浜松駅の新幹線改札口は閑散としていた。月曜日なのでGo Toトラベルを利用する観光客が少ないのかもしれないが、ビジネス客の大幅減少が原因のようにも思われた。今年の春以降、感染防止と経費削減のために出張業務が大きく減っているらしいのだ。

 14時27分、時間通りに〈ひかり〉が到着したようだ。1時間に1本しかないひかりだ。〈のぞみ〉は通過するだけなので、ひかりを乗り過ごすと〈こだま〉しか残っていない。もしこれに乗っていなければ、次の到着は15時19分になる。

 降車した人たちがエスカレーターと階段を下りてきた。その先頭は若い男性で、かなり急いでいるのか、顔が焦っているように見えた。その後ろから夫婦らしき老人が何組かと、小さな女の子を連れた若いお母さんが下りてきた。わたしは目を凝らしていたが、探している人の姿は見えなかった。降りる人が途絶えても、濃紺のパンツスーツ姿の女性は現れなかった。

 5分待った。
 しかし、待ち人は来なかった。

 乗り遅れたのだろうか? 

 あと40分待つことを覚悟して電光掲示板を見上げた。15時19分着のこだま729号名古屋行きを確認して、どこで時間を潰すか考えた。
 すると、改札口の反対側にあるエキマチウエストの中にスターバックスがあることを思い出した。全面禁煙でゆったりと過ごすことができるので、そこでラテを飲むことにした。いつもコンビニで100円コーヒーを飲んでいる身としては贅沢だが、たまにはいいだろう。左手でジーンズの前ポケットに入っている小銭入れを掴んでスタバへ向かった。

 10歩ほど歩いた時だった。「すみませ~ん」という声が背後で聞こえた。振り返ると、改札を抜けようとする女性が手を振っていた。濃紺のパンツスーツ姿だった。

        *

 スタバで彼女と向かい合った。エキナカのトイレが混んでいて時間がかかったことを申し訳なさそうに詫びて、頭を下げた。気にしなくていいと右手を小さく振ったが、電話の件も含めてごめんなさいと再度頭を下げた。あの時は深夜まで保管庫での仕事が続いて連絡ができなかったということだが、それは電話を受けた時に聞いて、もう納得済みだった。
 しかし、彼女は直接謝りたかったらしい。誠実な人柄にちょっと感動した。それに、顔とスタイルが申し分なかった。マスクを外した顔に見惚れた。正に好みのタイプだった。夢の中に出てきた顔とは違っていたが、同い年とは思えない肌の張りに目を見張った。手入れが行き届いていることが男の目でもよくわかった。加えて、丸顔にマッチしたセミロングが似合っていた。笑うと右頬に小さなえくぼが出るのも魅力的だった。それと、ちょっと見しかできなかったが、足がすらっと長く、両膝の間に隙間は見えなかった。理想的なスタイルであることは間違いなかった。
 わたしはエスプレッソに手を伸ばした。ラテでは子供っぽいかなと思って、エスプレッソに変えたのだ。彼女は抹茶ティーラテだった。唇にミルクが付かないように上品に口を付けてから、わたしに視線を戻した。

「お仕事をお休みされたんですよね。兄のことでご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 彼女はまた頭を下げた。これで3回目だ。

「いえ、このところずっと働きっぱなしだったので丁度良かったんですよ」

「そう言っていただけると助かります」

 軽く頭を下げながら、上目遣いにわたしを見た。それがちょっと色っぽかったので体が反応しそうになったが、いやらしさが顔に出ないように口元を引き締めてから本題に入った。

「ところで、お兄さんからの伝言なのですが」

 高松さんから言付かったことをすべて話すと、彼女はわたしの一言一言(ひとことひとこと)に驚きの表情で反応した。

「過去行きの電車……」
「16世紀のフィレンツェ……」
「ラファエッロの弟子……」
「二度と帰ってこない……」

 ゆらゆらと何度も首を横に振って、信じられないというような目でわたしを見つめた。
 それはそうだ。こんなことを信じられる人がいるわけがない。あの時わたしが言った通りだった。「そんなことを言っても妹さんは信用しませんよ」という懸念は当たっていた。高松さんは「大丈夫。私の妹だ。私のことをよく知っている。それに普通の女とは違う。あり得ないことでも理解することができる。だから大丈夫だ。ありのままを伝えて欲しい」と反論したが、それが正しくなかったことは彼女の表情に表れていた。

 彼女が少し落ち着くのを待って、言葉を継いだ。

「高松さんから『今まで貯めてきたお金や身の回りの物を妹に渡したい』と頼まれて、通帳やカード、印鑑をしまってある場所を伺っています。それから、『部屋の中には自分が描いた絵がいっぱい置いてあるから、それも妹に見てもらいたい』とも言っていました」

 しかし、声は返ってこなかった。奇妙な話の整理が付いていないようだった。間が持たなくなったわたしは冷めたエスプレッソを口に含んだ。それを見た彼女も抹茶ティーラテに手を伸ばしてゴクンと飲んだが、キメが粗くなったミルクの泡が唇に付いた。それに気づいて膝の上に置いていたハンカチで軽く拭ったが、口紅が少し取れたのか、チラッとハンカチに目をやった。それでもすぐに、くすっと笑って、視線をわたしに向けた。今までとは表情が変わっていた。

「兄らしいわ」

 そして、〈うふふ〉と歯を見せて笑った。本当に可笑しそうだった。それを見て、高松さんのあの時の言葉も的外れではないかもしれないと思い直した。

「今から行ってみますか?」

 すると彼女は小さく頷いて、バッグから葉書を出し、わたしの方へ差し出した。今年の年賀状だった。表面(おもてめん)に高松さんの住所が書かれていた。その場所は大体の見当がついた。

「浜松は初めてなのでお任せしてもよろしいですか?」

 わたしは頷いて、葉書を持って立ち上がった。