に疑っている口調だった。
「ちょっと仕事で大事な連絡があるので……」
わたしはスマホに目をやった。老人も視線を落としてスマホをじろりと睨んだ。益々怪しんでいるような目になっていた。
「すみません。もう少しこの辺りで待たせていただきますが、決して怪しいものではありませんので」
しかし、最後まで言わせないかのように老人が口を挟んだ。
「なんならわしが伝えてやろうか」
即座に頭を振った。
「仕事に関する件なので直接伝えます」
言葉が足りないと思って付け足した。
「ありがとうございます。お気持ちは嬉しいのですが」
順番が逆になって変な伝わり方になったような気がしたが、今更どうしようもなかった。
「そう……」
また怪しげな目でわたしの頭からつま先まで嘗め回すように見てから、背を向けた。スーパーへ買い物にでも行くのだろうか、右手に提げたエコバッグをぶらぶら揺らしていた。
老人の姿が見えなくなったので、辺りをもう一度見回して人の気配を窺った。シーンと静まり返ってなんの気配も感じられなかったが、それでも用心しながら郵便受けに近づいた。
ツマミを摘まんで、右に回して〈7〉で止めた。そして、左に回して〈7〉で止め、〈開いてくれ!〉と祈りを込めてツマミを引いた。しかし、またしても開かなかった。びくともしなかった。ラッキーセブンに当たりはなかった。がっかりしたが、ハッとしてその場を離れた。老人が買い物から帰ってくるまでにここを離れなければならない。わたしは先程の喫茶店に向かって歩きながら彼女に電話をかけた。



